第九話
聖都はケイナン教会の総本山だけあって、聖職者が多い。
悪魔の脅威に晒されているこの時代、信徒は幾らいても足りないくらいだ。
とは言っても、聖都も人間の住む町である以上、聖職者だけでは成り立たない。
「焼き立てのパンは如何ですかー!」
「甘い果実はどうだ! 取れたて新鮮だぞ!」
活気溢れる商人達の声を聞きながらセーレは町を眺める。
ヴェラとも別れ、今は一人だった。
「…ここに悪魔がいるってのに、どいつもこいつも呑気だな」
果実を嬉しそうに齧る子供や、大きめのパンを分け合う親子を眺めながら、セーレは呟く。
五百年前から人類は悪魔と戦い続けている。
賢者カナンを殺した憎い七柱を殺し尽すことが出来ず、人類は次々と悪魔に殺されている。
信徒でもない人間ではバフォメットの一体も殺すことが出来ないだろう。
吹けば消えるような弱い命。
だと言うのに、コイツらは何故笑っている。
「おう。そこのイカす仮面の兄ちゃん! 食後のデザートに果物なんてどうだ?」
「む? この仮面の良さが分かるとは見る目があるな………貰っておこう」
「毎度あり! どれでも一つ、ドラクマ銀貨一枚だ!」
果実を売る商人の男へ銀貨を放り投げ、適当な果実を取る。
悪魔を前にしても商人は危機感の無い笑顔のままだった。
「はぁ…貴様らは悪魔が怖くないのか?」
果実を手の中で弄びながら、セーレはふと疑問を口にした。
「悪魔? 何だ、兄ちゃん。外から来た人間か?」
「まあ、そんな所だ」
「だったら知らなくても仕方ねえな。この聖都は大陸一安全なんだぜ? 悪魔なんて入ってこれねえよ」
臆病な新参者を笑い飛ばすように商人は言う。
その悪魔がここにいると知れば、どんな顔をするだろうか。
「それにだ。仮に悪魔が忍び込んでも、法王様や使徒様達が俺達を守ってくれる」
「…分からんぞ。もし、七柱が全て攻め込んできたらどうする? 法王達も聖都を見捨てて逃げ去るかも知れないぞ?」
「それだけは有り得ねえよ」
豪快に笑いながら商人は言う。
「俺は商人だが、ケイナン教徒なんだ。あの人達は俺達を決して見捨てない。それが賢者カナンの教えだからだよ」
「………」
商人の眼には一切の不安が無かった。
心から法王と使徒を信じているのだろう。
自分の命を預けているのだ。
恐らくそれは彼だけではない。
ここにいる皆が法王を信じているからこそ、この絶望の時代で笑うことが出来るのだ。
「…俺には理解できないねぇ。自分以外の何かを信じることなんざ」
どれだけの時間が経っても、
どれだけの魂を喰らっても、
悪魔には人の心が分からなかった。
「………」
会話を終えて、セーレは噴水の近くに戻る。
手の中の傷一つない果実をくるくると回しながら、息を吐く。
「人間の本を読み、人間の食い物を食い、人間の人生を眺めても、人間のことは分からんな」
「セーレ!」
「お?」
背後から聞こえた怒鳴り声に、セーレは振り返る。
肩を怒らせながらズンズンとこちらに歩いてきたのは、セシールだった。
「これはこれは百合娘。やっと帰ってきたか」
「そ、そのあだ名はやめろー!?」
ボッと一瞬で真っ赤になりながらセシールは悲鳴を上げた。
やっと落ち着いた心が搔き乱され、セシールはプルプルと震えていた。
これ以上言えば、また泣くかもしれない。
「そんなことより! お前、マナ様はどうしたんだ!」
「あの聖女様か?」
セシールに言われ、セーレは首を傾げる。
「少し離れた所に送ってやったが?」
レストランに転送したことを素直に伝えると、セシールは血相を変えた。
「少し離れた所、だと…?」
「何だったら貴様も同じ所に送ってやろうか? 聖女様と同じ所に」
それは完全に善意の発言だったが、セシールはそうと受け取らなかった。
何か勘違いしたのか、わなわなと震える。
「こ、この悪魔め! マナ様をよくも…!」
「…ああ、その誤解を解くのも面倒臭いな」
その発言でセシールが勘違いしていることに気付き、セーレは呆れたように息を吐く。
「人間のことは分からんが、貴様は本当に分かり易いな」
パチン、と指を鳴らすと同時にセシールは転送された。
レストランの前に座標を合わせた為、運が良ければマナと再会出来るだろう。
「セーレさん。お待たせしました」
そんなことを考えていたセーレの前に、小走りでマナが戻ってきた。
見事に入れ違いになったようだ。
つくづく不運な娘である。
「ほれ、やるよ」
「え? わわ…!」
セーレが果実を放り投げ、マナは慌てながらそれを受け取った。
マナは不思議そうに果実とセーレを何度も見比べている。
「レストランに戻るぞ。あの百合娘を回収に行かねばならん」
「百合娘…?」
マナは首を傾げながらも先を進むセーレに続いた。
ケイナン教会の使徒とその従士は、教会に用意された宿舎で生活している。
本来は聖都で訓練を積んだ信徒が『使徒』に覚醒することが殆どだが、マナのように外で暮らしていた者が突然覚醒することもある。
そんな者達が聖都で暮らす為に、この宿舎が設けられているのだ。
「…まさかとは思うが、宿舎の中にまで入り込むつもりではないだろうな?」
宿舎を前にして、セシールは不審者を見るような眼でセーレを見た。
宿舎へと帰ってきた二人に堂々とついてきたセーレは、呆れたように両手を広げる。
「心配せずとも、俺はもう帰るさ」
そう言うと、セーレは懐から黒一色の本を取り出す。
「俺が不在の間はまたコレを授けよう。我がマスターよ。この本は俺だと思って大切にしてくれ」
気取った態度で、マナへ本を手渡す。
大聖堂の時と同様に、セーレを呼び出す機能でもついているのだろう。
「分りました! 肌身離さず、お風呂にだって持っていきます!」
「それはやめて下さい!」
ぎゅっと本を抱き締めながら言うマナに、セシールは慌てて叫んだ。
「そんな物をお風呂に持ち込んだら駄目ですよ!」
「そうだ! 本がふやけたらどうしてくれる!」
「そこではないわ馬鹿! お風呂に持ち込んだらこの悪魔に、の、の、覗かれるじゃないですか!」
セシールは顔を真っ赤にして、憮然としているセーレを指差す。
謂れのない中傷に、セーレの口が不快そうに歪む。
「心外だ! 我、めちゃ心外だ! この我が覗きだと! そう言うのは色欲の領分だ! 我の担当では断じてないぞ!」
何か触れて欲しくない部分だったのか、珍しく本気で激怒しているセーレ。
怒りのあまり、妙な口調になっている。
「大体、貴様らのようなガキの身体などに俺が興味を持つか!」
「が、ガキって…! 私はもう十九歳だ!」
「ふん、十九歳? 十九歳と言ったのか? どうやら貴様は聖女様よりも早く、肉体の成長が止まってしまったようだな!」
「な…!」
「生憎だが、万能と言われる俺にも叶えられない願いはある! 特に貴様の発育不良とかな!」
「こ、殺す!」
挑発されたセシールがナイフを握った時、フッとセーレの身体が消えた。
残された青白い粒子がマナの持つ本に吸い込まれる。
どうやら逃げてしまったようだ。
「二人は仲が良いねー」
「どこがですか! あの悪魔、次あったら絶対に滅ぼしてやる!」
「まあまあ、落ち着いてお風呂にでも入りに行こうよ」
マナに宥められながらセシールは宿舎へと入っていった。




