第八十七話
「資料の見直しだ! 使徒の歴史に関する本はコレで全部か?」
「コレは古語か? 翻訳するには…」
「古語なら私が翻訳出来るわよ。それは私に貸して…!」
サマエルの正体は使徒。
それを知った途端、バジリオ、オズワルド、ペラギアの三人は火が付いたように動き出した。
悪魔に関する資料を床に捨て、現在はテーブルの上に使徒に関する資料ばかり広がっている。
「私達も何か手伝えることは無いでしょうか?」
「無いだろうな。文字もまともに読めねえ聖女様は足手纏いだ」
「し、失礼な! 文字くらいちゃんと読めますよ! 書くのが苦手なだけで!」
とは言っても、マナが手伝った所で何の役にも立てないことは理解していた。
バジリオ達は、一冊の本を取っては数分で目を通して次の本を取る、と言う常人離れしたスピードで作業を進めている。
マナでは一時間かけても一冊の本を読むのが限界だろう。
「聖女様も物凄いことを言ってくれた」
「…そんなにマズイこと言ったかな?」
「理解してないのかよ。貴様は、サマエルの正体が五百年以上生きた使徒だって言ったんだぞ?」
セーレは適当に取った本をパラパラと捲りながら、そう言った。
その隣で何やら青い顔をしていたセシールが、マナの方を向いた。
「五百年以上生きる使徒は限られています。しかも、上位の法術を使う使徒なんて…」
セシールが口にすることを恐れるように、カタカタと震える。
五百年以上前から存在する使徒。
上位法術の知識さえ持つ者。
そんな者は、極少数しかいない。
「…まさか、賢者カナンの弟子?」
「まず、間違い無いだろうな。後から聞いたが、法王の切り札『聖絶』とやらはカナンの弟子しか使えない秘術だったらしい。奴はそれを難なく使っていた」
「………」
全てのケイナン教徒に崇拝されるカナンの弟子達。
その中に裏切り者が存在すると言うのだ。
信心深いセシールにとっては信じたくない事実だろう。
「…さて、そろそろ結論は出たか?」
いつの間にか静かになっていた三人に目を向けながら、セーレは尋ねた。
「結論から先に言うと、弟子の使徒の中にサマエルの正体と思われる人物はいなかったわ」
代表してペラギアはそう告げた。
テーブルの上に置かれた本をパラパラと捲る。
「賢者カナンと使徒ヴェロニカ=アポートルを除く『八人』の弟子は皆、死の記述が残っており、各地に墓も残っているわ。サマエルである可能性は低いでしょう」
「………八人?」
ペラギアの報告に頷きそうになって、マナは首を傾げた。
カナンの弟子は十人だ。
その内、最後の戦いを生き残ったヴェラを除けば、残りは『九人』では無いだろうか?
「そう、八人だ。そもそも、カナンの弟子は全てが使徒と言う訳では無い」
補足するようにバジリオが付け加える。
「使徒なのは九人。最後の弟子だけは、賢者カナンに賛同した普通の人間だった」
何かの本を開きながらオズワルドが重々しく呟く。
賢者カナンの最後の弟子。
十人の弟子の中で唯一、使徒では無かったと言われる人物。
「その名は『シモン=マグス』………法術を生み出した、法術の父と呼ばれる人物よ」
「シモン、マグス…」
「彼だけは、どんな文献を漁っても死の記述が無く、またその遺体も残っていないわ。戦いを逃れてひっそりと寿命で死んだと思われていたけど…」
もし、それが最初から間違いだったなら。
賢者カナンに自身は普通の人間だと告げたこと自体が、嘘だったとするなら。
シモンは行方を眩ませた後も生き続けたのだろう。
サマエルと名を変えて。
「法王以上に法術を使いこなすのも当然か。何せ、そもそも法術を編み出したのは奴自身なのだから」
「………」
『ギヒヒ…ギャハハハハ! 人間は本当に愚かですねェ! その力が誰に与えられたかも知らず、どんな物かも理解せずに使い続ける!』
マナの脳裏に、サマエルの嘲笑が過ぎる。
アレは、こう言う意味だったのだ。
サマエル自身が編み出した法術でサマエルを倒そうとする人間の滑稽さを嘲笑っていたのだ。
「全く、とんだスキャンダルだ。教典も書き直さないといけねえな」
「そんなことを言っている場合か! 伝説の悪魔と言うだけで最悪なのに、それが賢者カナンの弟子だったなんて…!」
悲鳴を上げるような声でセシールは叫んだ。
混乱の極みにあるセシールとは対照的に、セーレは落ち着いた様子で笑みを浮かべる。
「悪魔じゃねえさ。奴は使徒だ。例え悪魔を生み出そうと、魔性を操ろうと、その事実は変わらない」
ニヤリと笑ってセーレは黙っているバジリオ達へ目を向けた。
「無敵の悪魔ならどうにもならないが、ただ強いだけの使徒ならどうとでもできる。そうだろう?」
「…確かに。今まで奴に法術が通用しなかったのは、単に相手が悪魔であると勘違いをしていたから」
「相手が使徒であると言う前提で戦術を組めば…」
考え込むようにバジリオとペラギアが唸る。
この発見は大きな進展だ。
サマエルは正体不明の怪物では無い。
マナやバジリオと変わらない、一介の使徒に過ぎないのだ。
そうであるなら、対策など幾らでも思いつく。
「俺に一つ、策がある。奴が悪魔で無いのなら、確実に殺せる秘策だ」
自信満々に笑みを浮かべながら、セーレがそう告げた。
その言葉には確信があった。
思わず、この場にいる全ての人間がセーレに注目する。
「それは…」
同じ頃、とある村に異変が起きていた。
「空が…?」
人々が不思議そうな表情で遠くの空を眺めている。
大人も子供も、村中全ての人間が外に出て首を傾げていた。
「何だアレ? 雲、か?」
「近付いて来ている、みたいだけど…」
雲のようにも煙のようにも見える、黒い何か。
遠くから見ればゆっくりと、実際は矢よりも速く近付いて来ていた。
「あ…」
最初に気付いた誰かが声を上げた。
それは、雲では無い、煙でも無い。
密集して暗い雲のように見えていたそれの正体は、無数の『蟲』
女の顔と蝗の体を持った、悍ましい怪物。
その体長は二メートルを超え、耳障りな羽音を発てて人々へと襲い掛かった。
「に、逃げ…!」
誰かが上げた声は、三百を超える蟲達の羽音で掻き消された。
蟲は草木にも作物にも眼を向けず、ただ人間のみを選んで殺し続けた。
捕らえた人間は頭から貪り、逃げる人間は尾の毒針で突き刺した。
「や、やめて…! ああああああああ!」
「来るな、来るなよ…! 来るなァァァァァ!」
蟲に心は無い。
慈悲も無く、快楽も無く、ただ機械的に作業を終えていく。
村を出て逃げようと、追い付いて殺す。
家に隠れようと、見つけて殺す。
誰一人として、生かしはしない。
「…まるで、サマエルが増殖したみたいだな」
殺戮が続く中、シュトリはうんざりするような表情で呟いた。
実際、この蟲はサマエルの分身なのだ。
ソドムで解呪に専念しているサマエルが一時的に解放した三百の悪魔。
サマエルから離れても蟲達に自由意志は無いのか、役目の終わった蟲からソドムへと帰っていく。
「悍ましいな。こんな物を腹の中に飼うなんて、我輩なら断固拒否するよ」
シュトリは心底気持ち悪そうに言う。
この蟲をサマエルが体内に戻す光景を見た時は、流石に吐きそうになった。
仮にもシュトリの兄弟になるのだから、もう少し造形はどうにかならなかったのか。
「…?」
その時、ソドムへと帰っていく蟲の羽音に混ざり、奇妙な音が聞こえた。
思わず、そちらへと目を向けると崩壊した家の下に、一人の少女が隠れていた。
「…ッ!」
シュトリと眼が合った瞬間、少女の顔が恐怖に引き攣った。
蟲達に襲われないシュトリが、ただの人間では無いと理解したのだろう。
(ああ、嫌な物を見つけちゃったな。我輩の立場としては、殺した方が良いんだろうけど…)
正直、気が進まない。
まだ年若い少女が蟲に貪り喰われる光景など、見たいとは思わない。
とは言え、例え見逃しても少女の命は風前の灯火だ。
すぐにでも蟲に発見され、頭から喰われてしまう。
(仕方ない…)
一人くらい生かしても、サマエルは気付かないだろう。
この殺戮は終わるまで傍に置いておけば、殺されることも無い筈。
そう考え、シュトリは少女へと近付いた。
「こ、来ないで…」
「声は出さない方が良いよ。アイツらに気付かれ…」
安心させるような笑みを浮かべてシュトリは少女を宥める。
しかし、少女の顔は変わらなかった。
「私に近寄るな、悪魔!」
「なっ…」
衝撃を受けたようにシュトリの足が止まった。
心を抉るような言葉に、シュトリの顔面が蒼白になる。
『私に近寄るな、悪魔!』
少女の言葉が、その言葉が………『誰か』の言葉と重なった。
シュトリの心に深い傷を残した言葉。
忘れ難い記憶が、シュトリの脳裏を焼く。
「ッ! 待っ…!」
我に返った時には、既に少女は走り出していた。
慌てて声を上げたが、遅かった。
「あ、ああああああああああ!」
大声を上げた少女は蟲に捕まり、頭から貪り喰われてしまった。
絶命した少女の眼が、シュトリを見つめる。
怪物を見るような、その眼が。
「…我輩も、同じなのか」
悍ましいと評したこの蟲達と何も変わらないのか。
人間から見れば、シュトリもこんな化物に見えるのか。
悪魔とは、そんなに醜い存在なのか。
「なあ、教えてくれ………セシリア」
かつて愛した者の名を、呼んだ。




