第八十三話
『別に特別なことは何も無いんだよ?』
何でもないことのようにカナンは言った。
『シモンやアンナなんかは僕を神の代理人だ、なんて大層なことを言うけど、そんなことは無い』
『でも、あなたには神の声が聞こえるのでは無いですか…?』
ヴェラは恐る恐るそう尋ねた。
カナンの権能は『神の代理』
彼は神の声を聞くことができ、その声は常に苦しんでいる人々の場所を告げていた。
事実、今まで彼の言葉が間違っていたことは一度も無かった。
『それはシモンから聞いたのだろう? 彼はいつも誇張した話を広めるから』
『え?』
『僕は一度だって神の声を聞いたなんて言ったことは無いよ。僕だって、ただの人間なのだから』
カナンは苦笑を浮かべてそう言った。
神の生まれ変わり。神の代理人。
そんな様々な言葉で評されるカナンが、自身を人間と称した。
『神様は誰かを特別扱いしない。きっと僕が死んだとしても、神様は何も悲しむことなく、次の代理人を探すだろうよ』
『…そんな』
カナンの言葉はあまりにも救いの無い言葉だった。
使徒は神の祝福を得て、人々を救う存在だ。
我々の信じる神が人を救わないと言うのなら、一体何を希望にして生きれば良いのか。
『僕はね。それで良いと思うんだ』
愕然とするヴェラに笑顔を向けながらカナンは言った。
『あれをしろ、これをしろ、って一から十まで神様に従って生きる。そんな僕らは本当に生きていると言えるのかな?』
『それは…』
確かに、それでは生きているとは言えないだろう。
何も考えず、平和であれど自由の無い人生。
始まりから終わりまで決まっている一生。
そんな物は、例え幸福であっても地獄と変わらない。
『…でも、私達は迷います。間違いを犯します。それなのに、神は何一つ応えてくれないのですか?』
『その通りだよ。罪も罰も、行うのは人間だ。神は何も干渉しない』
カナンは断言するように言った。
『それはきっと、神様が人間に期待しているから』
『期待、ですか?』
『そう。人間は迷うだろうし、間違いも犯す。だけど、最後にはきっと正しい道を行く。そう信じているから神様は人間の前に現れないんだよ』
期待しているからこそ、干渉しない。
信じているからこそ、救わない。
誰よりも神に近いと称される人間は、神をそう評した。
『人間を救うのはいつだって同じ人間だよ。僕がしていることは何も特別じゃない。誰だって持っている小さな善性に従っているだけなんだ』
神に選ばれた使徒だからでは無い。
ただ普通の人間として、当たり前に人を助ける。
怪我を負った他人を見過ごせないような、小さな善性。
そんな誰でも持っている温かな心を信じていた。
『………』
その時だった。
この人の様になりたいと思ったのは。
特別な力が欲しい訳では無い。
ただそんな風に、当たり前のように人を救うことが出来る人になりたいと思った。
「お…おおおおォォ…!」
光が収まった瞬間、サマエルの声が辺りに響いた。
右腕でヴェラを貫いたままで固まるサマエルの身体が、足下から石化していく。
「…聖都を護っていた全ての力をあなた一人に集中しました。あなたはもう逃げられません」
「ッ…」
自らの身体が石に変わっていく姿を見せられながらも、サマエルは指一本動かすことが出来ない。
両足と両腕に赤水晶の槍が打ち込まれているからだ。
貫いた対象を塩の塊へと変える能力は発動していないが、両手足を封印されてしまえばサマエルであっても簡単には抜け出せない。
それを壊そうと力を込めている内に、石化の侵食は進んでいく。
「…く」
サマエルの表情が歪んだ。
その黒く濁った眼がヴェラを映す。
「くくく、ギャハハハハ! 大した悪足掻きだ! 流石の私もコレは一日二日では抜け出せません! 大金星ですねェ! おめでとう!」
既に下半身全てを石化されながらも、サマエルは嗤った。
コレだけ犠牲を払っても、その余裕は崩れない。
「だが、所詮はその程度です。一日二日で足りないのなら三日かければ良い。一週間だって良い。それだけの時間があれば、私はこの石化を解呪出来る」
「………」
「お前のしたことは私をほんの少しの間、封印しただけ………ああ、最初からそれが目的ですか」
納得したようにサマエルは一人頷いた。
元よりヴェラはこの方法でサマエルを殺せるとは思っていない。
コレは時間稼ぎだ。
人類がサマエルを倒す手段を得るまでの時間を稼ぐ為、ヴェラは自身を犠牲にした。
「愚か。愚かですねェ! お前が死に、人類は絶望する! お前が思っている程、人間は強くないのですよ! ヴェロニカ=アポートル!」
「それは、皆が証明してくれます」
「…ハッ! 良いでしょう。私もコレで終わるのは味気無いと思っていた所です。ここは素直に退いてあげましょうか」
既に肩まで石化したサマエルは視線を周囲に向ける。
血が垂れる程に歯を食い縛るセーレ、涙を流しながら見つめるマナ、ただ恐怖に引き攣った表情の人々を見て嘲笑を浮かべた。
「さらば、愚かな人間諸君。この女のお節介な献身により、諸君らの苦しみは一週間ほど延長した!」
サマエルの石化した身体が光に包まれる。
「私は再びこの地に現れ、必ず全ての人類を滅ぼす! 私と相まみえるまでに自ら命を絶つことが唯一の救いであると思え! ギヒヒ…ギャハハハハ!」
最後にそう言い残し、サマエルは光の中に消えていった。
「ヴェラさん!」
サマエルが消えた途端、糸が切れたようにヴェラの身体が揺れた。
慌てて走り出すマナより先に、青白い粒子が駆ける。
「セーレ、さん…?」
「…ッ!」
地面に叩きつけられる直前に抱き留めたセーレは、何も言うことが出来なかった。
満身創痍の身体を無理やり動かして転移したが、それだけだ。
もうヴェラは助からない。
それが一目で分かった。
分かってしまった。
「…クソ、が!」
自分は一体何をしていた。
サマエルに手も足も出ず、ヴェラが殺される光景を床に這い蹲って見ていることしか出来なかった。
後悔と喪失感から、セーレは何も言葉を発することが出来ない。
「そんな顔を、しないで下さい」
ヴェラはセーレを安心させるように笑みを浮かべた。
酷い火傷を負った手で、セーレの頬に触れる。
「私は、この結果に満足しています。皆を護れた。あなたを、護ることが出来た」
「…ッ! 俺は悪魔だ。奴と同じ人類の敵だ! そんなことをする義理なんて無い筈だ!」
何故、自分までを護ろうとしたのか。
セーレは悪魔だ。
ヴェラの忌み嫌う悪魔である筈だ。
「私はあなたのことを人類の敵だと思ったことはありませんよ?」
「…何故」
「私は昔、あなたに救われたことがあるんです」
ヴェラはそう言って笑みを浮かべた。
大切な思い出を語るように、穏やかな表情だった。
「その時から、私にとってあなたが大切な人であることは変わりません………例え、あなた自身がそれを忘れていたとしても」
「………」
「あの日。あなたに再会出来た時、私は神の奇跡を信じた。あの時、どれだけ嬉しかったか…」
きっとセーレはヴェラの言っていることを殆ど理解していないだろう。
だが、それでも良かった。
この気持ちは、大切な思い出はヴェラだけの物。
どれだけの時が流れても、それだけは色褪せないのだから。
「ヴェラ、さん…」
「…マナさん。いつも辛い役ばかり押し付けてごめんなさい」
「そんな、こと…」
謝罪するヴェラの姿に、マナは涙を流す顔を背けた。
何かを言おうとしても言葉にならず、身体を震わせている。
「お願いします。どうか、皆を護って下さい。あなた達なら、それが出来る筈…」
「…悪魔は人間を護ったりしない」
セーレはあまり感情を込めずにそう言った。
「だが、サマエルを殺すのは俺だ」
「…ふふふ」
その言葉に心から安堵したようにヴェラは笑った。
「ありがとう…」
それが、最期の言葉だった。
ヴェラは穏やかに微笑みながら、その長い人生の幕を閉じたのだった。




