第七十一話
三年前のあの日、姉は村を去った。
悪魔から妹を護ったことがきっかけで、聖都へ迎えられた。
悲しかった。寂しかった。
幼い妹には、何故姉がいなくなるのか理解できず、泣き喚いた。
『サロメ。お姉ちゃんは少しの間、離れるだけさ。すぐにまた会えるよ』
父親にそう諭され、サロメは何とか泣き止んだ。
幼いサロメにも、少しだけ分かっていた。
姉は自分達の為に、村を去ったのだと。
サロメは今まで姉が我儘を口にした所を見たことが無かった。
貧しく、まともに食べ物が食べられない日が続いても、姉は笑顔でサロメに食べ物を譲ってくれた。
そんな優しい姉が、サロメは大好きだった。
『サロメ、マナから御馳走が送られて来たんだ。お姉ちゃんに感謝して食べなさい』
村を去ってから、姉は一度も帰って来なかったが、度々お金とお土産を送ってくれた。
出来れば手紙のやり取りをしたかったが、姉もサロメも字が書けなかった。
だから感謝の言葉は、心の中で呟いた。
普通の食事が取れるようになりました。
お姉ちゃんありがとう、と呟いた。
『………』
一年が過ぎた。
姉はまだ帰って来ない。
家には変化が起きていた。
毎日、お祝いの時しか食べないような御馳走ばかりが並ぶ。
姉が聖都に行く前は想像したことも無いような食事だったが、毎日食べていればそれも慣れる。
最初の頃は喜んでいた父親も、段々と何も言わなくなっていった。
『………』
更に半年が過ぎた。
食に飽きた父親は、今度は酒を買い漁るようになった。
今まで父が酒を飲む所は見たこと無かったが、本当は酒好きだったのかも知れない。
その頃になると、父親は働くことをやめて一日中酒を呷るようになった。
姉から送られてくる大金を見て、働くことが馬鹿らしくなったのだ。
父は誠実な人間だったが、聖人ではない。
楽な道があれば、思わず流されてしまう俗人だった。
『………』
当然、止めようと努力した。
贅沢することを諫めたり、酒を隠したりした。
しかし、全て無意味だった。
生まれて初めて、父に顔を殴られた。
酔った父は今まで見たことない顔で、サロメを罵倒した。
父は変わった。
外見もそうだが、心が堕落していた。
『…どうして』
こんなことになってしまったのか。
何がいけなかったのか。誰のせいなのか。
『さて、誰のせいでこうなったと思いますか?』
その時、声が聞こえた。
周囲には誰もいない。
もっと近く、自身の心の中から声が聞こえた。
『だ、れ…?』
『誰でもないですよ。無益で無価値な、亡霊です』
男のようにも女のようにも聞こえる声は、可笑しそうに笑った。
『私はあなたの味方です。あなたを護り、あなたの敵を滅ぼして差し上げましょう』
『敵って…』
『さあ、あなたを苦しめる者は誰ですか? 毎日あなたに暴力を振るう愚かな父か。家族の異変に気付かない無能な姉か』
その声は脳を溶かすように甘かった。
差し伸べられた手は、聖人の救いの手のように見えたが、悪魔の堕落の手だった。
『取り繕うな。私に嘘は通じぬ。あなたの憎しみを、怒りを、その悪意を私に聞かせなさい』
心が暴かれる。
サロメの意識が沈み、代わりに暗い感情が浮かび上がる。
『い、や…』
嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ。
そんなことは望んでいない。そんなことは考えていない。
変わっていく、乗っ取られていく。
誰か、誰か助けて。
『………姉、さん』
「ッ!」
マナは跳ねるように目を覚ました。
恐ろしい悪夢を見た。
いや、アレは本当に夢だったのだろうか。
「…ベリアル」
それが、あの悪魔の名前。
サロメに取り憑き、その身体を操っている者の正体。
ベリアルは、サロメは自分の中にいると言った。
魂を喰らったのではなく、同化しているのだと。
つまり、サロメはまだ生きている。
セーレの言うように、ベリアルから肉体を取り戻せばサロメは元通りになるのだ。
「………」
ベリアルは一体、何を考えているのだろうか。
以前、悪魔が子供に取り憑くのは使徒から身を隠す為だと聞いた。
それにしてはベリアルの行動は目立ちすぎる。
七柱と手を組み、聖都を襲撃するなど、明らかに別の目的があるように見える。
ベリアルは、サロメの悪意と同化していると言った。
当初、マナに執着していたのもサロメの影響だろう。
だが、現在のベリアルはマナにすら関心が薄いように思える。
自我を持たないと称したベリアル自身にも何か別の目的があるのだろうか。
「分かんないな…」
「何か悩み事か?」
「…当然のように出て来ないでよ。びっくりするじゃん」
真新しいベッドの上で悶々としていたマナの声に、セーレが答えた。
乙女の部屋に、一体いつから忍び込んでいたのか。
「寝起きなんだから、あんまりじろじろ見ないでよ」
「ハッ、聖女様がそんなことを気にするとは思わなかった。随分、人間らしいことを言うようになったじゃないか」
「人間らしいも何も、私は初めから人間だよ。まあ、少し変な所があるとは自覚しているけど」
「少し、ね…」
勝手に椅子に座りながら、セーレは失笑する。
今日は仮面を付けておらず、素顔を晒していた。
「ねえ、ベリアルのこと、セーレは知っていたの?」
「…あの愚妹に悪魔が取り憑いているのは前から言っていただろう。だが、あのベリアルとか言う悪魔については何も知らんな」
セーレはサロメの身体に巣食う悪魔のことを思い浮かべながら呟く。
「人に取り憑かなければ自我を保てないほど弱いなら恐らく、生まれて間もない下級悪魔だろう」
「悪魔と契約して悪魔になった人間ってこと?」
「若しくは、襲われて魂だけを喰われた人間かもな。残った骸が、悪魔化することもある」
セーレがベリアルを見て最初に感じたのは、彼女が『弱い悪魔』だと言うことだ。
元人間であるオセよりも、下手すればバフォメットよりも、感じられる力が弱かった。
単体では存在出来ない程に、存在感が希薄。
今はサロメに取り憑くことで自我を保っているが、肉体を失えばそのまま消滅してしまうだろう。
「前にも言ったが、弱い悪魔が人間に憑依するのは珍しいことじゃない」
「…うん」
「だが、それがここまで大事を引き起こすのは稀だ」
弱い悪魔と言うのは、知性も自我も弱いと言うこと。
悪霊とも称される彼らの行動は基本的に無害だ。
取り憑かれた人間は多少性格が悪化するかも知れないが、自らトラブルは起こさない。
彼らの目的は『死なないこと』である為、自ら荒事に首を突っ込んだりしない。
「そこ、だよね。何でベリアルは、七柱と手を組んだのかな」
「………」
もう一つだけ、セーレには気になることがあった。
ベリアルは比較的若い悪魔だ。
恐らく、ここ数年の間に生まれた悪魔だろう。
ならば、
そのベリアルを作り出した悪魔は、一体誰なのだろうか?
「ありがとう。シュトリさんのお陰で、上手く行きそうだよ」
廃都ゴモラにて、ベリアルは笑顔で礼を言った。
その目の前には、神殿のような彫刻があった。
悪魔か何かを模した屋根を石の柱で支えるように作られた怪しげな建造物。
屋根の部分に作られた七つの彫刻は、それぞれ七柱の悪魔を表している。
「…本当に『コレ』を使う気かい?」
「使える物は何でも使いますよ。『彼』だって、あなたと同じ七柱の仲間では無いですか」
「こいつは危険だ。解き放たれれば、敵味方の見境なく、全てを喰らうだろう」
「ならば、丁度良いじゃないですか。法王と共倒れになって貰いましょう」
「………」
シュトリは警戒した目でその建造物『檻』の中を見つめる。
そう、コレは神殿ではなく檻だ。
石の柱と刻まれた術によって封印された檻である。
「…君は一体、何を望んでいるんだ?」
「私の望みは以前、言った筈ですが?」
「君の計画でシャックスは死んだ。オセも死んだ。姉に復讐したいと言ったが、それも嘘だろう」
シュトリは冷たい眼でベリアルを睨んだ。
背筋が凍り付くような殺気を浴びながらも、ベリアルは息を吐く。
「私は悪魔として、正しいことをしているに過ぎませんよ」
「…それは?」
「『人類の敵であれ』」
ベリアルは三日月のように口を歪めて、そう言った。




