第四十三話
「LA―――Ar―――」
女神の如き声でアンドラスは歌う。
思わず聞き惚れてしまう美声でありながら、人を死地に誘い込む魔性の声にも聞こえる。
「アンドラス…」
マナは静かに空を舞うアンドラスを見上げた。
彼女の名は、ケイナン教会では知らない者はいないとされる程に有名だ。
古くは賢者カナンの時代まで遡り、サマエルの右腕として何度も使徒を苦しめた。
サマエルの死後はその跡を継ぐかのように、大量殺戮や破壊活動を続け、最も多くの使徒を殺害した。
人間によく干渉するシュトリやセーレを上回る危険性を持つ、史上最強の悪魔である。
「貴様、こんな場所に何の用だ」
絞り出すようにセーレが呟いた。
その声に違和感を覚えて、マナはセーレへ視線を向ける。
(…セーレが、怯えている…?)
セーレから僅かに恐怖のような物を感じ、驚愕に目を見開く。
そんなマナの視線にも気付く余裕もなく、セーレは真剣な目でアンドラスを睨んでいる。
あのセーレが、アンドラスを恐れているのだ。
「LA―――Ar―――」
「…聞こえているんだろう、嫉妬のアンドラス。それとも、ただ歌いに来ただけなのか?」
挑発するようなセーレの言葉に、アンドラスはようやく歌を止めた。
じろり、と上から見下ろすようにセーレに視線を落とす。
「―――私を、その名で呼ぶなと前に言ったでしょう」
やや不機嫌そうに、アンドラスは顔を顰めた。
「完全無欠であるこの私は、他者を妬んだことなど無いわ。私に『嫉妬』を授けたのはサマエル様唯一の間違いね」
「…そうか。そうだったな、悪い」
「どうせ呼ぶのなら『皆殺しのアンドラス』と呼びなさい。使徒共がつけた安直な名だけど、嫉妬よりはマシだわ」
命令するように言い切ると、アンドラスはセーレから視線を外す。
そして、まるで見えていないかのようにマナとセシールを無視して、シュトリを見つめた。
「シュトリ。私をソドムから呼びつけたのは貴方でしょう。何の用かしら?」
「…是非、紹介したい者がいてね。それで君に声をかけたんだよ、ドラスちゃん」
普段通りの軽い口調だが、シュトリですらぎこちなく見えた。
二人の悪魔から恐れられるアンドラスは、また不機嫌そうな表情を浮かべる。
「その紹介したい者と言うのは、そこにいる虫けらじゃないわよね?」
僅かに殺意すら滲ませて、アンドラスはマナとセシールに初めて視線を向けた。
「違うよ。彼女らは我輩の娘と、セーレの契約者でね」
「娘に、契約者ね…」
二人を冷めた目で眺めた後、アンドラスは自身の翼に手を入れる。
ずるずると音を発てて、それを引き摺り出し、二人の前に放り投げた。
「…え?」
目の前にゴミのように棄てられた『それ』を見て、マナの口から声が零れた。
生気を感じられないその女は、アンドラスとは対照的に、白のドレスに身を包んでいた。
首から下がった一枚の銀貨に、見覚えのある灰混じりの金髪。
それは、テレジア=フレールの遺体だった。
「関係ないわ。虫はすぐに潰す」
冷徹にそう言うと、アンドラスの姿が消えた。
黒い羽根を散らしながら、テレジアの遺体を前に言葉を失うマナの背後に瞬く間に移動する。
マナが気づく前に仕留めようと、鳥類を思わせる爪を振り上げた。
「チィ!『空間切断』」
それがマナを両断する前に、間に入ったセーレが十字型の光を放つ。
まさかセーレが庇うとは思わなかったのか、不思議そうな顔をしたアンドラスの身体が光の刃によって切り裂かれた。
「やった…!」
「いや、外した」
セシールの声に、セーレは苦虫を嚙み潰したような顔で吐き捨てる。
言葉通り、バラバラに切り裂かれたアンドラスの身体はまるで空間に溶けるように消えていく。
「驚いたわね。まさか、虫を庇うとは思わなかったわ」
そう呟いた時には、アンドラスは先程と同じ位置に浮かんでいた。
セーレに切り裂かれたことなど嘘のように、その身体には傷一つない。
「転移…?」
「違う。今のは奴の『素の速度』だ。消えた幻は、奴の悪法の…」
「今度は虫と仲良くお喋り? セーレ、少し見ない内に悪趣味に拍車が掛かってきたわね」
つまらなそうに爪を鳴らしながら、アンドラスはため息をついた。
「…その使徒の従士も殺したのか」
「ええ、そうよ。使徒共の絆なんて脆い物。私の悪法を使えば、簡単に殺し合ってくれたわ」
アンドラスは急に機嫌を良くしたように笑みを浮かべた。
地を這う虫を残虐に潰す子供のような笑みだった。
「姉弟が互いを敵と誤認し、殺し合う。素晴らしい光景だったわ。二人の弟に背後から刺された時のコイツの顔ときたら……あはは、はははははは!」
天使のような美貌を醜悪に歪めてアンドラスは嗤う。
「どうして、どうしてこんな…!」
マナはテレジアの遺体を一瞥し、涙ながらに叫んだ。
悪魔が魂を喰らうことは知っている。
セーレも、シュトリも、シャックスも、今まで多くの人間を殺してきたことは知っている。
それでも、そこには『理由』があった筈だ。
理解できないながらも、彼らなりの理由があって、人間を殺していた筈だ。
だが、アンドラスにはそれが無かった。
魂を喰らうことなど二の次。
ただ殺したいから殺しているだけだ。
「…虫けらが、この私に話しかけるな」
汚物でも見るような眼でアンドラスはマナを見た。
「悪魔が人間を殺すのに理由がいるかしら? 我々は『人類の敵であれ』とサマエル様に願われ生まれた。ならば、その本懐を果たすのが忠誠と言う物」
「…その狂信っぷりも相変わらずだな。忘れたのか、もうサマエルはとっくに死んだんだぞ?」
「そう。そうね。サマエル様は死んだわ…」
セーレの言葉に、アンドラスは顔を歪めた。
涙を堪える様な表情を浮かべた後、それを憎悪に変える。
「使徒共に、殺された!」
バサッとアンドラスの黒い翼が大きく広げられる。
「だから私は復讐する! 使徒を殺し尽し! 残る人間を支配し! 悪魔だけの世界を作る!」
「ッ!」
「それが私の復讐だ! サマエル様に捧げる忠誠だ!」
並々ならぬ憎悪を放ちながら、アンドラスは翼を羽搏かせる。
四百年経っても尽きない創造主に対する忠誠。
自分からそれを奪った使徒達への憎悪。
それが、アンドラスを突き動かす感情の正体だった。
「『空間捕縛』」
激情に目が曇った隙をつき、セーレは青白い粒子を放つ。
結合された半透明の青い箱は、アンドラスの身体を包み込んだ。
「ハッ、捕えたと思った?」
不敵な笑みを浮かべたアンドラスの身体が、再び溶けるように消える。
「また消えて…!」
「ああ、アイツの悪法は『嫉妬』…」
歯噛みしながらセーレは言う。
「その能力は『認識』を操ることだ。一枚の羽根を本体と誤認させたり、本体を別の存在に誤認させたりすることが出来る」
敵に幻覚を見せる能力では無く、認識能力自体に干渉する呪い。
そこに誰もいなかったとしても、そこにアンドラスがいると誤認してしまう。
眼も耳も、何も情報を得ていないと言うのに、脳の情報を書き換えられる。
例え千の使徒がいたとしても、誰にも気付かれることなく一方的に虐殺出来る能力だ。
正に『皆殺し』の名に相応しいと言える。
「チッ、相性が悪い。だから貴様とはやり合いたくないんだよ」
転移を使用するセーレにとって、アンドラスの悪法は相性最悪だ。
姿を消されてしまえば、攻撃することも敵わず、転移して逃げるにしても敵がどこにいるか分からない。
「…俺から離れるなよ」
セーレはマナとセシールを近くに引き寄せながら、先程までアンドラスがいた方へ指を向ける。
その人差し指に魔性を集中させる。
それに合わせるように、セーレの周囲に黒い弾丸が次々と形成されていく。
「撃て!『三十の魔弾』
魔性から作られた弾丸が同時に放たれる。
狙いなど考えていない。
どこかに隠れているアンドラスに一発でも当たれば良い、程度の考えだ。
「ガキ共、退くぞ」
アンドラスの相手をまともにするつもりは無い。
この隙に逃げ出そうと、セーレは粒子を展開する。
「『九十の魔弾』」
「なっ…」
どこからともなく聞こえた声に、セーレは絶句する。
放たれたのは、闇雲に撃ったセーレの弾丸の三倍。
九十の弾丸が、雨のように降り注ぐ。
「くそ、が…!」
丁度、マナとセシールの前に立っていたセーレに無数の弾丸が浴びせられる。
矢を超える速度で放たれた弾丸は、セーレの肉を抉り、骨を砕いた。
穴だらけになった身体から血を流しながら、セーレは膝をつく。
「せ、セーレ!」
背に庇われたマナが心配そうに声を上げるが、セーレは答えない。
荒い息を吐きながら、ただアンドラスを見上げる。
「無様ね。ゴミなんかを庇うからよ」
「誰が、誰を庇うって? そんなつもりは、ねえよ」
「…そう。どちらにせよ。サマエル様の命令を果たせない悪魔は要らないわ」
アンドラスは止めを刺そうと、片手を振り上げる。
「ハッ、もう死んじまった奴の為に働いて、何になるんだ?」
ぴたり、とアンドラスの動きが止まった。
聞き捨てならない、と不快そうにセーレを睨み付ける。
「人類を滅ぼして、何になる? その次に待っているのは、悪魔の破滅だ。人の魂を喰らう悪魔は、人間がいなければ生きていけない」
「………」
「サマエル様の為。悪魔の世界を作る為。そう言っているが、実際はただの復讐だろう。ただ、サマエルを殺されたことが悔しくて、サマエルを救うことが出来なかった自分が苦しくて…」
アンドラスが抱いているのは、ただの復讐心。
だからこそ、その先の未来を考えていない。
後のことなど考えず、ただ使徒を殺し尽すことのみを望んでいる。
「くはは、まるで人間みたいだぞ」
「黙れ!」
遂に激怒したアンドラスが大きく翼を広げる。
攻撃を仕掛けようとしているのは分かるが、そこにいるアンドラスが本体であると言う確証もない。
今から転移を始めた所で、アンドラスの身体能力なら簡単に阻止することが出来るだろう。
「『マナ=グラース』」
なので、セーレは『人間』の力を借りることを決めた。
初めて名前を呼ばれたことに驚きながらも、マナはすぐにセーレの狙いを悟る。
セーレが頼りにするマナの力など、一つしかない。
「権能『神の慈悲』」
地下空間に黄金の風が吹き荒れる。
薄暗い空間を、黄金の光が包み込む。
「何? 悪法が…?」
攻撃を仕掛けようとしていたアンドラスが動きを止めていた。
状況が理解できず、悪法が解除されたことに動揺している。
つまり、そこにいるアンドラスは本体だ。
「よし、権能を解け!」
「分かった!」
セーレの言葉に、マナが頷くと同時に黄金の光が消える。
「『空間捕縛』」
「しまっ…!」
動きの止まったアンドラスを捕えるように、半透明の青い箱が出現する。
コレで完全にアンドラスは動けない。
アンドラスを捕えると同時に、セーレは転移を発動させる。
「使徒と手を組むんだのか! この、不忠者め!」
怒りのままにアンドラスは爪を振るい、その度に青い箱に亀裂が走る。
(素手で空間の壁をぶち破る気か!?…どこまでも、化物だな!)
アンドラスの出鱈目さに冷や汗を流すセーレの耳に、バキバキと嫌な音がした。
空間を閉鎖して作られた青い箱に大きな亀裂が入り、そこからアンドラスの手が外に出ていた。
「セーレェ!」
砕けた部分から鋭いギロチンのような羽根が放たれる。
それは真っ直ぐセーレの首を狙い、そして…
「ッ!」
セーレに触れる寸前に、転移が完了した。




