第四十二話
「ァァァァァァー!」
獣のような叫びと共に、無数の白く輝く糸が放たれる。
薄暗い地下を照らす淡い光は、蜘蛛の糸。
獲物を捕らえ、あらゆる力を奪い取る『怠惰』の悪法。
「フン…」
光の糸は、瓦礫の上を跳ねるセーレを追い続ける。
逃がしたくない、行かないで欲しい。
そんなシャックスの思いを表すように。
まるで一人ぼっちの子供のように、その手を伸ばす。
「!」
大地を駆けるセーレに、遂に光の糸が追いついた。
絶対に逃がさない、とでも言うかのように糸は全方位からセーレを包み込む。
「『空間切断』」
短い言葉と共に、セーレの周囲に十字型の青白い光が放たれた。
例え、触れただけで相手を廃人にする呪いを秘めていたとしても、糸は糸だ。
空間すら切り裂くセーレの刃に、シャックスの糸は容易く切断された。
「ァァァ!」
怒りか、嘆きか、シャックスは様々な負の感情を含めた叫びを上げた。
髪だけではなく、蜘蛛を思わせる下半身の部分からも大量の糸が放たれる。
強度で勝てないのなら、量で勝負する。
刃が間に合わない圧倒的質量で圧殺する。
「本能だけで動いているにしては、中々頭を使ったな」
身に迫る白い濁流を眺めながら、セーレは感心したような調子で呟く。
「…だが、所詮は世間知らずな娘の浅知恵だ…『転移』」
濁流に触れる直前に、セーレは転移する。
シンプルな力押しなど、七柱随一の機動力を持つセーレには通用しない。
攻撃が躱されたことにも気づかず、シャックスは延々と糸を放ち続ける。
空腹に耐えかねた獣のように攻撃し続けるシャックスの周囲を、段々と青白い粒子が包み込む。
「『空間捕縛』」
「ッ!」
目に見えない程の小さな粒子が結合し、一つの『箱』を形成する。
青白い半透明なガラスのようにも見えるそれは、一種の結界。
一度入れば何者も抜け出せない、閉じた空間だ。
「ァァァァァ!」
閉じ込められたことに気付いたシャックスは四方を覆う壁を叩く。
だが、物質ではなく空間に阻まれた壁は、力づくではびくともしない。
それでもシャックスは何度も蜘蛛の足で、壁を叩き続ける。
何度も、何度も、何度も、狂気に囚われたように…
「………ァ」
トン、と暴れ続けるシャックスの胸に、軽い衝撃が走る。
空間を超えて転移してきた物は、一本のナイフ。
シャックスの心臓を貫く、銀のナイフだった。
「ァ、ァァ…」
役目を果たした青い箱が消えていく。
ゆっくりと崩れ落ちるシャックスをセーレは無言で眺めていた。
「あ…れ…?」
ずっと閉じていたシャックスの眼が開く。
その眼には先程までと違って光があり、正気に戻ったことを感じさせた。
「私、何で…?」
自分の胸にナイフが刺さっていることも、自分が致命傷を負っていることも気付かず、シャックスは不思議そうに視線を巡らせる。
そして、その眼はセシールを見つけた。
「…ッ」
何も知らないシャックスの視線に耐えられず、セシールは思わず目を逸らす。
それにシャックスが訝し気な表情を浮かべる。
「おはよう。シャックス」
その時、この場にいない筈の男の声が聞こえた。
いつの間に現れたのか、胸から血を流すシャックスの隣にシュトリが立っていた。
「おじ様? 私、また寝ちゃってたの…?」
「そうさ、まただよ。見てごらん。君の寝相が悪かったから、驚いた皆が駆け付けてしまったよ」
シュトリは朗らかな笑みを浮かべてシャックスに言った。
まるで、シャックスの致命傷に気付いていないかのように普段通りに笑っている。
「わ。本当だ。ごめんなさい…」
そう言って頭を軽く下げると、シャックスは急に脱力した。
「ん。知らない人達に、挨拶しないといけない、のに…何だか、まだ眠い…」
ぐったりとシャックスの身体が瓦礫の上に沈む。
シャックスは視線だけセーレやマナに向けて、寂し気に笑った。
「まだ寝たくないなぁ…だって、こんなに人が来てくれるの、初めてなのに…」
「大丈夫だよ。君が起きるまで、皆で待っているから」
「…本当、に?」
少しだけ期待したようにシャックスは呟き、セシールを見て嬉しそうな顔をした。
「嬉しいな…起きた時に、周りに人がいるのって…」
セシールは、自分が寝ている間に逃げないでいてくれた。
そう思い、シャックスは笑みを浮かべる。
心から幸せそうに笑いながら、シャックスは目を閉じた。
「…今まで辛く、苦しい人生だったね。せめて、その最期が幸福であるように」
その頬を撫で、シュトリはそう呟いた。
「………」
誰も、何も言葉を発しなかった。
少し体力を取り戻したマナが立ち上がり、セーレがその隣へ戻ってくる。
それを確認した後、セシールは黙っているシュトリへ目を向けた。
「…どうして、悪法を使わなかったんだ?」
セシールは気になっていたことを素直に告げる。
シュトリの悪法は、時間回帰。
それを使えば、シャックスの傷を治すことも可能だった筈だ。
シュトリの性格から言って、シャックスを好んで見殺しにするとは思えなかった。
「…知性を会得してから約四百年、シャックスはずっと苦しんできた」
淡々とシュトリは呟く。
普段の大袈裟な仕草もなく、抑え付けたような無表情で言葉を続ける。
「『人類の敵であれ』…そう願われて作られた悪魔でありながら、魂喰いを拒んだ」
そのきっかけが何だったのかは、最早シャックス自身も覚えていない。
魂を喰らって知性を得たことで人間に罪悪感を抱いたのか。
誰か人間の友達でも見つけたのか。
ある時から、シャックスは人間を餌と見ることが出来なくなり、魂喰いをやめた。
「知性は劣化し、悪法をコントロール出来なくなり、自分の足でまともに歩くことすら困難になった」
そんな状態では、使徒に殺されるだけだ。
だからこそ、シャックスはゴモラの地下に隠れていた。
一人ぼっちで、何年も。
「人殺しを躊躇わない冷酷な悪魔と、虫も殺せない優しい悪魔………どちらが、正しいのだろうね?」
「…お前は」
ずっとシュトリはシャックスを憐れんでいたのだろうか。
ただ苦しみだけしかないシャックスの人生に同情し、それを終わらせる為に見殺しにしたのか。
せめて、その死が安らかであるようにと祈りながら。
「君は、セシールを助けに来たのか」
シュトリはマナを見つめながら、そう呟いた。
「そうです。セシールは、私の大切な友達ですから」
「…そうか。なら、セシールを連れて帰るといい」
シュトリはそう言ってマナに背を向けた。
セシールが帰ると言うのなら、その邪魔はしないと。
「何で…?」
「君はシャックスの悪法に囚われたセシールを助けた。心から涙を流した…それで十分だ」
悪魔の敵である使徒でありながら、マナはセシールの為に涙を流した。
あの涙が真実であることは、シュトリにはよく分かった。
「我輩、女性の涙には昔から弱くてね。よく嘘泣きで騙されたものさ」
おどけた調子でシュトリは笑みを浮かべた。
深刻そうな雰囲気を崩すように、普段通りの態度に戻る。
「さあ、帰った帰った。これに懲りたら、知らない人についていっちゃ駄目だよ?」
「…帰る前に、サロメの場所を教えてくれませんか?」
「サロメちゃん? ああ、そう言えば君の妹だったね。彼女は」
今、思い出したようにシュトリは手をポンと叩く。
「残念だけど、今日は諦めた方が良いかも。もうすぐ、我輩なんかよりおっかないのが来るから」
「…おっかないの? 誰のことだ、シュトリ」
僅かに怯えたようにも見えるシュトリの様子に、セーレは首を傾げる。
シュトリは辺りを窺う様に、視線を泳がせた後、口を開く。
「ほら、彼女だよ。皆殺しの…」
「LA―――Ar―――」
その時、美しい歌声が聞こえた。
「「ッ!?」」
それが聞こえた瞬間、シュトリとセーレの顔色が変わる。
勢い良く振り返った二人の前に、一人の女が現れた。
「LA―――Ar―――」
それは魔性の美しさを持つ女だった。
二メートル近い肉感的な肢体を黒のドレスに包んだ美女。
一見、人間に見えるが背中から生えたカラスを思わせる黒い翼が人外であることを意味している。
手首にも黒い羽毛が生えており、鋭い爪を持つ。
足は比較的人間に近く、靴は履かずにブラブラと揺らしている。
翼を使って空を舞う姿は、神々しい天使のようだが、その眼は全ての見下すような冷たい色を持つ。
「『嫉妬』の、アンドラス…」
呆然とセーレはその名を呼んだ。




