第6話 落下する夜
メインとデザートを断って、梨々は自分の客室に戻る。
手を伸ばして出窓を開けると、涼やかな夜風が入ってくる。
シュー……
コンコンコンコン……
鈍い色の配管が取り囲む屋敷は、さながら昔の要塞のようだ。
配管の群で区切られた空から、〈蒼の大星〉の光が降り注ぐ。月によく似たこの星は、時節ごとに色が変わり、それが暦上の名前になっている。
十二の節は、三十の日に分かれ、無の五日を合わせて一年と数える。
一日は八刻に分かれているが、百年ほど前から一刻を前半と後半に分けるようになったらしい。
今日の本で知った知識が思い浮かぶ。
シューッ!
時折噴き出す音は、配管の点検のためのものだと聞く。
庭師たちは日が暮れても、これが終わるまで家には帰れない。屋敷の敷地内に家があるのが、幸いといえばそうかもしれない。
明かりは星と〈大星〉の輝きだけ。
水底に沈んだように蒼い、静かな夜。
見下ろせば、暗闇が黒々ととぐろを巻いている。
梨々の体は、いつしか出窓に腰かけ、足を外にたらしている。
夜風に服の裾がはためき、裸足の先を冷やす。
手指が出窓の縁を握り、腕を突いて上体を倒していく。
腰かける面積はごくわずか、重心がずれればいつでも落下しかねない。
――その瞬間だけ、感じるのだ。
「存外やんちゃだね」
「え、ひゃっ!」
ずるり、バランスが崩れる。
一瞬の浮遊感の後、力強い感触が抱きとめる。
見下ろす先には、房を思わせる黒髪と、星明かりに淡い緑色となった瞳。
「やっと目が合った」
翡翠の双眸が緩く弧を描く。
梨々は目をそらそうとするが、相手を見下ろす体勢で抱えられているため、うつむくほどに目に入ってしまう。
ついでに、相手の足が虚空に浮いていることも。
「散歩してたら落ちそうになってるんだもん、びっくりしたよ」
「……おろして」
「どうしよっかなー、やっと顔合わせてくれたし?」
階段を上がるように空を蹴り、青年は梨々を抱えたまま出窓に腰かける。奥までしっかり座っても、なお外にたらす余裕があるほど足が長い。
横抱きに膝にのせられ、梨々の体は硬直する。砂や胡椒に似た、ざらりとした匂いが鼻をついて、余計に胸の内を塞ぐ。
「いい夜だねー」
足を揺らし、何も知らず気に青年が言う。
私の腕を切ったくせに。
口の奥まで荒らしたくせに。
――死なせてくれなかったくせに。
どうして、あのギリギリの瞬間しか味わえない、生の実感まで奪っていくの!
「下ろして」
口が動いている。怒りを帯びた声を発して。
「下ろしなさい。じゃなきゃここから降ります」
「ちょ、なっ、動いたら危ないから!」
青年を押しのけようとして、余計に強く抱き込まれる。
そのままくるりと前後を反転し、青年は梨々を部屋の床に下ろす。
「主は危なっかしいなあ」
「言うべきことはそれだけですか」
「……調子に乗りました、ごめんなさい」
自分でも冷ややかだと感じる声で返せば、落ち込んだ顔で軽く頭を下げられる。謝罪のやり方は似たようなものらしい。
怒りなんて飲み込めるはずなのに、どうしてかこの青年の前では、梨々は時々怒りを耐えきれなくなる。
こぼれた怒りは、梨々の体を勝手に動かして、気がついたときには事態が進んでいるのだ。
「――どうして私に構うんですか」
今のように。
「助けたと言えば聞こえはいいけれど、私はあなたに安価で押しつけられた存在です。要は厄介者にすぎない。買ったあなたが私をどう扱おうと勝手なのかもしれませんが、いちいち従者面でついて回られると、こっちが対応に困るんです」
青年は目を見開いている。
殴られるかな、と梨々はぼんやり思う。
怒りがこぼれると、相手を実に苛立たせるらしく、小さな頃は親に何度も手をあげられた。教師にすら叩かれたこともある。
だから、次の瞬間驚いたのだ。
青年が微笑んだから。
「主は優しいねえ」
「何のこと」
「自分が負担だって気にしてるんでしょ。別に厄介だなんて思ってないよ、主を望んだのは俺だしね」
逆光に陰る瞳は柔らかい。
梨々は思わず一歩退く。怒りが急激に霧散するのを感じる。
そうなれば、もううつむくしかできない。
「主が契約してくれたおかげで、俺はあの人との約束を守れる。思い出を重ねていける」
だから、と続く言葉に胸が痛んだ。
「主には笑っていてほしいんだ。俺が構うのは、それが理由だよ」
梨々は直感する。
この人は、私の言葉が届かない人。
常識が違う。世界が違う。語る前提が大きく食い違う。
その溝は、身分差よりもはるかに大きい。
――何かを当たり前に、大切にできる自信というものは。
だから、梨々は無意識に思いこんだ。
この人には、約束のために主が必要。
私でなくてもいい、契約できれば誰であっても。
ただ約束を守るための契約。
その罪悪感が、私に構わせる。優しくあろうとさせる。
それだけの、こと。
こぼれた吐息の意味を、青年はどう取ったろうか。
梨々にとって、それは安堵のため息だ。
自分が相手にとって、代替の利く存在だということが、深い安堵をもたらすことを、その夜彼女は知ったのである。