第43話 種が割れる
ずっと、見えないことにしていた。
運動会の応援席。教室に引き上げる自分と、お弁当を広げる親子。
参観日の教室の後ろ。ロッカーに向かう自分と、親の元に駆けていくクラスメート。
夏休みはプールに少しだけ。花火の音を遠く聞きながら、嘘で埋まっていく絵日記。
誕生日は夏の終わり、何事もなく終われば最上の、一年で一番危険な日。
ずっと、見てないことにしてきた。
給食費が遅れがちなこと。裁縫キットのお金をなかなかくれないこと。
終われば遊びに行っていいと言いながら、夕食の後まで終わらない雑用。
祖父が亡くなったその夜から、一人で寝かされたこと。夜に出るお化けや妖怪の話。
そして、眠る間に首を絞める指。突き立てられたハサミの先。
それが梨々の通常だった。
けれど、本当は異常なのだと知ってしまった。
家庭とは、家族とは、大抵は安らぐものなのだと、八百年分も体験してしまった。
人を大切にできる自信がある者は、そうでない者と如実に違う。
前者は人に囲まれた中心に立ち、後者は独り隅に向かう。
そして梨々は、圧倒的に後者だった。
――人を大事にする術を、教わることがなかったのだから。
……自分が傷つくことばかり、期待されてきたのだから。
「主」
手巾が止めどなく濡れていく。どうしてこの人に思い出を渡せると思ったのだろう、自分如きが。
現に今も、こうして困らせて、ちっとも主らしくないじゃないか。
「主、主、大丈夫だよ」
薄茶と緑の入り交じる瞳が、不思議な笑みで梨々を見下ろしている。
見覚えがある、本当は、ずっと――
「主はレウを慰めたでしょ? 貴方が優しい子だって、俺は知ってるんだから」
違う、あれはただ、撫でてくれる手を真似ただけだ。
自分が泣いているときに、いつも触れてきた手が、この世界の礼儀なのだと。
言い返したいのにしゃくりあげて、切れ切れの言葉しか返せない。
懸命に首を振る梨々の頭を、シェルは静かに撫でる。
その手は、そう、祖父に似ている――
「こんなに傷つくほどに呪われてきた人間が、礼儀に目を向ける余裕なんてほとんどないんだよ。大抵は怒りか悲しみでいっぱいで、誰かのする事なんて気にも留めない。でも、主はそうじゃなかったでしょ?」
撫でていた手に引き寄せられ、空いた手がぎゅっと抱きしめる。
「それでも違うというのなら、俺が主に祝福をあげる。今までの主と同じように、生まれたこの命に祝福を――」
〈王よ、ここに新たなる芽が生えり〉
〈老木を継ぎ、若木へと伸びゆく為の一葉なり〉
〈弱く脆く小さきゆえに、寛容と守護を希う〉
〈王よ、新たな芽生えに慈悲を与え給え〉
そして、やわらかな弾力が梨々の額に落ちる。かすかに湿った音が響けば、涙の代わりに熱が噴き出す。
「――ッ?!」
「あ、泣きやんだね」
「だっ、だって、何でっ」
「儀式だからだよ?」
心から不思議そうに首を傾げるシェルに、この人の中では自分はやはり幼子なのだと、梨々は改めて確信する。
「主の子供たちは皆、俺が祝福してきたんだ。これで主も一緒だよ」
――だから、主を呪い続けてきた愚昧な親なんて忘れていいんだよ。
***
梨々は凍り付いたように動けなくなる。
そうだ、泣きながら言ってしまったのだ、自分の過去がどれほど主たちと違うのかを。
父母が行ってきたことの一部でさえ、シェルにとっては愚妹と断じるほどのものであるらしい。
「でも、でも、ご飯のお金はくれましたし、小さい頃は服も、それに遊びにだって」
「主、呪いに目隠しされないで」
梨々の反論に、シェルは重々しくもきっぱりと告げる。
「主の子供時代は護られなきゃいけなかった。親は、大人は、子供を護る責務があるんだ。まして戯れのように命を狙うなんて、正気じゃない」
「でも」
「ごめんね、主。残酷なことを言うけれど、そいつらはただのクズだ、主が頑張る価値なんてない! 主を呪い殺そうとしてきた奴なんだよ?!」
でも、という言葉は空を切る。
そんな親でも愛していた。愛されたかったから期待に応えた。
頑張りが報われることがなくても、期待が自分の死を意味しても、梨々はただただ全てを費やし続けた。
それが無意味だったと、彼は言うのだ。
なんて残酷な言葉だろう。
しかし凄惨な事実なのだ。
「あ、あぁ……ぁ、ぅ、わあああああああああ――!!!」
それは、生まれて以来の叫びだったかもしれない。
梨々はとうとう、呪いよりもシェルの言葉を信じたのだ。
すなわち、血の噴き出す傷口を、目を隠し耳を塞ぐ呪いを、虚しく消えていった労力と時間を、自分に突きつけたのである。
膨大に過ぎる欠落は、滂沱と流れる涙を呼んだ。
「主は〈泣きじゃくり〉だよねえ。それだけ傷ついてきたんだから無理もないか。いいよいいよ、いっぱい泣きな」
抱きしめて頭を撫でるシェルに、梨々は腕いっぱいでしがみつく。
だが、そんな二人の上空、現れたのは〈食らうもの〉だった。




