第38話 彼女はとうに許している
苦しそうで、泣き出しそうで、怒りに震えているようで、けれどどれとも少し違うような複雑な表情をするシェルを見上げ、梨々は目を瞬かす。
今は引かれた、眼前にあった白い刃で、彼は何をするつもりだったのか――
疑問を覚える間にも、周囲では制服を着た大人たちが被害者を助け起こしている。
ふいに、シェルが背を向ける。長い房のような黒髪を揺らし、梨々の前でしゃがみ込む。
後ろ手に手招くそれは、どう見てもおんぶの準備である。
「主、動けないでしょ。こっち来て」
「……でも、腕が」
「なあに、抱き上げられた方がいい?」
明るい声は、無理に上げたような歪をはらむ。招く手が小さく震えていると、梨々は気づく。
昼までは、その手で当たり前に梨々の手を握っていたのに。
「――失礼します」
動くと鈍い痛みが腹を襲う。無視できていたのが、気が抜けて痛みを強くしたらしい。
広い肩に手をかけ、大きな背にそっともたれる。
足に腕が回り、かけ声もなく持ち上がる。提げていた小鞄がぽんと跳ねる。
「手は首に回して。急ぐよ」
後半を小声で告げるとほぼ同時、一目散に細い通りへ飛び込む。
勢いに引っ張られ、梨々は抱きつくように腕を彼の首に回す。
「待てッ!!!」
切迫した誰かの叫びが辺りを切り裂くも、シェルは意に介さない。ひょいひょいと通路を走り、時に段差や行き止まりを飛び越えて、ついにはどこかの屋根に行き着く。
あまりに上下に揺さぶられたせいで、梨々はぐったりと彼の背にもたれる。ちょっぴり吐きそうだ。
どこかから、運動会を思わせる音楽が流れてくる。梨々にとって楽曲というものに触れる機会は学校しかなかったから、跳ねながら歩むような曲調に、その行事しか思いつかない。
「楽隊の行進だ。今なら裏通りを行けば目立たないから、そっちから帰ろう」
それとも見ていたい? と尋ねる声に首を横に振る。何だかひどく疲れている。
結局お昼も食べられなかったし、ポシェットの中身がどうなっているかも見るのが怖い。何せおみやげは壊れやすい卵の殻だ。
屋根から降りて背負い直し、人の少ない通りを歩きはじめる。背の高い青年が小さな少女を背負っているのは目立つようで、ちらりちらりと視線が飛ぶ。自然、梨々は広い肩口に顔を埋める。
砂と胡椒の入り交じったような、いつもの匂いがする。
「……主は、怖くないの」
ぽつりと落ちた問いかけに、瞼の重い梨々は答えられない。
お腹が痛んで、気持ち悪くて、ひどく疲れて気が抜けて――重い体に引かれるように、梨々は夢路へ落ちていく。
***
「俺が、怖くないの」
シェルの問いに寝息が返る。ぽすぽすと音を立てるのは小鞄だろうか。
病み上がりの上に危険にさらされ、さらに精霊を〈下し〉までしたのだ。心身ともに限界を告げたことに、むしろ安堵の思いである。
主に異変が起きたと気づいたのは、〈衣揚げ〉を買うためにお金を払った瞬間だった。無理に彼女を動かそうとすれば、風の魔法で追い払うようになっていたのを、仕掛けごと打ち壊されたのを察知したからだ。
叫ぶように順を後に譲り、駆けつけたときには、こぼれた水が撒き散らされているばかりだった。
その時、ちょうど次に並んでいたのが休憩中の警邏隊長でなければ。
そしてその隊長が、わざわざ追いかけてきてシェルの分を渡してくるような生真面目な者でなければ。
梨々の救出は、もっと難航していただろう。
シェルは魔術師を名乗り、自分の主がさらわれたことを教えた。そこで誘拐犯側にも魔術師がいるらしいからと協力を依頼され、この同時多発誘拐事件に取り組むことになった。
作戦は単純だ。警邏隊が以前から目を付けていた範囲を巡回しつつ、梨々が助けを求めるのを待つ。呼ばれて駆けつけたその場で信号を飛ばし、協力する部隊に居場所を伝える。人数を絞った精鋭部隊が駆けつけるまでに、魔術師を含む誘拐犯を無力化する。
容易くはないが難儀でもないはずだったその作戦は、〈食らうもの〉という予想外の要素によって変更を余儀なくされたが、犯人は取り押さえられたようである。
どんなに優れた魔術師でも、近距離に踏み込まれては終わりだ。どんなに速い魔法よりも、素人の突きの方が速い。
問題は、その後だ。
〈食らうもの〉に隙をつかれ、腕が折れた拍子に、シェルはナイフを取り落とした。ナイフは跳ねて〈障壁〉のぎりぎり外まで行き、動きを止めた。
そのナイフを、シェル自身を、彼の主は〈障壁〉から飛び出てまで拾い上げたのだ。
その点については、今でも少し怒っている。
だが、直後に起きたことを考えると、些事のようにも思ってしまう。
シェルは突然、八百年以上ぶりに、魔力が爆発的に増大していくのを感じた。
増える、と思った時にはその数百倍分が増している、というほどの甚大な速度で、腕は瞬時にも満たず回復した。
そしてあの日、契約して以来初めて、髪の色が真っ白に戻った。
彼の中には、過去二十数人の主の誰をもなく、人の世の記憶も全てが消え、ただ冴え冴えと万全の魔力に満ちた体だけがある。そんな状態だった。
〈食らうもの〉を生み出す鬱陶しい壁など、爪先一つで片づく。
目に映る人の群に、何もかも興味はなくどうでもいい。
ただ、抜き身の刃が少女の手にあるのを目にした時、いくつかの知識が過ぎったのだ。
自分は、この刃に込められた精霊である。
この娘は、武器となった自分の契約者である。
自分は、契約終了までこの契約者に従い縛られなくてはならない。
記憶ではなく知識としてそれを悟った精霊は、〈以下位〉の魔力であるにも関わらず、この最上位の自分と契約したという身の程知らずな小娘が、ひどく邪魔くさいものに感じたのだ。
契約者は、自分の魔法で害せない。
だから、刃を向ける。
振り下ろす。
――止められたのは、古い呪のためである。
〈以下位〉の小娘が知るはずもない、限界まで圧縮された、精霊を〈下す〉ための呪。
武器に込められて以来の、初めての契約者のものだった。
怒濤の勢いで蘇る、二十数人の主たち。八百年越えの記憶。
引き替えに急激に減っていく魔力。黒く染まる髪の毛。
……どっと、冷や汗が吹き出す。
何が作用して、自分が戻ってしまったのかはわからない。
ただわかるのは、事情はどうあれ、彼が彼女に刃を向けたということだ。それも、本気で殺すつもりだった。
怯えられてもおかしくない。
手を拒まれても間違いじゃない。
……彼女の顔を見るのが怖かった。
それほどの恐怖を、危険を、大事な少女に感じさせてしまった。
――なのに、彼女は。
温かに緩んだ体で、彼の背にもたれ眠っている。
かすかにこぼれる寝息が、彼の肌を温める。
ただそれだけのことに涙ぐみそうで、俯いたまま歩いていく。
回された腕に、抱きしめられているようだと思った。