第37話 そして彼は絶望する
衝撃的なシーンがあります。
風の壁を越え、取り落としたナイフを拾おうとする主に、シェルは悲鳴じみた声で制止を叫ぶ。
砕けた骨に痛みが響くが、そんなことはどうでもいい。
〈食らうもの〉がまだいるのだ。続々と増えているのだ。
――死にたいの?!
とっさに叫んで、過ぎった可能性に震える。
彼女は、常に死ぬように呪われている。痛めつけるように、傷を負うように、苦労するように刷り込まれている。
何より、主は死者の方をより慕っている。生きることへの錘が少ない人なのだ……!
彼女がナイフを拾う。
シェルと視線が重なる。
そして、
全てが、
吸い込まれた。
***
それなりの大きさを持っていた空き家は、爆音とともに今や木っ端微塵となっている。
衝撃に気を失ったのか、被害者と思わしき人々が寄り集まって目を閉じているのが見える。
警邏隊長ユイゲンは地に伏せたまま、元空き家の中心で睥睨する白い人影を見つめる。
背丈はやや高く、房のように髪が揺れる。肌も髪も、光を発するごとく白く、細めた双眸だけが輝く金色だ。
「馬鹿な、白光――精霊王と同等だとッ!」
後ろで部下のひとりが叫ぶ。
ユイゲンも幼い日に聞いたことがある。
真白い輝きは世界を照らし、万民を見守る精霊王。
それに並び立つ存在は、みな全身に白い光を帯びているのだと。
だが、その白さは人の世に降りるはずがないもの。まして市井の〈精霊武器〉に宿るはずがない存在だ。
もしあるとすれば、それは超国宝級――九百年以上前にいたという、伝説の魔術師が作り上げた剣に匹敵する!
す、と白い腕が上がる。
手の先に魔力が集中する。
『雑魚が……鬱陶しいわ』
拡散。何もない場所で、見たこともない魔法が踊り狂う。
その時初めて、ユイゲンは〈食らうもの〉の可能性を思い出す。魔力の低い者ばかりを集めれば、〈食らうもの〉の発生は必定。しかし配管の隙間を縫いやってくるような大きさなど、この白の前では塵のようなものだろう。
――ユイゲンは知らない。
ここには誘拐犯、兼魔術師である者たちが、とある施設から盗んできた、〈食らうもの〉の発生する〈陣〉が複数あったのだと。
爆発により、〈陣〉こそ木っ端に砕き抜かれたとはいえ、そこにまだいたのは街の外で見るような、大きくかつ力の強い存在なのだと。
……彼は、人一人余裕で飲み込む〈食らうもの〉を、雑魚だと言ったのだ。
乱舞していた魔法が、光の粒となって消えていく。
ユイゲンたちはようやく身を起こすも、部下の足はまだ震えている。圧倒的な畏怖が、彼らの芯を揺さぶっているのだ。
『さて、今の主とやらは――』
つう、と被害者たちをなめていく視線が一点で止まる。ユイゲンも視線の先を追う。
そこにいたのは、汚れた生成のワンピースを着た、短い黒髪の少女。
こぼれそうなほど大きく目を見開いたまま、微動だにしないのは、やはり気を失っているためか。その両手には、今し方拾い上げたかのように、刃の長いナイフを握っている。
『他愛もない、これが今度の主か』
色のない唇から冷ややかな声が落ちる。
精霊を知る者ならば、当然だと頷くだろう。精霊の髪は白に近づくほど高位になる。その分契約に必要な魔力も増す。
魔力の低い人間を狙った誘拐事件の被害者に、この真白く光る精霊と契約できる者など万に一つもない。
『ならば――』
精霊は少女の手を蹴り上げ、飛び上がったナイフの柄を宙で取る。
軽く跳ね上げて逆手に持ち替え、蹴られた反動で倒れ込む少女の、眉間に刃の先を向ける。
その一連の動きの速さに、ユイゲンが気づいた時にはピタリと狙いがつけられている。
『ここで弑せば……我は放たれる!』
「待てっ」
言う前に口から飛び出た言葉の、意味も目的もユイゲンはまだ理解していない。
ただ、彼は止めねばならない、彼自身の目的のために、精霊を解放させるわけにはいかない。
――だが、彼の理解が追いつく前に、ユイゲンの直感は間に合わないことを告げている。
長めの刃は真っ直ぐに、少女の顔めがけ振り落ちる!
「〈至れ〉、〈天を裂くもの〉」
その声音は少女のもの。
だが、その口調は歴戦の魔術師のごとく重く、流暢に、呪を濃縮させ放つ。
その後に起きた光景を、ユイゲンはどう言えばいいのかわからない。
真白い人の姿に、一点を中心として急速に色彩が入っていくのだ。
肌は日に焼け、髪は黒く、体も服の色となって――まるで、そちらが元の姿なのだと示すかのように。
早戻し、と現代日本の者ならば言ったかもしれない。
そうしてすっかり色の戻った姿は、拐かされた主を助けんと、買った〈衣揚げ〉をユイゲンに押しつけた、あの青年のものである。
いつの間にか気絶から回復したらしい少女が、訝しげに目を瞬かせる中、黒髪の青年の顔はだんだんと青白く、絶望的な表情を浮かべていく。
震える手が、刃を納め。
眇めた目が、狙いを付けた。




