第36話 八百といくらかの優しい記録
無数の四角に切り取られた、色とりどりの空間に、ざぅんざぅん、と音が響く。
東京みたい、と梨々は見知らぬ地を思い、ここはどこだろう、と疑問を抱く。
自分は誘拐され、暗い空き家の一室にいたはずだ。
そこで〈食らうもの〉に襲われ、助けられて、けれど戦い続けたナイフの精霊は力尽き、隙をつかれて刃を撥ね飛ばされた。
梨々は、風の壁ぎりぎり外に落ちた彼のナイフを、とっさに飛びついて拾いあげたのだ。
そこまでは、覚えている。
それからどうして、こんな都会じみて色のきらめくような、画面を何十も重ねて周囲を覆うような、不思議な空間に来てしまったのか。
何より、
「浮いてる、よね……」
足下に地面も床も感じない。上を見ても下を見ても、三百六十度ぐるりが無数の長方形に満たされている。
そして梨々が動こうとすると、長方形がわずかにずれて一人分の空白を作るのだ。
『主!』
聞き慣れた声に勢いよく振り向く。が、そこに彼の姿はなく、ただテレビめいた長方形が浮かんでいるだけである。
実際その中では複数の人影が動いており、その中の会話に梨々は目を見張る。
『主、けっ、結婚おめっ、うううぐふうぅぅう』
『……なんでお前が泣く』
『だっ、だってっ、あんな小さかった主がりっばになっでえぇぇ』
『んもう、シェルちゃんは泣き虫なのねえ』
新郎新婦らしい雰囲気の男女を前に、覚えのある声が感極まった様子で泣いている。画面の上部にちらちらと黒髪が映り、何より女性の呼ぶ声がトドメである。
驚いている梨々の耳に、また別の会話が聞こえてくる。
見回せば長方形の画面の中で、それぞれに映像が流れていく。
『父さんって何であぁなわけ?!』
『主は昔っからああだったからねー。あ、さっきのパイ食べる? 主作だけど』
『そーゆーとこが癪に障るー! ――って、ちょっとシェル、食べないとは言ってないでしょ!』
『お父様はまたお出かけなの?』
『うん、主はなんていうか……ふらっとお出かけしちゃうのが好きだからねえ……』
『じゃあシェルお話いっぱいできるね! 今日は猫のやつがいいな!』
『シェル……』
『何?』
『嫁って出さなきゃだめだろうか……』
『自分はさんざん遊んだくせに何言ってんの』
『リーチャは親父似なんだ、心配して当然だろう!』
『お前の性格はよっく見極めさせてもらった。だが人は変わる。心も変わる』
『だーかーら、確実な約束が欲しいなっ』
『いいか、もしあいつを泣かせてみろ。このシェルで吐くまで殴りつけてやる!』
『ごめんねー、主の命って絶対だからさー……俺の私怨も混ぜるけどね?』
『ふっふーん。へーぇ』
『……何だよ』
『あーるじってば、びっくりするほど情熱的だったんだねぇー』
『ニヤニヤするなよ。仕方ないだろ……あの人以外、見えなくなったんだから……』
『――本気なんだね』
『いやあはっは! ドゥーエの品はどれも実に素晴らしいな!』
『主ぃ、これホントに食べられるの?』
『知らん! 壷が美しかったから買った!』
『まぁた奥方に怒られるよ……』
ダメだ、と梨々は急いで両目をふさぐ。耳がざぅんざぅんと音を拾うが、会話は細切れに聞こえる程度に変わる。
これはきっと実際にあったこと――シェルの記憶だ。なぜだかわからないが、梨々はシェルの記憶の中に放り込まれたらしい。
もしかしたら、この体は意識だけになって――
「死んだの、かな」
「――いいえ」
知らずこぼれた呟きに返され、梨々はびくりと手を下ろす。
いつの間にか、目の前には一人の女性が浮かんでいる。梨々よりも背が高く、年もずっと上らしい大人だ。長い墨色の髪がゆらゆらと泳ぎ、ゆったりとした服からでも、肉感的な体つきが伺える。
「あなたは、八百年越えの記録を取り込んでしまっただけ。まったく大した容量だわ」
「――どなた、ですか」
「私はリーシャ。記憶の全てを記録した者。この実験の観察者」
「記録? 観察?」
「あなたにとっては、案内人だとでも思えばいいわ」
ふわり、近づいたリーシャが梨々の右腕を取る。
「なるほど……魔力的な親和性が高いままだから、ここから吸い取った可能性があるわね。あの子はここまで大きな怪我を治したことはないし……」
「あなたは、シェルさんの一部なんですか? 魔法みたいな」
「いいえ、あの子が私の一部だった――でも、今を思えば逆かも知れないわね」
くすり、と笑い右腕を引く。引かれた梨々は当然、リーシャの胸元に顔を突っ込む。溶けそうに柔い弾力が頬に返る。
そっと、背中に腕が回る。
「異世界の、巨大な〈概念容量〉を持つあなた――あと九百年早かったら、実験につきあって欲しかったわ」
「ごめんなさい、私、梨々と言います」
「知ってるわ、あの子が記録上初めて選んだ、一番新しい主」
あの子をよろしくね、と囁かれると同時、やわらかな感触が頭に落ちる。
途端に女性は消え、洗浄液でもかけたかのように周囲の色彩が薄れていき、長方形の群が形をなくしていく。
梨々は驚いて目を瞬き――
目を開けた時、白い剣先が迫っていた。




