第34話 一方の主義が蹂躙する
暴力描写多数につき、トラウマのある方はご自衛ください。
その日、彼女は機嫌が悪かった。
ぼすり、ぼすり、幼子の柔い腹を蹴り続ける。子供は遊びだと思っているのか、キャイキャイと高い声を上げる。
こいつが生まれさえしなければ。
腹の中で死んでさえいてくれれば。
思わなかった日は一度としてなく、可愛いと思ったことは露ほどもない。親に決められた結婚であり出産であり、長年嫌った親族への囲い込みである。十九歳、若さと自由は簒奪され、翼は手ひどくもがれてしまった。
ああ、苛立たしい。腹立たしい。
子供の腹を蹴り上げる。飛んだ先に追いついて踏みつぶす。
火がついたように泣き出すのがうるさくて、踵をさらにねじ入れる。
橙の体液を吐いて子がもがく。詰まって死ねばいいと思ったが、あいにくそうもいかないのだ。明日は義父と会う約束である。
苛立たしさにもう一度強く踏んで、掃除道具を探しだす。
子供なんて放置すれば簡単に死ぬはずなのに、なぜかこの娘は生き残る。
まるで自分にかけられた呪いのようだと彼女は思う。
親族がいる限り死なれてくれては困るし、殺して捕まるのもまっぴらだが、しかし死んで欲しいとは最初からずっと思っているのだった。
***
目覚めてまず梨々が感じたのは、腹部の鈍い痛みだ。あんなに蹴られ踏まれては痛みが残るだろう――と考えて、自分の上体の長さに混乱する。
この体は幼児ではない、十五歳の自分のものだ。
気づいてようやく、梨々は気を失う直前のことを思い出す。
黒い衣をかぶった謎の占い師に、突然腹を打たれたのだ。
同時に全身が強く痺れ、意識が白く消えていった。
その後、手足を縛られどこかに放り込まれたらしい。腕や足の表面がひりついている。
見回した辺りは暗く、すすり泣きの他は静かで、使われてこなかった故のすえたにおいがする。どこかの古い家屋だろうか。
暗闇に目が慣れてくると、壁からかすかにこぼれる光で周囲が見えてくる。同じように手足を縛られ、床に転がったり壁際に座ったりしている人々が大勢いる。梨々は数を数えてみたが、三十を越えた辺りであきらめた。老若男女を問わず、とにかく多い。
「大規模な、誘拐」
行き着いた可能性に、小声がこぼれる。
出かける前、街で広がっているのだと、くれぐれも気をつけるようにとベルーシャに言われていたのだ。どうやらシェルと離れた隙に捕まってしまったようで、梨々は色々と申し訳なくなる。
犯人の目的はわからないが、梨々が貴族とつながりがあることがわかれば、過剰な身代金要求なども考えるかもしれない。
ならば、資産があることを示す精霊は呼べない。彼は思い出を対価にしている変わり者だが、本来精霊は金や宝石など、資産価値のあるものを求めるものだからだ。
――ふいに、寒気がした。
予感とともに走ったそれは、最悪の形で結実する。
『ようこそ、魔力のカケラもないクソ野郎とクソアマ共』
暗闇に声がわんわんと響き、座っていた者たちが顔を上げる。
梨々も起き上がり、次の言葉を待つ。
『お前たちは一人を除いて何の役に立たない価値なし共だ』
『よってこれより選別の儀を行う。感謝するがいい』
『これ以上生き恥を晒さずにすむことをな!』
一方的な言葉が切れた瞬間、周囲に青白い光が走る。
それは空間の――教室ほどの大きさの部屋の中心から、床の上を網目状に這い、壁を文様のように駆け抜けて、明滅を繰り返す。
まるで、何かを呼び込むかのように……
突然、ひび割れた悲鳴が上がる。それも方々でだ。
甲高い音に混ざって、繊維質のちぎれる音が、液体のぶちまけられる音が、肉体のぶつかり合う音がそれぞれに響く。
「なに?! 何なの?!」
「足がっ、あしっ、やめ……!」
「いやああ、ぁ」
「やだっ、くんなっ、消えたくないっ!」
暗闇の中、大勢いたはずの人影がみるみる減っていく。ひとつ、ふたつ、またひとつ、みっつ――人が減る度に青白い光は鮮明になり、何もないところから人が消えていく様が、足から頭から消されていく姿が、はっきりと人々の目に映る。
それは、恐慌を引き起こすに十分なことであった。
何もわからぬまま、縛られ逃げ出すこともできぬまま、青白い暗闇の中で一方的に消されていくのだ。
縄を解こうと暴れる者、飛び跳ねながら逃げようとする者、神に許しを希う者。
彼らが今少し冷静ならば、皆がよく知っているある可能性に行き着き、しかし絶望していたことだろう。彼らは魔力がなかったから。
――誰の目にも見えないものが、しかし梨々の目には見えた。なぜだか知らないが、人数が減っていったことで、これまでと同じように光の加減でかすかにわかる。
「〈食らうもの〉……」
それは、魔力なき者から順に襲うもの。無色透明なその姿で、無慈悲に人だけを襲撃し、骨一つ残さず消していくもの。
冷静でいられたのは、魔力をごまかす〈宿りの石〉のおかげで、〈食らうもの〉がまだ寄りつかなかったせいか。
その間にも悲鳴は続く。蹂躙も続く。死にたくない、消えたくないと叫びながら、消滅する数も刻々と増していく。
「――助けて」
気づけば梨々の口は動いている。
「助けて、シェル!」
ドズシャッ
鈍い音が、至近から聞こえた。