第32話 主たらんと欲すれど、呪いはいかなる時も苛む
精霊の主として、できることは何だろう。
親切であろうとする彼に、返せるものは何だろう。
考えて、考えて、彼が初めから求めるものを――思い出を、渡していこうと決めたのだ。
***
ドゥーエの甘瓜は氷魔法で冷やされ、しゃくしゃくとして喉の渇きにちょうどいい。
運搬距離と魔法の分だけ値段は高いが、梨々はドゥーエのものしか、まともに味を感じないのだから致し方ない。
こちらは絞られた果汁を水で割ったものを飲みながら、シェルが口を開く。
「まだルカのやつ探すの?」
「除け者はだめです」
瓜で湿った声で返す。ベルーシャの分はすでに、オレンジがかった地にあやめに似た、紫の花を描いたものを買っている。
食べ終え飲み終え休憩を終えた二人は、通りを逆に戻っていく。人通りは絶えることなく、対面の店はほぼ見えない。
足を止めたのは、ささやかな装飾具と小型の絵画を売る店だ。店の右端に、絵の入った〈宝卵〉がぶら下げられている。
装飾具は微細な硝子玉でできていて、中には〈宿りの石〉の欠片を組み合わせているものもある。
梨々はここで、小さな枠とその中に広い空の風景画を描いた〈卵〉を買った。
「主」
ふいに愉しそうな声が呼ぶ。つないだ手が持ち上がり、指に細い輪が通ってゆく。
それは砂粒のような硝子玉を細かく編んだ土台に、丸い〈宿りの石〉が据えられた指輪だ。ほんの一時、梨々が見惚れたものである。
――なぜ? どうして? いつの間に?
「ん、ちょうど良いね」
「いくらですか?」
「贈り物の値段を尋ねるのは野暮だよ」
「でも」
「あんな熱烈に見てたら買ってあげたくなるじゃない、高いもんじゃないし」
言われて顔に熱が上る。思っていた以上に夢中だったらしい。
硝子玉も〈宿りの石〉の欠片も、宝石に比べれば高いものではない。
それでも、
「甘やかさないでください」
「主が甘えないからこのくらいでいーの」
「私がやったって気持ち悪いだけで」
「ほら、また呪われてる」
つないだ手とは反対の手で口を摘まれる。びっくりしすぎて足が止まった。
「この世の真理を教えてあげよう」
正面に回った彼の、琥珀と翡翠入り交じる瞳がきらめく。
「人は甘やかし合わないと、本当には生きていけないんだ」
離れた指が頬を撫でる。放った言葉を擦り込むように。
――子供じみて触れられる、それが不思議と嫌ではない。
「それは、あなただけの真理でしょう」
「八百年の裏打ちだよ?」
「永遠には短すぎます」
この国の食べ物のように、梨々にとって飲み込むにはあまりに異質な思考。
大切にされてこなかった少女にとり、甘えは弱みを握らせることと同義だ。弱さをさらせば、そこを突かれる。ぼろぼろに傷つけられる……
「お客さん方、買わないんならよそでやっとくれ」
「ああ、ごめんねぇ」
突然挟まれた第三者の声に、梨々は肩を跳ね上げる。対してシェルは何でもないことのように、声をかけて再び歩きはじめる。
「そろそろお昼だけど、どうする? 食べ物関係は大通り挟んだ向こう側なんだよね」
話が変わったことに、梨々はそっと息を吐く。
遠目に見える大通りは、さらに数を増して膨らんでいるようである。
「バドウさんに、お店に来てくれって頼まれてるんです」
「各地のかぼちゃの食べ比べするんだっけ。そこなら主に食べられるものもあるかな」
ふむ、と考え込むシェルはなぜか顔を上向ける。視線の先はうろうろと、あちこちを跳ねるように見ている。
「あんまバレるようなことはしたくないんだけど……あの中突っ切るのも酷だし……」
何事か口の中でつぶやいて、梨々を通りの端へ連れて行く。そのまま店の横をすり抜け、裏通りへと足を進める。
動くものは彼の背中くらいしか見えなくなると「この辺かな」シェルは立ち止まる。
次の瞬間、梨々は視点が一気に高くなった。
「主やっぱり軽いねえ。楽だけど複雑」
「何で持ち上げてるんですか?!」
「抱き上げてると言って」
両腕でしっかと梨々を支えて地面を蹴る。中二階ほどまで浮かんだところで、さらに中を蹴って三階、その上へと上がっていく。
梨々は首に回した腕で青年の両肩を握りしめる。地面は既に遠く狭くなり、人々の姿はかなり小さい。逆に大きく近づく空は、無数の配管に区切られて、あまり広々とはしていない。
「屋根に隠れていけばそう見えることもないでしょ」
「見えたら、いけないんですか?」
「下より前見た方が怖くないよ。あまり精霊ってバレたくないんだよねえ。面倒くさいこと増える、しっ」
言いながら、宙を蹴って屋根の上をジグザグと駆け抜ける。急な加速に、梨々の口が悲鳴を上げる。とっさに顔を肩に埋めた。
「つかまってて!」
大通りの上、ヒュッ、と風切り音を立てるのは、いくばくか刃の長いナイフだ。
振るう理由はひとつしかない――〈食らうもの〉。梨々が外に出たからには、いつ襲ってきてもおかしくなかったが。
不可視の相手に刃を振り抜き、すぐに退いたシェルは刃先を立てて牽制する。
道幅いっぱいに硝子玉の粒を流したような、人の頭の群が視界に入る。
ここで〈食らうもの〉との立ち回りを演じれば、誰かが頭上に気づくかもしれない。何より足場のない空中では、シェルの片手は塞がったも同然だ。
『――あんたが落ちればいいんじゃないの?』
脳裏を過ぎる、囁き声。
『向こうの狙いはあんただし、あんたが落ちれば両手も空く。落下すれば注目も集まるし、バレることなく逃げられるんじゃないのぉ?』
それは、あまりに耳慣れた囁き。慣れすぎて、言葉として自覚することすら、今までなかった台詞たち。
つかむ掌が迷い出す。ここで落ちるのと、〈食らうもの〉に全身食われるのと、いったいどちらが早いだろうか――
ぐっ、と。抱きしめる力が強まった。
「主、疲れた? ごめんね、もうちょっと頑張って」
平生の様子でシェルが告げる。その間も角度を変え、周囲一体を牽制している。
無数に浮かぶ、ピンポン球サイズの〈食らうもの〉が、光の加減で見えた気がした。
落ちたところで逃がさないだろう、そう思うほどの数に、知らず庇うように力がこもる。
――私は、主なんだから
「〈無尽に舞え、風刃根〉!」
刹那、声とともに風が吹き乱れ、その中を突っ切るようにシェルが駆け出す。風は下方にも影響し、人々は突然の突風に腕を上げ身を庇う。店も人もあちこちがはためき、どこからかひとつ、かつらが舞う。
そうして梨々が目を開けたとき、二人はどこかの屋根の上だった。シェルは抜き身を構えたまま、睥睨しつつ屋根から屋根へと、バックステップで移動する。踏み外しはしないかと梨々は胃の中がはらはらする。
「もう、いいかな」
言ってナイフを納め、壁に沿って下に降りていく。その間も梨々を抱き支える腕はしっかとして、下ろすまで緩みもしなかった。
バドウの店がちょっと遠くなっちゃったね、どこかで休んでから向かおうか、という彼の言葉に、梨々は緩く首を振る。
『そうやって、また死に損なうんだ。あははははははははははは』
脳裏を過ぎる呪いがいつまでもかしましく、梨々はぎゅっと自分の手を掴んでいた。