第30話 それぞれの魔法
台車は派手に倒れている。
後方がぶつかったのか、斜めに傾いだ車体の上で、車輪がからからと回っている。荷を満載した頑丈な台車は、その重さの全てで老爺と子供に圧しかかる。
「じいさん、しっかりしろ!」
「荷物を下ろせ! 男手は手伝え!」
「――以上この数人は残れ、後は馬車を追うんだ」
はい! と複数の返事とともに部下たちが駆け出すのを見送る間もなく、警邏隊長ユイゲンも荷降ろしに参戦する。台車の自重は刻一刻と道にめり込み、二人を苛んでいく。それでも、少しでも荷を軽くしなくては台車を持ち上げることは不可能だ。……そう、思われた。
「〈音を愛するもの、風よ、この詩に応えよ――螺旋は掌、浮かぶもの、飛び上がるもの、寄せて集え、我らに地の楔からの解放を〉!」
瞬間、小さなつむじ風が無数に現れ、吹き荒れながら台車の下に潜り込んでいく。そして、つむじ風の群がゆっくりと、台車を持ち上げはじめる。
「中規模魔法……!」
「魔術師か!?」
「二人を引っ張り出せ、急げ!」
人々がざわめく中、ユイゲンは叫ぶ。風魔法は術者によって効果時間が大きく変わる。〈旋風の集い〉は台車を完全に浮かせていたが、いつ不意に落下するかわからないのだ。
全身のたなびくものをたなびかせながら、部下たちが三人台車の下に屈み込み、老爺と子供を脱出させる。彼らが完全に離れたところで、台車は立て直しながら下りていった。着地と同時、風が一気に解放され、人々は礫に目をつぶる。
「下手くそか、呪文」
「詠唱慣れてないんだよ!」
無事の救出を歓び、声が挙がる中で、ユイゲンはそう言い交わす声を聞く。そちらを向くと、黒髪の青年と灰色髪の少年が言い合っているところである。
ユイゲンが医師を呼ぶよう指示している間に、彼らは立ち去ってしまった。
***
さきさきさき、とかすかな音が眠気を誘う。
鋏が動く度、ばさばさと伸び放題の梨々の髪が、丸いフォルムを描いていく。垢抜けない様が落ち着いていく様子は、技術と経験に裏打ちされた魔法のようである。
「頭を動かさないでくださいね」
「ご、ごめんなさい」
うとついていた梨々は我に返り、頭を元に戻す。
セニアは横の髪を軽く切り落とし、「いかがでしょうか」と手鏡を掲げる。
そこに映る後ろ髪はつるりと丸く、やわらかな線を描いている。当然だが、素人のバリカン捌きとは大違いだ。
「……」
「お気に召しませんか?」
「いえっ、あの……こんなにしてもらっていいのかな、って……」
見違えるような自分の髪に、梨々の瞳が暗くなる。
自分はこれほど価値があるのだろうか。やはりバリカンの方がふさわしいのではないか。だってこれでは、まるで――のようだ……
梨々がお洒落に興味を示したとき、両親は金食い虫から夜の女まで、毎度強い言葉で非難した。刻まれた呪いは深く強く、梨々を無自覚から苛ませる。
「マッサージをいたします」
セニアがおもむろに液体を手に取り、梨々の頭皮になじませる。水のようなそれから、ふわりと花の香りが立つ。
く、く、と指先で押される感覚が心地いい。梨々の表情が緩むのをセリアがちらりと見やった。
「リリ様、あなたの美しさはあなたのものです。唯一無二のものなのです。大切になさらなくてはいけません」
「美しさなんて――」
「私が差し上げたでしょう? あなたのためだけのものです。受け取っていただかなくては」
セニアの手が首筋から肩へ、腕へと下りていく。ぐ、ぐ、と揉みほぐしながら、若い客の心に染み込むように語りかけ続ける。
「あなたにはあなたの美しさがある。髪も、肌も、爪も、あなた独自のものとして美しい。埋もれた美は自分で手をかけて、協力しながら見つけていくものです。まずあなたこそ、ご自身をいたわり大切に扱うのです」
腕から肩へとなで上げ、今度は香油を少し取る。梨々の髪先につけ、飴色をした木の櫛で梳いていく。柑橘の爽やかな香りとともに、梨々の髪が烏の濡れ羽のごとく艶めく。
その時、梨々の瞳にきらめいたものを、セニアは見逃さなかった。
「あなたのものです」
ささやくと、梨々の双眸が潤んだ。溢れるままに頬を流れていく。
「ごめんなさい、ごめんなさい……!」
「こんな時はお礼を言うのですよ」
セニアには、梨々の事情はわからない。しかし多くの客を相手してきた経験として、少女が自身の美しさについて傷ついてきたことも、これからも涙しながら越えていくのだろう多くのことも、察するにあまりあったのである。
***
「まあ、可愛い。梨々、よかったわね」
最後に耳飾りを付け直して梨々が出てくると、ふうわりとベルーシャが微笑む。淑女の微笑み、とひそかに呼んでいる表情に、梨々は照れてうつむく。
そのおかげで、ベルーシャの指先が目に入った。
「きれい……」
「ありがとう。ここで手入れしてもらうとこうなるのよ」
細長く整えられた爪は薄く色づいて艶めく。指から手首にかけてはしっとりと白い。ほのかに赤みを帯びているのが、桜のようだと梨々は思う。
「ルカとシェルは蒸気車の準備をしているわ。支払いが済んだらお暇しましょう」
ベルーシャの言葉に、梨々は大変な事実に気づく。
「私、お金――」
「出すから落ち着いて。あなたの費用はお小遣い含めて私持ちです」
「……すみません」
この分では明日の祭の分まで出されそうである。密かに欲しいものがあったのだが、ベルーシャのお金で買うのは複雑だ。
仕事就いたらお返ししよう、と梨々は何度目かの誓いを立てる。
支払いを終えたらしく、ジェイが呼びに現れる。セニアと別れの挨拶を交わし、美しくなった二人は店の外に出た。
――主が可愛い! と叫ぶシェルに梨々が抱き潰されたのは、その直後のことである。




