第28話 されど問題は続く
泣くという行為は、非常に疲れる。
心の底から闇を払い、傷を白日の下にさらすがゆえの涙などは、特に疲労が著しい。体中を無数の感情が駆け抜けて、心身を消耗させるのである。
梨々は飲まず食わずのまま、安静を指示された残り日数を寝て過ごした。
「目は少し腫れていますが、特に問題はありません。しばらくは、活動を普段の六割に抑えてください。少しずつ体力を取り戻していきましょう」
十日の安静を終えて、やってきた医師はそう梨々に告げる。
「すっきりしたお顔になりましたね」
「そう、でしょうか」
「長年の重荷を下ろしたような――いや、一介の医者が言うことではありませんな」
この医師は、召喚された初日から梨々のことを知っている。右腕の修復を確認し、気を失った彼女を診察したのがこの医師だ。
傷だらけのまま長く放置されているような、しかもそのことを当人が気づいていないような緊張感を、この優秀な医師は察していた。様子を注視するよう当主に進言したのもこの医師である。
「しばらくはぼんやりするでしょう。悪しきものに見入られぬよう注意して、無理のない範囲で活動するように」
「――お祭り、は」
「行ってもかまいませんが、大通りは避けた方がいいでしょう。何、大きなお祭りです。端の方でも楽しめますよ」
そうして医者は部屋を出て行く。
入れ替わりにジェイが、柚に似た柑橘のお茶を持ってくる。
「お疲れでしょう。リリ様のお好きなお茶を持ってきましたよ」
「好き……?」
「いつも美味しそうに飲まれてるでしょう」
首を傾げながら受け取る。梨々が一口含むと、胸の奥で小さな子供が跳ねる感覚がある。
そうか、これがいいのか、と何となく腑に落ちる。
実際、柑橘の砂糖煮を溶かして作るそのお茶は、一口ごとに甘く温かく、軽い苦みを含んだ爽やかさが口に残って、ほっと吐息が落ちるのだ。
「美味しい、です」
「お粗末様です」
言えば返る言葉に、胸の奥の子供が嬉しそうにする。悲しみも痛みも続いているけれど、その感覚は鈍いものだ。
この異世界のやわらかな日々を、痛みでどれほど無駄にしてきたのだろう。誰もが優しくしてくれたのに、つらかった覚えしかない。
ここは、家とは違うのだ――
『だから何? あんたが役立たずの迷惑って事は何にも変わってないじゃない』
吹き出す呪いに、梨々はカップをぎゅっと握りしめる。
今のままでいいとは思わない。ロコンチェルキ家に残るつもりなら、〈話し相手〉となるために頑張るべきことは沢山ある。
それでも、胸の奥の子供が怯えることのないように、呪いの言葉に負けなくない。
「リリ様?」
「ジェイさん、ご馳走様でした。私、図書館に行きます」
「では、着替えを用意いたしましょう」
カップを受け取り、ジェイは使用人仲間を呼びに向かう。
戦うためには知識が必要だ。今は少しでも、役立つことを知りたかった。
「あ、それから――」
***
商会主バトウからの報告書に、ベルーシャは厳しい顔つきになる。
領地を持たない貴族であるロコンチェルキ家は、つながりのある商会に便宜を図る代わりに交易の利益を収めさせ、それによって王家への忠誠を果たしている。
よって商会の趨勢は家の権勢に直結するわけだが、今回の報告にその点での問題はないようだ。
ただ――
「下町で誘拐事件の増加……治安の悪化が進んでいるじゃないの。警邏隊は何をやっているのかしら」
「さらわれたほとんどが下流の、棄てられた異世界人だからな。むしろ警邏隊が一枚噛んでるんじゃねぇか?」
「〈目覚めの祭〉が近いこんな時に、治安を下げれば噂はすぐに広まるわ。上は何を考えているの」
「よほど人の王の機嫌をとっておきたいか、あるいは不安を吹き飛ばすほどの益が絡んでいるか――」
「それでも王命を用いない辺り、後ろ暗い自覚はあるんでしょうね」
春の祭りは、退屈な冬を乗り越えて初めてのものであるだけに、盛り上がりもひどく大きくなる。首都シュヴァイエの中心部がそのまま祭会場になるような規模なのだ。
それだけ規模が大きければ、警備も多人数になり忙しくなる。一時に比べて警邏隊の活動が少なくなっているのはそのためだろう。代わりに誘拐が増えているのは、警邏隊と裏で取引があると見るべきか。
「決めつけるには証拠も情報も足りないけれどね……リリを外に出すのが心配だわ」
「あいつがべったりするだろうが、離れないように言っておく必要はあるだろうな」
二人で頷きあっているところに、ノックの音が響く。
現れたのは、梨々の世話役であるジェイである。
「当主様、リリ様が昼食後に時間をいただきたいと」
「ありがとう。久しぶりに皆でお茶にしましょうか」
朝食と晩餐は揃って食べるが、昼食はベルーシャの仕事の都合もあり、各自で軽いものを食べるようになっている。今朝はまだ梨々は自室で朝食をとっていたので、お茶の時間が十日以上ぶりの集合となるのだ。
「楽しみね」
「その前に昼をちゃんと食え。また倒れるぞ」
「わかっているわ。昔の話をしないで頂戴」
言い交わす彼らはまだ、
「ここにいさせてください、ベルーシャ様」
と真摯に上目遣いで願う少女の言動の破壊力など、予想も想像もしていなかったのである。