第27話 すくい取ろう、あなたの勇気を以て
「やっと言った」
突然に梨々の肩を熱が、腕が包む。黒い袖に白い手、大ぶりの艶めく爪。
何より耳元で告げる声が、相手が誰だか示している。
「どうして」
「主が助けを求めるなら、俺が駆けつけるに決まってるでしょ」
足音すらなくシェルが現れたのは、空間を縮めて〈跳んだ〉ためらしい。葛藤に手一杯の梨々では、それ以上のことはわからない。
「それで、どんな助けが必要なの?」
するりと腕を離し、移動したシェルは寝台の端に腰かける。そこで彼が、梨々の背側から現れたのだと察する。
下りた手が、梨々の手を包む。まなざしが言葉を待っている。
そのまま、沈黙が落ちる――
あなたといるのが悲しい。ここにいるのが苦しい。与えられる好意が痛くて、死にたくなる。
自分の感覚をそのまま伝えれば、相手を傷つけるだろう事は梨々にもわかっている。
今だって、案じさせているだろうことに、溺れそうなほどの悲しみに落ちていく。それでもシェルが立ち去れば、別の痛みに襲われるのだと気づいている。
こんな風に感じる子の傍になんか、いたいはずがない。
やわらかに見下ろしてくる、茶色がかった淡緑色の瞳から目をそらす。彼の指先が、梨々の手をゆっくりと、何度も撫でているのが目に入る。
『お前は親を捨てたのに、そいつらを捨てられないなんて我が儘だわ!』
脳裏に声が響く。ぐっと手を握りしめる。
「当主様が、ここに残るか、出て行くか、修道院に行くか選びなさいって。でも私、修道院しかないから。お別れするしかないから――」
「どうして?」
穏やかな声が、眼差しが問う。
「主は、俺たちとお別れしたいの?」
「違う!」
止めると思う暇すらない。自分の声だと自覚したときには、さっと血の気が下りている。
「あ、いや、違う、違うのが違って、だから」
ふいに手が離れ、頭を撫でられる。痛みが走り、体中の悲しみが押し寄せる。溢れて頬が濡れていく。
「私、期待通りじゃなきゃ邪魔だから。優しい人の迷惑になるから。生まれたこと自体が間違いだから」
それは、今更口にするまでもない事実。昔から梨々を取り巻いている現実。
でなければ、なぜ親が、親戚が、周囲が何十度と繰り返したのか。
だから、こんな自分にさえ親切に優しくしてくれる、皆とは離れるのが一番で――
「主、呪われてるね」
「のろい……?」
「勝手にかける奴って割といるんだよ。虫ケラ以下の臆病者共が」
シェルはきっぱりと言い切る。
細めた目の奥で炎が揺れた気がして、梨々が身を退くと彼は俯く。
「主は呪われすぎて、自分で自分を呪うほどになっちゃってる。でもね、主本人が許さなければ、そもそも呪いなんてかからないんだ」
「私――いつも苦しいのも悲しいのも、私のせい……?」
「ある意味では。でも、それは祝福だ」
流れる頬の滴をシェルの手が拭う。そのまま両手で顔を包まれる。
「自分を呪うのも、誰かに呪わせるのも、もう止めよう? 期待通りでなくたって、人に迷惑をかけたって、主の生まれたのは間違いじゃない。主が許さなければ、そんな呪いは絶対に起きない!」
突風が胸を撃つ。
轟くまま、嵐のごとく吹き荒れる。
大雨に目の中が歪む。空いた手が必死にしがみつく。
木戸の割れる音が、鉄扉の砕ける音が、縛る鎖の引き千切れる音が、暴風に巻かれ響きわたる。
冷たく凍る漆黒の伽藍堂に、落ちる、落ちる、落ちる……
固く縛られた箱が開く。
『りりはねぇ、みーんな、だいすき!』
幼い子供の声がする。呪いなんて知らない、真っ直ぐな声。
胸の奥の底の底、これ以上傷つかないように、護るために沈めた小さな子。
傷だらけの血塗れで、それでもニコニコ笑って手を伸ばす。
――そっか そこにいたんだ……
手の中で、ざらりと厚手の布が擦れる。
瞬時に底から引き上げられ、耳の中がしん、とする。
「好ぎでず」
こぼした声は濁っている。梨々は彼を見上げ、繰り返す。
「私も皆さん好ぎでず。離れだぐない」
視界は今も揺らいでいる。鼻が詰まって、口の中が塩辛い。頬と手の間がべちゃべちゃする。
きっとひどい顔なのに、目の前の彼が微笑むのがわかった。
「じゃあ、一緒にいるために考えよう」
「でもっ」
「『でも』じゃなーいの。やっと呪いから一歩出られたんだから、主はここから幸せになるんだよ?」
どこからか出た手巾が顔を拭く。ついでのように鼻をかまされる。
胸の中が伽藍堂よりもからっぽだ。痛みも苦しみも悲しみも、何も体を襲わない。
圧倒的な静けさに、なぜか心は落ち着いた。
「呪いはしつこいよ。俺が言わなきゃわからなかったでしょ? ずっと主にからみついてたんだから、もう許さないようにしようね」
「――はい」
どこまでも広く深い空白は、呪いの占めていたものなのだろう。そのあまりの大きさに、梨々はようやくぞっと背筋を凍らせる。
そしておそらく、この空白に何も入れなければ、呪いがまた食い尽くしていくのだ。
現に今も、こっちが『当たり前』なのだと誘う声がする。
「〈砕かれた子供〉でも、呪いに負けなければ、きっと――」
「え?」
小声のつぶやきを聞き返せば、何でもないと首を振られた。