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第25話 夜に惑う

 梨々の名を付けたのは、父方の祖父だった。

 ただ一人可愛がってくれたのは、そのためもあるのかもしれない。


『りりちゃんよぉい、りりちゃんや』


 老いた腕が梨々を抱き、皺だらけの大きな手が頭を撫でる。知らず目を細めながら、梨々はこれが夢であることを確信している。

 祖父はすでに死んでいる。梨々が小学生になる前の、事故死だった。


『えぇかぁ、りりちゃん。人はもっと好きに生きてえぇんじゃ。りりちゃんは、りりちゃんの好きなモンのために、生きてえぇんよ』


(でも私、生きるのは苦しくてたまらない。早くおじいちゃんに会いたい)


『りりちゃんは、えぇ子じゃけぇのぉ。えっと(ずっと)我慢しちょる。えっと頑張りよる。でもなぁ、もっと楽に生きてえぇんよ。怒ってええし、甘えてええし、欲しいモンを望んでええんじゃけ。

 りりちゃんがりりちゃんとして生きちょっても、大事にしよって人はよぅけ(沢山)おるけん。もっと思い切ってみんさい』


(思い切って……)


『じぃちゃんより(なご)ぅ生きて、お土産話をよぅけ持って()んさい。そんがじぃちゃんの願いじゃき』


 祖父が笑う。これが夢だと梨々は知っている。夢が記憶の欠片だと知っている。

 ならば、祖父はかつて似たようなことを言ったのだろうか。幼い頃に語られて、梨々が忘れているだけなのだろうか。


 頭を撫でる、その感触も記憶のものだと解っているのに、穏やかな温かさに泣きそうになる。

 顔が見たいのに、見上げられそうにない。


 ***


 ふと意識が上った時にも、頭に熱と感触がある。するり、するりと動くそれは、夢の中より少し機敏だ。


「主、起きた?」


 覗き込んだ青年の顔がふうわり笑う。

 辺りは暗く、〈大星〉の明かりが少しだけ闇を薄めている。ずいぶん寝てしまったらしい。


 頭がぼうっとする。泣き疲れて寝てしまったせいだろうか。目やにもこするたび、ぼろぼろと落ちてくる。

 その様子をじっと見ている視線に、いたたまれなくなる。


「どうして、ここに」

「服を引っかけちゃったからかな」


 動けないのだ、と笑う。

 いつもの黒服は暗がりで見えにくい。灯りの魔法を使えばいいのに、と思ったところで、梨々は自分の手が何かを握っていることに気づく。

 親指で撫でてみれば、ざら、とした厚みのある布だ。制服の上着に少し似ている。

 手を離すと、黒い上着がかすかに揺れた。


「え……」

「あれ、取れちゃった」

「――ッ!」


 さあっ、と顔に血が上る。声も出ない悲鳴がこぼれる。


「あ、あの、あのごめんなさい!」

「逃げないで」


 撫でているのとは別の手が、服の裾を握っていた手を取り上げる。大きさの違いをまざまざと感じ、梨々はさらに気まずさが増す。


 この人にとって私は身代わりだ、かつての主の身代わりなんだ!


「俺を必要としてよ」


 梨々の指の間を撫でるように彼の指が落ちる。大ぶりな爪が艶やかに光る。


「俺には、主が必要なんだからさ」


 頭を撫でていた手が、耳を辿って頬を覆う。指先で肌を撫でられると、胸からの痛みと苦しさでまた泣きそうになる。

 だって、あまりに、知らない言葉でしか言えないような、感覚で。

 書き方は辞書で知っていても、現実の経験はそれを遙かに越えていく。


「俺は、貴方が愛おしい。貴方を護りたい。だからどこへ行くことになろうと、貴方についていくよ」

「……シェルさん」

「『さん』はいらない」


 気づけばこぼれていた名前に、注文を付けて笑う。やがて組んだ手を口元に近づけると、そのままするりと両手を離した。


「明日、ベルから話があると思う。今のうちにしっかり寝ておいて」

「話……?」

「ジェイがしばらくは起きてるから、用事があったら呼ぶといいよ。それじゃ、おやすみ」


 黒服が軽く翻り、青年は部屋を出ていった。

 いくつも疑問を残したまま。


 ***


 梨々を初めて見たとき、ベルーシャの胸に迫ったのは憐憫の情だった。

 短く刈られた黒髪、手入れのなされていないだろう衣服、華奢な骨がうかがえるほどやせ細った小さな体、可愛らしいのにどこかやつれた顔つき。

 優しくしてやらねば、と考えるのはごく自然のことだった。


「私は、やり過ぎたのかしら」


 私室には一人、つぶやきに返す者はない。己の剣は、彼の部屋に戻した後だ。

 ――当主というものが一人きりなのだと、ベルーシャは幼い頃から知っていた。


 本来はまだ知る必要がなかった頃、両親を亡くした彼女は幼くして当主として立った。

 赤子の頃から傍にいたルカは、いつでも彼女を支えてくれる。それでも、家を背負って最後に決断するのは、常にベルーシャ自身である。

 誰も変わることはできない。

 それは孤独なことだった。


 あるいは、だからこそ、梨々に入れ込んだのかもしれない。

 異世界から来た、この世界で独りぼっちの女の子。

 粗雑に扱われていただろうことは、見た目からすでに伝わってくる。

 優しくして、大事にしてやりたいと、当たり前に思うのだ。


 だがそれは、王命を拒めるほどだろうか。

 父と母の生きた証であるこの家を、ロコンチェルキ家を危険にさらし、仕えてくれる者たちを切り捨てられるほどだろうか。


 王は召喚者を集めている。集められた者の行方は、商会主のバドウの情報網でさえ、杳として知れない。わからない。

 そんな曖昧な状況で、梨々を行かせたくはなかった。

 だが、王命に背けば複雑な立場の分家など、取り潰されることは実にたやすい。


「大人になれば強くなれるなんて、誰が言ったのかしら」


 むしろ大人になるほど、自分は弱くなっていく。

 ベルーシャにできるのはただ、梨々の選択を理由にはするまいという、当主としてのなけなしの決意だけだった。

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