第24話 彼女の思い出した痛みは
青年に運び込まれたのは、梨々の客室である。
部屋にいたジェイに連絡を頼み、青年は梨々を抱き上げたまま、ベッドの端に座り込んだ。
ねえ主、と穏やかさを装った声が響く。
「どれだけ危ないことをしたか、わかってる?」
「配管しか、手がなくて」
「ん? 何で配管? ――まさかあれ伝って下りたの?!」
「丈夫でした」
「そういう問題じゃないよ何危ないことしてるの!!」
一息に叫ばれ、梨々はきゅっと身を縮める。上からの声もさることながら、青年の体を伝わって響く声もなかなかの衝撃だ。
何より、いつまで抱きしめられているのだろう。ため息が肩に染み込むような、こんなに近い距離は親だってとったことがない。
いや、祖父ならばあるいは、抱き上げてもらったこともあるのかもしれないけれど。
「危ないって言ったのは、一人で外に出ようとしたことだよ。ただでさえ〈食らうもの〉に狙われやすいのに、俺なしでどうする気だったの?」
屋敷の中にいてさえ、不定期に〈食らうもの〉に襲われる梨々だ。屋敷を出れば、運が良くても一日保つかわからない。
それは梨々も知っている。知っていて、出ようとしたのだから。
ふいに腕が緩む。顔を上げると、視界いっぱいに彼の顔がある。
「――もう死んじゃってるかと思った」
こん、と額に何か当たる。燃えるような翡翠の瞳に、梨々の顔が映っている。
「あんな一言で、よろしくしないでよ。出て行きたいなら、俺も連れてかなきゃダメ。主は俺の契約者なんだから、置いてかれんのは嫌だ」
彼の膝の上で、変に曲がった足が痛む。けれど今、まだ梨々には先にするべきことがある。
「……泣かないで」
燃えるような、あるいは深い泉の底のような、熱と水気をたたえる瞳にささやく。
「あなたを泣かせたくなかった」
それは心からの本音である。自分が死ねばこの精霊は泣いてしまうだろう、だから。
「死んだかどうかわからなければ、あなたは泣かずに済むでしょう?」
翡翠の瞳が見開く。
梨々はこの屋敷を去らなくてはならない。自分がいれば争いの理由になるのだから。
そして自分が屋敷を出れば、おそらく数分で襲われる。その姿を見せたくなかったし、庇われたくもない。
「ここにいれば、仲良しの当主様もルカ様もいる。寂しくないから」
「ふざけないで」
憤りのこもる低い声。瞳に熱の方が勝っていく。
やっぱりだめか、と梨々の頭は冷静に考える。彼は親とは違うけれど、だから少しばかり言葉を告げられたけれど、やはり自分の言葉は相手を腹立たしくさせるらしい。次に来るのは、手か足か。できれば見えないところがいい。
――けれど、梨々の予測はどれも外れる。
「俺は主が一番なんだって、何回伝えれば解るの!!!」
キーン、と耳鳴りがする。全身が声で揺さぶられる。
ああもう、もう、主の馬鹿、と波打つ瞳で言われるのが、さっぱり状況をつかめなくて混乱する。
……あなた、私が大事なの?
――どうして、私なんかを
「何だシェル、また振られてんのか」
いつのまにか部屋に来たらしいルカの声に、梨々は軽くパニックになって青年の腕から逃れようとする。それは半分だけ成功し、向きを反転することはできたが、そのまま膝の上に座らされ腹の前で腕を交差された。
「振られてないし」
「その割に拘束強いな」
「主が逃げるからだし」
「あの、私、十五」
これでも来年には高校生だったのだ。幼子のような体勢を取らされるのは、恥ずかしくてたまらない。
目の前で視線を合わせるように、ルカに膝をつかれては尚更である。
「今の俺は当主の使いだ。俺の言葉は当主の言葉であり、俺に言ったことは過不足なく当主に伝わると思ってくれ」
「ベルは、振られたか? なんて言わない」
「揚げ足取るなよ。――リリ、なぜ逃げた」
端的に核心に迫る。梨々は胸元を握りしめる。俯くほど、ルカと目が合ってしまう。
飴玉みたいな淡い青に、促される。
「だって、私のせいでしょう……?」
「何が」
「当主様とルカ様が争うのは、私がここにいるからでしょう?」
だから、立ち去ればいいと思った。
私さえいなくなれば、出会う以前に戻れるから。
親しく仲睦まじい、初めに見た姿に。
はぁー、とルカは深いため息をついて、一言。
「阿呆」
べちっ、と音が立つ。
指で額を弾かれたのだ、と遅れて理解する。
「起こったことが消せる訳ねぇだろ。いなくなったところで、それ以前には戻らない。お前を知ったことは消えない」
「でも、」
「リリの扱いについて、ベルと意見が合わないのは認めるさ。でもそれはリリの責任じゃない。むしろ勝手に姿を消す方が心配するだけ迷惑だ」
迷惑、という言葉が梨々の胸に突き立つ。
そのことに気づいたように、ルカが気まずそうな顔をする。
「――皆、主を早く見つけないと危ないって、すごく心配したんだよ」
ふいに落ちた声はやわらかく、同時に人肌の熱が髪を伝う。
大人の大きな手が、梨々の頭を撫でているのだ。
「ルカもベルもあちこち駆け回って、いっぱい心配してたんだから」
心配、と鸚鵡返ししたつぶやきが胸の内に落ちていく。
教科書で読んだことがある。
隠れ読んだ物語に書いてあったものでもある。
けれど、それを音として聞いたことはなかった。
梨々に押し寄せたことはなかった。
いいえ、一度だけ。
どこまでも遠くへと迷った梨々を、驚くほど強く抱きしめる、老いた腕がかつてはあった――
打ち寄せる波のように、感情が心をさらっていく。びりびりと痛みが走り、悲しみに飲み込まれかけながら、梨々はかすかに息を吐く。
「……ごめんなさい」
震える声は濡れている。頬に幾筋も跡が走る。
「ごめんなさい、ごめんなさい……っ」
動揺し狼狽える精霊たちの間で、梨々は十年以上ぶりに泣き尽くす。
――ベルーシャが二人を問いつめたのは、そのすぐ後のことである。