第23話 屋敷脱出計画
梨々が寝ている間、世話役のジェイは席を外していることがある。今日もそうだった。
耳を澄ませ、目を開く。寝たふりはうまくいったらしい。
ここからは時間との勝負だ。枕と寝間着を掛布に突っ込んでふくらませ、繕われた制服を着込む。レポートのための紙を取り出し、簡単な手紙を書く。その間も耳は周囲の音を拾っている。
シュー……
カンカンカンカン……
書き終わった手紙はサイドテーブルに置き、出窓を開いて周囲をうかがう。――よかった、誰もいないようだ。
「出てしまえば大丈夫、だよね」
外から出窓に引っかかるように伏せ、慎重に足を伸ばしていく。ガン、と配管を蹴った後で、思い切ってそこに体重をのせる。
配管を伝って外に出る、それが梨々の計画だ。ちなみに配管は耐熱処理がされているため、触っても熱くないことは確認済みである。
これでも、ジャングルジムは昔得意だった。まだ家事を任されていなかった頃、誰もいない公園で、よくてっぺんに腰かけて日の沈むのを見ていたものだ。
ぐ、ぐ、と体重を入れ替え、慎重かつできるだけ急いで下りていく。最後は軽く飛び降りて、久しぶりに土を踏みしめる。
室内でも靴を履く文化でよかった、と梨々はぜいぜい息をつく。でなければ玄関を通らざるを得なかっただろう。
人がいないことを確認して、使用人の多い方――裏口へと向かう。
ロコンチェルキ家の使用人は多い。特に雑用に近くなるほど、梨々の顔を見たことがある者は格段に減る。そこに賭けるつもりだ。
見咎められて追い出されればそれも良し、できれば運送用の車でも停まっていると、こっそり乗り込めていいのだが。
――この世界は誰もが優しすぎて、親切で、梨々はその度、切り刻まれるように苦しくなる。
その筆頭が精霊であり、当主である。
彼らといると、自分への好意らしきものを感じて、首を絞められるように悲しくなる。圧倒的な、飲み込み尽くされそうな悲しみに、痛くて死にたくてたまらなくなる。
……なのに離れると、寂しい、と誰かがささやくのだけれど。
自分は遠くで見ているだけでいいから、優しい彼らには仲良くあって欲しいのだ。
麗しい貴婦人と、その脇に控える美しい従者たち。まるで、隠れ読んできた物語のよう。
だから、彼らの争いの種になるのなら、こんな自分は消えるべきだと梨々は思う。自分が消えて解決するなら、ますます消えるべきだと思う。
幸いこの世界には、消えるための仕組みは整っている。
対策もないまま家を出れば、数分もせず梨々は〈食らうもの〉に食われるだろう。
何も残らないのなら、死んだかどうかもわからないはず。彼が泣くこともない。
……本当に?
浮かぶ疑問を押し殺す。
とにかく今は気づかれる前に、少しでも遠くに行かなくては。まずは裏口まで――
「サトー様!」
外廊下から、やや大きめにかけられた声に、びくりと足が止まる。ああやはりそうだ、と細い足で大股に近寄ってきたのは、商会主のバドウである。
「あ、あの、どうして」
「珍しい服装をされているから、どなたかと見ておりました。どちらへ?」
「さ、散歩、です」
梨々がようよう答えると、バドウは賢さと狡猾さを併せ持つその顔を歪める。
「そのような格好でふらふら出歩いてはなりません。さらわれますぞ」
「誘拐、ですか?」
「似たようなものです。物珍しい、異世界を思わせる者は、軒並みどこかに連れて行かれているともっぱらの噂なのですよ」
それはいいことを聞いた、と梨々は考える。さらわれて、そこで消えたことにすればいい。あの人たちの邪魔にはならない。
ありがとうございます、と一礼して去ろうとする梨々を、なぜかバドウは引き留める。
「実はサトー様のお知恵を借りたく。ご無沙汰でいらっしゃる間に、また新たな食材が見つかりまして――」
固くてぷるぷるしたものになる芋だの、すぐに茹であがるが極細すぎて味付けが合わない麺だの、瓜や根菜を干して細長く切った乾物だの、バドウのネタは尽きることがない。
それだけ梨々が期待に応え、また期待されているということなのだろうが、話が続くほどじわじわと焦りが募ってくる。
「あ、あの、バドウ様、ご用事なのでは」
必死で話の切れ目をとらえ、そう告げるとバドウははっと我に返ったらしい。すみません、と言いかけたところで、彼はぽんと手を打つ。
「そうだ、サトー様も厨房へお越しください。スヴェン殿との相談に、貴方もいてくださると助かる」
本当に手を打つ人っているんだ、と梨々が感心してしまったばかりに、伸びた手に背を押され厨房の方に向けられてしまう。
「あ、あの、私」
「お散歩中ならばお時間はあるのでしょう? なあに、そんなに手は取らせません」
半ば強引に、梨々は厨房へと向かわされてしまう。その間もバドウは食材の疑問を繰り出し、逃げ出す隙を与えてくれない。
当然、着いたときには料理長のスヴェンに驚かれた。
「リリ様、出歩いて大丈夫なのですか?!」
「あの、ええと」
「散策中のところを来ていただいたのです。……そういえば療養中でしたね。医師の許可が出たのですか?」
それなりに長身の男性二人に挟まれ、梨々は目を泳がせないようにするので精一杯だ。
「あの、あの、外に、出たくて」
「確かにもう八日も寝台にいれば退屈にもなるでしょうが、お医者様の指示に従わないと長引きますよ? シェル様とお祭りに行かれるのでしょう?」
「ああ、あれに行かれるのですか。うちも店を出しますから、よかったらいらしてくださいね」
屈んだスヴェンに視線を合わせられる。そういえばこの人は私の年齢を知っているのだろうか、と現実逃避気味に梨々は考えたが、彼は年下に対して大抵こうである。
ばたばたばたっ! と廊下に音が響く。
「スヴェン、主が――!」
焦りもろとも厨房へと飛び込んできた青年は、転瞬、真顔になる。
それはもう、お手本のような見事な真顔である。
ぺたん、と彼の足下で音が立つ。ぺたん、ぺたん、おぼつかない足取りに、ペンギンみたいだ、と梨々は場違いなことを考える。
「あるじ」
膝をつき、触れることを怖れるように梨々へと手を伸ばす。その指が肌をかすめ、手のひらが頬を覆う。次の瞬間、力強く抱きしめている。
「よかっ……良かった、生きてる――」
当人にとっては感動のシーンだが、バドウとスヴェン、料理人たちは揃ってポカン状態だ。当然だが、状況についていけていない。
「あ、あの、離して「嫌だ」……苦しいんです」
梨々が訴えると、少しだけ腕が緩んだ。それでも振り解くどころか身じろぎさえできそうにない。
「シェル様、どうされたんです? リリ様が何か?」
立ち直るのはスヴェンが早かった。当然の疑問に、青年は梨々を抱きしめたまま立ち上がる。抱え上げられた梨々はバランスを崩し、咄嗟に青年の黒服を掴んだ。
「主が脱走したから探してただけ。これからお説教してくる」
「それはそれは」
大人二人が同情と微笑ましさの入り交じった視線で梨々たちを見てくる。梨々は襲い来る気まずさに、青年の肩に顔を埋める。
「……これで、どうして」
長い足で厨房を出、廊下を進みながら、ぽつりと青年がそうこぼすのが聞こえた。




