第22話 事態は転がっていきます
日の射し込む隙間もない、牛舎がまるごと収まりそうな大部屋に、びっしりと幾何学模様が描かれている。灯りごしに、文字めいた形も其処此処に見えるが、何を示しているのかはわからない。
端正な形の並ぶ美しさと、どこか漂う不穏の冷たさ。
案内された塔の、長い階段を上りきり、ライダがようやく行き着いたのが、この異様な空間である。
「こちらが、異世界とつながる陣です。故郷を思い浮かべながら中央に立つと、動作しやすくなるかもしれません」
案内人が淡々と話す。その人物が入り口を塞いでいるため、ライダは自然部屋の奥に進んでいくしかない。
足を進める度、ぼう、と淡い黄色の光が灯る。それは幾何学模様の線上をなぞり、床を走り壁を辿る。
……故郷はもうあまりに遠すぎて、ライダにはかすかなことしか思い出せない。それよりも色濃いのはこの世界のこと、残してきた妻や家族、育てた家畜、戦ってきた自然、代々手入れしてきた庭の樹木――生きてきた思い出だ。故郷に帰る、こんな直前になっても、思い起こすのはこの世界でのことだった。
やがて、中央に行き着けば、部屋全体が薄黄色の光に輝いている。
――それが、ライダの最期の記憶。
言葉も、視線も、何一つ許されることなく。
老人は一瞬にして、その全身を飲み込まれ解かされる。
まるで初めから誰もいなかったかのように、毛の一本まであっさりとそこから消え果てる。
「〈還れ〉」
案内人が告げた途端、部屋の光はかき消え、模様はしんと静まりかえる。
その中央には、もはや人がいたという事実すら信じられないような、不穏な空白だけが残る。
「今回も、外れ」
案内人は淡々とつぶやき、身を翻して部屋を出ていく。
バタン、と扉が閉まった。
***
十日間の安静が終わるまで、あと二日。
その日の朝食は、なぜか青年の分まで梨々の部屋に持ち込まれる。
「ベルが勝負を挑んでるはずだから」
「勝負……?」
「俺はどっちの味方にもなっちゃうからね。フェアじゃない」
あ、一番は主の味方だよ! と主張する青年の思考が、梨々にはいまいちよくわからない。
「どうしてそこまで言ってくれるんですか?」
「主が可愛いから?」
ますますわからない。そもそも自分は可愛くない。散切り頭だし。
梨々が疑問符を浮かべていると、青年は笑いながら続けてくる。
「勉強熱心で、作法や楽器の自主稽古も自分からやって、スヴェンの手伝いも取り組んで――何事も一生懸命、倒れるまでやろうって人が、可愛くないわけないよ」
なるほど異世界だからか、と梨々は理解する。梨々自身は変わっていないし、大したことはしていない。それでも異世界という判断基準の違いがあれば、評価も変わってくるのだろう。
「頑張り過ぎちゃうのは悪癖だけど、それだけ人に優しいとも言えるし、弱音を言わない我慢強さは、文字通り強さだし。あと、本を読んでる時の主は姿勢がいいから格好良く見えるよね」
「……誰か他の人のことを言ってませんか?」
「主のことだよ。もうちょっと甘えてくれればなあ、と思うことはあるけど、そこは俺が甘やかせばいいんだし」
つまりこれも甘やかしの一環なのだろうか。実感がなさすぎるのに顔中が熱くなる。
相手が見られなくて、相手に見られたくなくて、スープに夢中のふりをして俯く。
「そんなことは、ベルもルカもわかってるんだ。それでも立場があるから、互いに勝負が必要になる」
ひゅっと、胸が冷える。嫌な予感。
「私のせいで、何か争いが起きてるってことですか?」
「主のせいじゃないよ。当主とその剣として、家の今後に意見が分かれてるだけ」
嘘だ、と梨々は直感する。家の今後において、成人が近いのにろくに準備できていない梨々が、厄介者の自分が関係しないわけがない。
それでも、朝食を食べて横になるくらいしか、梨々にできることはない――本当に?
「お祭りは五日後だよ。ちゃんと疲れをとって、楽しもうね」
青年が軽く手を振って出て行っても、梨々は考え事を続けている。
***
子供の保護期間は長くかかるものだとする主と、保護の役目は十分に果たしたと考える剣と。
朝食が終わり執務が進んでも、話は平行線のままである。
「リリはこちらの十五歳ではないわ。生きていくためにまだまだ助けが必要よ」
「それをロコンチェルキ家がする必要はないと言ってんだ」
「お金も立場もない子供が、精霊だけを連れてひとりきりでどうなるの? 成人したばかりでも難しいことだわ。それに、下手に精霊を連れていた方が、犯罪に巻き込まれやすいのではなくて?」
「シェルがいるんだ、適当な餞別を与えておけば、主従で生きていくくらいはできるだろ」
「贈った時点で、つながりがあると示すようなものよ。だったら今も対して変わりないでしょう」
言い合いながら、ベルーシャは彼女の剣が鋭さを減じていることに疑問を抱く。昨日までは、主に憎まれてでも説得する、という気迫を発していたのに、今日は態度の端々に迷いが見えるのだ。
これならば、押し通せるかもしれない――そう考えている時。
「ベル、ルカ! 手伝ってくれ!」
バンッ、とノックもなしに執務室に飛び込んだのは、黒髪を乱れさせたシェルである。
問いかける間もなく第二声。
「主がいない! 手紙だけ……!」
半ば押しつける勢いで見せられた手紙には、ほんの数文のみ。
『ここを出ます。
ご迷惑をおかけしました。
探さないでください。
シェルさんをよろしくお願いします。』
そう、拙い文字が踊っていた。