第20話 夜更けに緊張が走ります
主に「おやすみ」を告げた後、シェルは屋敷の外をぐるりと回ることにしている。夜に〈食らうもの〉が出ることは稀とはいえ、無いではないからだ。
配管がささやき、〈大星〉が輝く下、夜風の冷たさも心地いい。祭の日は暖かければいいが、と思いを巡らしていたところで、露台に立つ人影に気づき、空を蹴る。
「ベル? 冷えちゃうよ」
「! ……ああ、シェル」
喫驚した顔がやがて緩む。たっぷりと長い栗色の髪は解かれて、夜風にゆるくたなびいている。
露台はその上部まで配管に覆われるため、見晴らしがいいとは言えない。外でも過ごすことができると示す、権力と見栄の象徴のようなものである。
逆に言えば、一人になるにはうってつけだ。
「聞いた方がいい? 聞かない方がいい?」
「あなたのお節介癖、ユマ様にそっくり」
「向こうが俺に似たんだよ」
会話の合間に、配管の隙間から上着をベルーシャに押しつける。
ユマニエスはシェルの前の主だ。彼女が死んで、家は絶えた。
「ルカと言い合いになっちゃって――私が折れるか、向こうに折れさせるか、考えてたところ」
「それはまた、ちょっと久しぶりな事態だね」
「あなたには"ちょっと"なのね」
精霊にとって、数年は瞬く間だ。老いた人間よりずっと早く、一日というものが過ぎるらしい。
だから配管のひとつに腰掛けて、話し出すまで"ほんの少し"待つくらい、何てことはないのだ。
……ベルーシャは欄干にもたれ、ゆっくりと語り始める。
「リリは、可愛いでしょう」
「当然じゃん、俺の主だよ?」
「ふふ。危なっかしいほど頑張り屋で、我慢強くて、人を気にかける賢い子。――でも」
真っ暗な瞳だったのだ。
髪を切るか伸ばすか、自分で決めろとルカが告げたとき、虚ろのように目が暗くなった。底知れない闇を、その奥に感じさせた。
「ルカに、半端な情なら与えるなって言われたの」
貧民の子供でも、そうは見ないほどの暗い瞳。
その目は身分を問わずに偏在する。この世に残酷な振る舞いがある限り。
「っリリは――」
「〈砕かれた子供〉だ、って言われた?」
「……気づいてたの」
それは、護られるべき存在に降り注いだ災禍。保護を仰いで踏みにじられた、ある子供の生涯の物語。
砕かれた傷は多数の人間を巻き込み、傷つけ悲しまれ、その結末までも苛んで閉じる。絢爛たる美文で有名な悲劇、ゆえにこの国ではこう信じられている。
〈砕かれた子供〉は治らない、親に受けた傷は永劫に消えない、と。
「寝言で〈王の座〉に行きたいんだとねだられたんだよ。見たことないくらい柔らかな顔で――死者ばかりを慕うのは、生きてる相手にろくな奴がいなかったからだ」
主はあんなに可愛いのに、と告げる口ぶりに憤りが混じる。
「生まれるなと呪った奴がいる。死んだ方がいいんだと刷り込んだ輩がいる。主は真面目だからそれを全部飲み込んだんだ、信じられないよ」
「……リリの能力に期待しているようなことを、私が言ってしまったのも、悪かったかもしれないわ。頑張りすぎることができなければ、生きる価値も愛されることもないと、思いこんでしまってるのかも――」
「ベル、それだ!」
ガンッと勢いよくシェルは立ち上がる。夜風の中、腕を広げる。
「何にもなくても大事にされるって伝え続ければ、いない人ばかりを求めて死を望まなくてもよくなる、生きてもいいかと思えるようになる! 俺たちでめいっぱい愛してやればいいんだよ!」
顔を輝かすシェルに、しかしベルーシャは苦しげに言葉を紡ぐ。
「……だからルカが言ったのよ、半端な情なら与えるなと」
「ベルは半端なの?」
「シェルは契約が続く限り、ずっと一緒だと言えるでしょう。裏切らないと誓えるでしょう。でも、私は立場が違う」
俯く先で、両手が固く握り合わされている。
「王が、召喚された人々を集めて何かをしようとしているようなの。今は平民が中心だそうだけど、召命が出されれば当主として、背くことはできないわ」
「建前上、主は過去も身元も不明だとしか言ってないはずじゃなかった?」
「箝口令を出しているわけでなし、人の噂は足が速いでしょう。それに、あなたたちはオークション会場で相当目立ったはずよ。現にその特徴で、家に来た警邏隊の者もいたのだし」
あの時は貴族の名で追い返せたが、王の名で来られれば弱いのはこちらである。
ロコンチェルキ家は、前王朝に后を持つ家の分家の流れだ。現王朝への立場は複雑で、王命に背けば実にややこしい事態が待っている。
だが、命に従ってリリを差し出せば、少女はやはり世界とは残酷であったかと、裏切りを抱え、さらに死に親しむだろう。
あるいは、それが周りの期待であるならばと、進んで身を差しだしかねない。
――それでルカが口を出したのだ、とシェルはようやく理解する。
精霊は主が第一だ。ベルーシャが早晩板挟みで苦しむことを察していたのだろう。面倒事を嫌う苦労性らしい選択である。
そうして全てを解った上で、彼に言えるのはひとつだけ。
「それで、ベルはどうするの?」