第19話 静かな日々は黙考の糧
倒れて七日目、梨々は自分の髪が伸びていることに気づいた。
髪がうなじにかかるほどになると、母親にバリカンで刈られるのが常だった。
坊主に近いベリーショートは、シャンプーの節約になるし、洗う時間も短く済む上に、風が通って清潔なのだと、母親はいつも語っていた(自分はミディアムボブでパーマをかけていたが)。
この世界にバリカンがあるかは怪しかったので、梨々は代わりに鋏を求めた。髪を切るのだと理由も告げた。
それが今、なぜか、当主直々に止められている。
「せっかく伸びたのだから、このまま伸ばしましょう? 髪には少しだけど魔力をため込む効果もあるし、梨々の髪は鏡みたいにまっすぐで綺麗なんだもの。伸びればきっとよく映えるわ」
シュヴァイエでは、若い富裕層の間で短髪が流行っているものの、基本的に髪の長さは家の豊かさと正比例する。長いこと貴族の価値観で生きてきたベルーシャは、梨々の髪を少しでも伸ばしたいようである。
「でも、私の髪は硬くて多いから、短くないと重苦しくて不格好だって……」
「整えながら伸ばせば大丈夫よ。失礼なことを言う人もいたものね」
軽く憤慨する様子の淑女に、実の親の言葉だとは言えない。
「元気になったら整えられるところに行くから、伸ばしていきましょう? ね、リリ」
「当主様が望まれるのなら――」
「だめだ」
割り込んだのはルカである。背後で房のような灰色髪がゆれている。
「切るか伸ばすかはリリに任せろ。最近は切ったって嫌がるのは年寄り連中くらいなんだ。リリが伸ばしたい時に伸ばせばいい」
「あなた、さりげなく私を年寄り扱いしたわね」
「どうしたいんだ、リリ。鋏が欲しけりゃ取ってきてやる。言ってみろ」
露骨に流しましたね、と顔をしかめつつベルーシャも返答を待つ姿勢に入る。困惑したのは梨々だ。
彼女にとって髪は当たり前に短く刈るものである。うなじにかかったら、泣いても喚いても坊主に近くバリカンを当てられるのが普通である。
――泣いたり喚いたりしていたのだ、ごくごく幼い頃は。
「……伸ばします」
口が告げていた返事に、ベルーシャは勝ち誇った様子になり、ルカは真顔を保つように頷く。
何か、やってしまったことを悔いるような陰が見えた。
***
胸の内を押しつぶす力が弱まってから、日本で日常的に感じていたものが強まっている。
目が覚めても、食事の時も、誰かと話しているときでさえ、切ないまでに死にたくてたまらない。
それは常識のようにそこにあって、当たり前の顔をして、梨々に危険をそそのかす。
たとえば果物ナイフ。胸を突いたら死ねそうだ。
たとえば開いた出窓。そのまま進めば死ねるよね。
たとえば大きな書物。自分で殴って死ねるかな。
全ての事物に纏わりついて、おいでおいでと梨々を誘う。もう十年は続いている、いつも通りの声と光景。
それでも生きてきたのは単に、家事と勉強に忙しかっただけのためだった。
寝ているだけの療養生活は静かで暇で、日が経つほどに誘いの声が強くなる。
「リリ様、お体が冷えてしまいますよ」
開いた出窓の傍に立つ梨々に、世話役のジェイが声をかける。
「お祭りに行かれるのでしょう? しっかりお休みにならないと、お医者様の許しが得られませんよ」
「……はい」
「あと少しの辛抱です。気晴らしに、何か画集でもお持ちしましょう」
言いながら、梨々の肩に厚手の布をかけてくる。そのままそっと背を押して、寝台に誘導していく。
――気遣われている、と解るたび、悲しさがどっと押し寄せて、苦しくて死にたくてたまらなくなる。これは、日本にいた頃は感じなかったことだ。
シュー……
カンカンカンカン……
画集を開きながら、久しぶりに配管の音を聞く。常日頃小さく響いているから、耳慣れてしまっていたのだろう。
この世界に召還されてから、これまでとは違う言葉がかけられて、違うことを期待されて、違う扱いにさらされて、違うことを望まれている。
世界の事物そのものよりも、そちらの方が梨々にとって、異世界に来たのだという実感を強く抱かせる。
きっと異世界だから、人がそもそも違うのだ。当たり前に人を大事にできると、自信を持って言えそうなのも。
『ごめんね、主、ごめん、俺は主に生きていてほしい』
異世界は、死にたくなるほど優しいから。
『――つらい』
今死ねば、きっと彼は泣いてしまう。
能力への期待が薄れた現在、彼への対策を考えなければと、そう取り組もうとする思考だけが、かろうじて梨々を生きる方に向かわせているのである。
***
当主となってから、ベルーシャは呆然としたことが少ない。
その珍しい姿が今日、お茶の時間であるこの場で見られている。
「……どういう意味なの、ルカ」
「そのままの話だ」
テーブルには二人きり。手をつけられていない香茶がゆれる。
抜き身よりも切れそうな、鋭い顔つきで繰り返す。
「リリを手放した方がいい。ベルには、荷がかちすぎる」




