第18話 あなたを――すと願うのです
少女は、自分の生まれをよく知らない。
それでも長じれば、何となく察することはできていく。
自分が望まれた子供ではないことも、自由を奪う象徴であることも、人の望む成果を出すからぎりぎり許されているのだ、ということも。
だから少女は、周囲の期待に応えた。
預けられた家で泣かなかった。
人には物を譲り続けた。
叩いてくる子を告発しなかった。
指導者の指示に支配された。
勉学に打ち込み、家事を日々行い、遊ばなかった。
学級委員を任され、教師の雑用を受け、生徒会の候補に立った。
骨となった祖父だけが、幼い頃と同じく褒めてくれた。
いつしかそれも忘れてしまった。
親の言うとおり、家事も勉強もろくにできないのに、友人なんてできるはずもない。
嘆かわしいと怒る親にひたすら申し訳なく、できるのは死んで自由にさせることくらいだと思った。
だから、言葉がわからない。
『みんな、主が大好きなんだから』
ひたすらに悲しみに突き落とす、その言葉の意味も、意図も、少女には理解できないのだ。
***
最近のスヴェンは米料理にこだわっているらしい。料理長手ずからの、お粥とスープスパの間のような料理をすする。
梨々が倒れて、五日が過ぎようとしている。その大半は眠って過ごしたため、それほど時間が経った気が梨々にはしないけれども。
驚くのは、本当に眠る以外のことを求められないことだ。
家ではどんなに体調を崩しても、目が覚めれば家事が待っていた。自分で買ってこなければ食事も薬もなかった。
それが異世界では、病人の看病という、まるでフィクションのような扱いを受けている。
基本的に移動は手洗いだけ。一日一度は体を拭かれる。
枕元には見舞いの果物が盛られ、時折勧められて食べている。逆に花を飾ることはここでは少ないらしい。
ちなみに、青年があれこれ見繕いすぎて、少年に叱られているのを聞いたことがある。
お前は主を愛しすぎる、と。
「ごちそうさまでした」
「果物は召し上がりますか?」
「いえ」
首をゆるく振って横になる。休めば休むほど体がだるくなるのはどういうことだろうか。
このまま寝台に沈んで解けて、何もかもなくなってしまえばいいのに――
ノックの音がした。
ジェイが開けると、いつものように青年が現れる。
彼は昼間は〈食らうもの〉の討伐を行い、夜に見舞いにやってくる。
〈食らうもの〉は夜にはあまり現れないらしい。
「主」
青年はただ一言に、無数の感情を込めた呼び方をする。そう気づいたのはここ二、三日のことだ。
「今日もちゃんと休めた? 食べてる?」
「はい」
「そっか。今日はねぇ……」
果物をジェイに渡して盛ってもらいながら、寝台の傍の椅子を引く。
夕食後にこうして少し話して眠るのが、習慣となりつつある。
――今日こそ、言えるだろうか。
「あの」
「んー?」
「……欲しいものが、あるのです」
「何なに? 俺にできるものなら用意するよ!」
想定外に嬉しそうな相手に、あなたでなければできないことだ、と梨々は胸の中だけで思う。
「あなたを叩く権利」
「――ん?」
「あなたを詰る役目」
「ん、えっ?」
「グーで殴っていいですか」
「ちょっ、俺何かしちゃった?!」
「しました」
それは、出会いの時。
「あなたは私の腕を切り落とし、私の口を蹂躙し、私を傷めながら死なせてくれなかった」
命を救うのは尊いと、一体誰が決めたのか。
生えるからと腕を奪われた。止血だと口を塞がれた。肉体の自由を損なわれた。
死にたくて死ねずに生かされる。
そうしてやった当人は、英雄面で笑うのだ。
ずっと、ずっと、赦せなくて胸の内でくすぶっていること。
「あなたを罵ることができなければ、私の苦しさは終わらないのです」
言い切って、歪む真顔を見つめ返す。
いつの間にか、ジェイは姿を消している。
「いいよ。それで主が楽になるのなら」
静かに、許しの言葉が落ちる。青年はそのまま目を閉じる。
本当に手を挙げるつもりはない。自分の腕力のなさは梨々もよくわかっている。
「――あなたなんて、」
だから代わりに言葉をぶつける。言うことはもう決まっている。
放つだけで胸がぎしりと軋む、諸刃の叫び。
「あなたなんて、生まれなければよかった……!」
瞬間、前が見えなくなる。ぼろぼろと溢れるもののばかりせいではない。視界が暗い。
――抱きしめられたのだと気づいたのは、耳元で声がしてからである。
「ごめん」
見かけによらず太い腕に、強く抱き寄せられる。
「それでも、死なせたくなかったんだ。誤ってでも助けたかったんだ。痛くても、苦しくても、傷つけてでも生きていてほしいんだ!」
「……どうして」
鼻声がこぼれる。
それほど執着される訳が梨々には分からない。かつての主を思わせるからといって、実力行使に出てでも生かそうとする心情が理解できない。
「俺たちにとって、人は花より儚いんだ。花は何度でも咲くけれど、人は一度しかそこにいない。二度と現れない」
つらい、と一言告げる。
声に混じって、心音が早い鼓動を刻むのが聞こえる。
「ごめんね、主、ごめん、俺は主に生きてほしい」
誰があなたを蔑もうと。
誰があなたを呪っても。
あなたがあなたを貶めても、自分は生きることを願うのだと。
強く強く抱きしめながら、青年はそう言うのだ。
……このまま酸欠で死んだらどうするのだろう、と梨々はふと思う。
胸の内を押しつぶす力は、少しずつ薄れつつあった。