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そのはち、けん、えぴろーぐ。

 リーフィルザーク・ダディ。


 かつて、その名を旋律にのせてセラフィン全土に響かせたピアニスト。

 キリは、家に帰ると書庫をあさりその名を片っ端から拾い上げた。今までは気にも留めなかった自分の家の蔵書が、今日ばかりはとてもありがたかった。


 セラフィン屈指の魔法使い。ただし彼の魔法は、他の魔法使いたちとは違う形でささやかにその力を発揮する。

 彼が奏でる音楽は、魔力を活性化させる。ただ、それだけ。

 火にとっての油、それがリーフィルザーク・ダディの音楽。彼の音楽は、疲れた人間たちをひそやかに癒し、枯れかけた植物をひっそりと元気付けた。水をためただけの人工的な池は湧き水のように澄み、枯れかけた草たちまでもが生の讃歌を謳う。


 彼は、ピアノを奏でた。

 しかし、それは魔法のためではなく、ただ、旋律のため。

 美しい旋律を求め続けた彼の名は、魔法使いではなく音楽家として渡る風のようにセラフィンを撫でていった。


 自分の力など関心も見せず、ただ音楽を愛し続けた彼は、やがて病に視力を失い、歴史の表舞台から消えてしまう。


 


 幽霊屋敷?

 それは、何も知らない子供の見解だ。

 ただの人間では制御できないはずの、すべての力を解放する屋敷。

 大人の誰もが、荒れ果てたその屋敷を取り壊そうとはしなかった。一見すると廃墟でしかないその屋敷を恐れたりはしなかった。


 当然だ。そこには、稀代の魔法使いと呼ばれた老人が今もひっそりとピアノと共に暮らしていたのだから。



* * *




 剣術大会は、どういうことか尋常ではない盛り上がりを見せていた。


 会場にセラフィン王室の筆頭魔術師とその唯一の弟子と、更に王室に復帰を望まれている高名な老魔術師がいることがすべての発端なのだが、そのことを知る者は教師を含めても全体の一割にさえ満たない。

 『大会に関して王室から援助があった』ということだけは伝えられているから、たぶん、そのせいだろう。


 キリのクラスの代表は、上級にあたる他のクラスと同じように急遽三人になった。キリと、リックスと、リックスの一の子分であるクルスという名の少年だ。

 教師は、代表の少年たちにこっそりと言った。

「この大会でいい活躍を見せれば、将来王宮騎士になれるかもしれないぞ」

 クルスは、考え込むように言った。

「俺みたいなのじゃ、勝つのは無理だしな。どう笑いを取るかが、問題だ」


 キリは、そこそこの成績で勝ち進んだ。何人かの上級生にも、かろうじて勝ち進んだ。

 リックスは、圧倒的な強さで勝ち進んだ。上級生だろうと下級生だろうと、秒殺で進んだ。


 一回戦を辛くも勝ち進んだクルスは、二回戦で最上級生に惨敗を喫した。だけど大袈裟なくらいコミカルな負けを演出した彼は、会場中にいっぱいの笑いを呼んだ。


 キリはリックスをうらやましいとは思わなかった。圧倒的勝利を演出できない自分を残念だとも感じない。

 たぶん、自分は変わってしまったのだ。

 だって、自分の求めるものが、はっきりとわかってしまったから。わかってしまった以上、それが一番で、それ以外は割とどうでもいいから。


 うん。

 たぶん、自分がうらやましいのは、クルスの方。



* * *



 試合を終えたキリは、ぼんやりと人ごみの間を抜けていた。

 試合の終わった生徒たちは大抵興奮が冷めずに仲間たちと騒ぎ立てるが、あいにく彼にはその仲間がいない。たった一人で、とにかく一目のつかない場所を探す。

 けれど、ふと進行方向に見知った人影があるのに気付いて、彼は口元をほころばせた。

 人影のうちの小さな方――リーフィルザークと手を繋いでいたラーサティアが、キリに気付くと転がるように駆け寄ってきた。その顔には、こぼれそうな笑みが浮かんでいる。

「キリ、すごーい!つよーい!」

 先ほどの試合のことをいっているのだろう。確かに、基本に忠実で応用力もあるキリは、ときに鮮やかな勝利を演出する。

 そのまま飛び込んできたラーサティアを抱きとめ、キリは顔を上げる。

 盲目の老人が、まるでこちらが見えているかのようにしっかりとした足取りで近寄ってきた。

 小さく会釈をして、キリは微笑む。

 剣術大会に来てくださいと、頼んだのはキリだった。


 お前さんには守るべき家柄と血筋と、誇るべき力があるのではないか。

 何故それを知っていたのかは定かではないが、リーフィルザークはそう言った。

 しかし、キリはただ、胸を張った。俺は全力で戦います、だけどたぶん負けるんです、そう言った。

 あのときの気持ちは、今も変わらない。


「キリ、優勝するの?」

「さあなぁ、だってリックスもいるしな」

 大好きな兄のことを思い出したか、ラーサティアは形の良い眉をきゅっと寄せる。リックスとキリの名を呟いているから、おそらく、どちらを応援したらよいのか迷っているのだろう。

「うーん、リッくん強いよぉ」


 勿論、リックスだけではない。今日の優勝候補はなんと同い年の女生徒だ。もっと上の学年だってたくさん勝ち残っている。おそらく、上位成績者――つまり今勝ち残っている者たちの実力は似たりよったりだろう。

 おそらく、キリは勝ち残れない。出場者の中で、キリにはある重要なものが欠けていた。


 勝とうとする意識、である。

 それが、なかったわけではない。幽霊屋敷に向かったときには、確かその辺に転がっていたはずなんだけれども。

 もしかしたら、幽霊屋敷のどこかで、落っことしてきたのかもしれない。

 あそこで落っことしてきたといえば、ピアノの部屋で落としたナイフは拾ったかどうだったか。


 まあ、気が向いたら、拾ってくるのもいいかもしれない。


「ねぇ、師匠」

 キリの言葉に、リーフィルザークは眉をしかめる。

「勝手に弟子になるな」

 さっきまでキリにまとわりついていたラーサティアは、いつの間にか彼を離れてあたりをちょろちょろと走り回っていた。何かを探すように草を掻き分けたり、ゴミ箱を覗き込んだりしている。

「俺は、やっぱり剣術なんて要りません。無駄じゃないですか」

 剣術大会のクラス代表だとは思えないセリフだが、キリは胸を張った。


 自分の決断には自信がある。

 むしろ、自分の中で自信があるものはそれだけだった。彼の持つ家柄も血筋も剣術も、そのどれ一つも彼にとってはもうどうでもいいことだった。

 今は、素直にそう思える。少し前まで、ただの『かっこつけ』でそう思っていたのは内緒だけれど。


「自覚ないなんて、大笑いですよ。ティアを笑わせたのは、師匠のピアノなんです」


 まだ、手に残る柔らかな感触。たぶん、一生消えることはないだろう。

 涙にぬれてしっとりとしたあの小さな手のひらは、今までの価値観が揺らぐにはじゅうぶんな影響力を持っていた。

「建国の勇者の血筋とか、剣術のクラス代表とか、そんなんじゃ泣いてる女の子一人笑わせることもできない」

 どうして、彼女は泣いたのだろう。どうして、彼女は笑ったのだろう。

 そんなの、答えはひとつだけ。


 あの時、あの場所で。

 ラーサティアを笑顔にしたのは、リーフィルザークのピアノだけ。

 どんなに面白い話をしても、強さで安心させようとしても、彼女を泣き止ませることはできなかった。ただ一人の少女を笑顔にする力さえ持たないナイフが、とてつもなくいらだたしくて、もどかしかった。


「無力、じゃないですか。そんなもん、俺は要りませんよ。効率悪い」

 キリは、笑った。視界の隅では、ラーサティアが土手の下を覗こうとしてころころと転がり落ちたところだった。


「だから俺にピアノを教えてくださいよ、きっと模範的な弟子になりますよ、ほら、血筋いいし?」


 もう一度、口にしてみる。やっぱりそれは、しっくりとその唇に馴染んだ。自分の求めているものはきっとこれなのだと、胸を張って言える。


 あのとき、ラーサティアを笑わせたリーフィルザークが心底うらやましかったのだと、認めざるを得ない。

 生まれて初めてだった。他人があんなにもうらやましくて、だけどなんだかとても尊敬の念が沸いてきたのは。


 だから。



* * *



 リーフィルザークの答えを聞かずに、キリは一歩踏み出した。


「ティア、リックスを探しているんだろう?」

 あんなに図体の大きなやつが、土手の下だとかゴミ箱の中だとか草の根元だとかに隠れているわけがないだろう、言いながら彼は剣術の練習でまめのできた手を少女に差し伸べる。


「あいつの行きそうな場所なら想像がつく。連れてってあげるよ。おいで」


 ぱっと、ラーサティアの表情が明るくなる。なんだかあったかいような気がして、キリは笑みを返した。

 お日様みたいだ、キリはのんびりと思う。


 手と手が繋がれる。ラーサティアは--友達でもなんでもないのに、何故か、キリがただ笑顔にしたいと願った少女は、にっこりと笑ってキリに寄り添った。


「今日から、お宅に伺ってもいいですよね、俺の準備は万端ですよ。あ、月謝は格安の方向で」


 リーフィルザークが小さく肩をすくめるのを、キリは見ていない。

 だけど、その顔に笑みが浮かんでいるのを、振り返ったラーサティアははっきりと目にとめていた。


 だから、彼女は嬉しそうに手を振った。



「ティアもいくのー! キリもダディもピアノもだいすきよー!」



 並んで歩く影にやがて一つの影が割って入り、それからぽこぽことわいてきた少年たちが寄ってきた。

 少女の兄とその仲間たちは、今までほとんど関わることのなかったその少年に近寄ると、笑顔でぽかぽかとその頭をどついたけれど。


 リーフィルザークは気にも留めず、くるりと弟子に背を向けた。音楽を何も知らないあの少年にはじめに触れさせるのは、どんな楽譜がいいだろうとぼんやり思いながら。


 にやりと笑うその濁った瞳は、まるで何かを見据えるかのように真っ直ぐな光を湛えていた。


 


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