第十六話 聖女という檻
翌日。
認証プレートの偽装術式が正常に維持されていることを確認し、軍医補佐官として大礼拝堂の片隅に待機した。
下層民の救護を名目とした配置は、神殿の監視網に不自然さを悟らせないための、最も安全な立ち位置だった。
朝光が白磁の壁に乱反射し、空間全体が淡い白光に満ちていた。
巨大なパイプオルガンの重低音が内臓を揺らし、ミルラとオゾンの混ざった甘い匂いが、閉ざされた聖域の空気を重く満たしていた。
この閉ざされた空間のなかに、衛兵に誘導された下層民たちが、息を潜めて跪いていた。
白いシルクのドレスを纏った聖女エレナが壇上に姿を現した。
その肌は白磁のように透き通り、触れれば崩れそうな儚さを帯びている。
だが瞳だけは、汚染された都の光を反射して、異様な強度を宿していた。
エレナは、大礼拝堂の中央に置かれた巨大な白磁の水盤の前に立ち、香草の束を両手で握りしめた。
水盤に満たされているのは聖水ではなく、禁忌薬を薄めて精製した緩和液だった。
神殿はこれを「祝福」と称し、民衆の依存を維持しているのだ。
香草を振ると、青緑色の燐光を帯びた飛沫が霧状に散り、跪く民衆の喉へと吸い込まれていった。
ただれた気管支が一時的に和らぎ、彼らは恍惚としたすすり泣きを漏らした。
彼らは涙を流し、聖女に向けて「奇跡だ」と、すがりつくようにして祈りを捧げ始めた。
壇上の動きを注視していた。
香草を振る彼女の指先は微かに震え、胸の上下動は肺機能の著しい低下を隠しきれていなかった。
奇跡の演出を維持するための極限の負荷が、彼女の身体を確実に蝕んでいた。
聖女の祝福儀式後には、形式上すべての医療担当者が健康確認を記録する決まりになっていた。
軍医補佐官としての事後検診と、台帳への記入という役割に基づき、神殿最奥に設けられた聖女専用の控室へと同行した。
室内の厚い絨毯を踏みしめ、白い石扉を潜り抜ける。
控室に入った途端、エレナは白い椅子に沈み込み、胸元を掴んで乾いた咳を激しく吐き出した。
呼吸は掠れ、肺の奥がひきつるような震えが混じっていた。
「お労しい、エレナ。これは世界樹と神殿の存続のため、神があなたに与えた尊い試練です」
金糸の刺繍を施された法衣を纏った男が、エレナの細い肩にそっと手を置いた。
大司教ゴダールは、温和な白髭と慈愛に満ちた微笑を浮かべていた。
彼は本気で、自らを聖女を導く「父」と信じており、その無自覚な善意が、逃げ場のない支配として部屋を満たしていた。
その不気味な熱気から逃れるすべは、この部屋のどこにもない。
「あなたの今日の祈りが、また何千もの民を、汚染の苦しみから救いました。
……神殿の導きを維持するために、明日もまた、水盤の前に立ちなさい」
白い手がエレナの肩に添えられたまま、逃亡を許さない万力のように優しく押し留めていた。
選択肢を与えず、自己犠牲という名の緩慢な死へと導く、柔らかな圧力だった。
「大丈夫です」
エレナは目を伏せ、穏やかな敬語基調のまま、しかし感情の消えた声で小さく呟いた。
その言葉は希望ではなく、届かない痛みを押し殺すための静かな諦念だった。
ゴダールは満足そうに微笑み、彼女の頭を愛おしそうになでた。
カルテを抱えて一歩踏み出した。 形式的な問診のための接触だ。
エレナの瞳に微かな光が宿り、こちらの姿をじっと見つめてきた。
外套に染み付いた、都では扱われない薬草の香りを嗅ぎ分けたのだろう。
だが、脈に触れる前にゴダールが柔らかな笑みで遮った。
「おや、軍医補佐官殿。
神殿の規定により、聖女への接触および直接の診察は専属医以外に禁止されております。
どうぞ、これ以上の余計な気遣いは無用です。
ただ、お気の毒な聖女のために、静かな安静を用意して差し上げなさい。
彼女に必要なのは、神への感謝と、静かな安静です」
微笑だけで介入を封じるその態度は、悪意ではなく、完全な無自覚の支配だった。
接触は阻まれたが、視線だけで彼女の血色、頸動脈の不自然な脈動、爪床に現れたチアノーゼを記録する。
重度の肺機能低下と、緩和液への重篤な依存状態
――身体はすでに限界を迎えていた。
それ以上、踏み込むことはしなかった。
神殿指定の定型文以外を書き込めば、その場で偽装は即座に露見する。
台帳に形式的に「聖女検分:異常なし」とだけペンを走らせた。
*
隠れ家へ戻ると、すでにカイルが待っていた。カイルは冷えた顔で立っていた。
「……リアム。 アルダーク伯爵の使者から、今夜、俺個人への呼び出しがあった」
名を呼ぶカイルの声は、乾いた砂のようにざらついていた。
報告書の受領の時点で、すでに伯爵側は動いていたのだろう。
ルマ村で掴んだ禁忌薬の流通ルートの証拠を、こちらが隠し持っていると、彼らは疑い始めているに違いない。
「ただの面談じゃねえぞ、これは」
カイルは長剣の柄を、意味もなく指先で二度、叩いた。




