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汚泥の中で

 俺は絶句した。

 あの異常な解放。その裏には彼女なりの理念、哲学があった。

「そういうことよ、三島くん。思いはまっすぐ伝えるものなの。例えそれが、どれだけねじ曲がった思いだとしても」

 これが、本当の彼女だというのか。

 破壊の使者という顔も、勤勉で向上心を持つ淑女という顔も、本質とは少し違う。ただイライラに、感情に忠実に生きているのが本当の彼女。

 やはり長野の顔に笑みや紅潮といったものは見られないが、その声は普段より随分と抑揚がある気がした。それは俺の思い上がりでなければ、俺を理解者と認めているということなのかも知れない。長野はせせらぎのような語り口で言葉を繋げる。

「私は今日、このことを伝えたくてここまで来たの。三島くんが感情表出の極意を体感する瞬間に立ち会えて嬉しいわ。一度経験することで、より深く、この心理が理解出来るでしょう」

「……」

 俺は二の句を告げずにいる。その思いがあまりにも痛烈で、掛ける言葉が見当たらない。

 長野の思いは振り切れていて、それ故に一つの概念として独立していた。

 それは、もしかしたら正しいものなのかも知れない。

「長野さん、僕は……」

 俺がやったことは間違っていなかったのか。行くあてのない思いを破壊によって表現するという道。胸元で引っ掛かり続ける得体の知れないものが少しずつ快方へと向かう感覚がする。それは、間違いなく長野の導きによってもたらされている。

「確かに、受け入れるのは時間が必要かも知れないわ。でも大丈夫、あなたなら到達出来るはずよ」

 そう話す長野の瞳からは疑いの色が微塵も見られない。言葉の端々からはどことなく晴れやかな色合いが溢れている。

「それに、周囲の人間はこちらが何をしようが思ったよりも気にしていないものだわ。だから裏を返せばこちらも周囲のことを気にしなくて良いということになるのよ」

 その語り口は流麗ながら、他を圧倒する空気があった。何か言葉を挟もうとしてもそれは許されず、つい黙り込んでしまう。

「それじゃあ、また明日元気な姿で会いましょう――今夜は良い夢が見られることを願っているわ」

 長野は身を翻し颯爽と歩み去っていく。やがて月明かりもその姿を捉えられなくなった。

 後に残るのは夏が近いことを告げる虫の声。温い風が肌を撫でる。

 長野の言葉の要点、肝の部分を無意識に反芻する。清く生きるためには破壊も必要――はからずもその言葉の意図に沿った行動を俺は身をもって体験した。

 長野はそれで良いと言った。

 俺の心にはもやがある。しかしその薄い霧は、徐々に取り除かれようとしている。それはきっと、長野の考えを頭と体が受け入れようとしているサイン。

 じめじめした空気は体力を徐々に奪う。手当てをしてもらったとはいえ、傷口もまだまだ染みる。その一方で、思考は一つの方向を目指している。

「……帰ろう」

 そんな状況であれば、取り得る手段は一つだった。正直なところ家へ戻ることに対して全く気乗りはしないが、今はその選択肢を取りたかった。莉子と母さんには絶対に会いたくないが、それを押し切ってでも確認したいことがある。

 それは、破壊という行動が本当に正しいのかどうか、その答え。

 長野は正しいと教えてくれた。俺は今、その思想に同調しようとしている。リビングの状況さえ確認すれば、その正当性が証明出来る気がしたのだ。それに、直前で気が乗らなくなっても悟られないよう自室に籠れば良いだけの話だ。一人きりで考えれば何か分かるかも知れない。

 馴染みの歩道をほんの少し移動するだけで、我が家の正門は姿を現した。門といってもそこまで大袈裟なものでもない。俺の身長よりも低い程度の、間に合わせのようなもの。少し触れただけですぐギシギシと音を立てるそれに対して、僅かな音も立てないようそっと手を掛ける。

 その時、デジャブが感覚を支配した。この感じは前にも味わったことがある。しかし明確なイメージはぼやけていて良く思い出せない。門を開け放そうとする手が止まる。

 しかし、デジャブというものは得てして思い出せなくなっているものだ。後ろめたい感覚を脇に置いて、自分より低い門をまるで潜り抜けるように通過した。

 門を過ぎても、その先には正面玄関がある。小さい家のクセに門など構えるから余計に住宅のスペースが削られているのだと、門に負けず劣らずのサイズを誇るこの玄関を見る度に思う。

 玄関灯は明かりが点いていた。それは、まだ住人が起きて活動していることを示している。逡巡しながらゆっくりとノブを回す。

 家を飛び出した瞬間のシーンが脳裏をよぎる。思い出す度にUターンしてこの場から消え去りたくなる。どうにかこうにか、その気持ちに打ち勝って少しずつ玄関のドアを開いていく。

 可能な限り存在を消し、入口への侵入を果たした。あとはもうリビングを覗き込み、結果を確認するだけで良い。そうすれば、俺の方向性がハッキリするはずだ。

 引き続き物音を立てずに靴を脱ぎ、足音を殺し室内の様子をうかがう。果たして示される答えは何なのか。

 破壊の道は、本当に正しいのか。

「――!」

 ベクトルが不明の緊張感を抱えてリビングを覗いた俺は、眼前に広がった光景に思わず息を呑んだ。

 リビングには、無造作に散らばった装飾品や家具の数々が無残に横たわっている。部屋のカタチはもはや原型をとどめていない。

 足の踏み場がない床では、母さんと莉子が黙々と整理をしていた。こんな夜中に、本来であればしなくても良い作業。

 この状況は、俺が作り出したものだ。

「あっ――」

 その瞬間、先ほど感じたデジャブの正体が分かった。そうだ、前にもこんなことがあったっけ――。

 あれは小学生のこと。

 クラスが変わり、仲の良い友達とも離れてしまった。小学生というものは薄情で、クラスが変われば遊ばなくなる。そうなれば必然的に新しいクラスメートと仲良くやらなければならない。

 だが、仮にそれが上手く行かなければどうなるだろう。もし友達が出来ずにクラスで孤立してしまったら。

 クラスでは一人、家に帰れば父さんと母さんの仲が悪い。これでは面白いはずもない。

 やがて、些細なことでクラスメートと喧嘩をした。何でも自分が一番と思っている、いけ好かないガキ大将のようなヤツだ。

 争いは熾烈を極めた。お互いに大アザを作り、互いの親が互いに謝罪し合うという事態に発展した。

 俺は我慢が出来なかった。どう考えても悪いのは向こうなのだから、成敗してやったことによりむしろクラス中から称えられても良いとさえ思った。

「このバカ!」

 しかし、母さんは真正面から俺のことを怒鳴った。

「人様に迷惑なんか、かけるんじゃない!」

「だって、アイツがわるい!」

「だからって、暴力するのは良い人間じゃありません!」

 良い人間であれ。母さんが涙を流しながら示した俺への教訓だ。

 あの時もリビングで暴れた。まだ体の小さい俺の暴走は結局母さんに止められたが、荒らせるだけ荒らした。

 今、目の前に映っているのはあの時の光景にそっくりだ。そういやあの時は、顔を鬼にした母さんと状況を良く分かっていない莉子がちょうど今みたいに片づけをしていたっけ――。

「あっ、おにーちゃん帰ってきた」

 兄とは対照的に強い生き物である証拠か、すっかり調子を戻していた莉子の声が現在へと俺の意識を戻す。

 油断した。細心の注意を払って侵入したのに、あっさり見つかっては努力が水の泡だ。

「アンタ、無事? とにかく片づけ手伝いなさい。こんだけ散らかされたら一人くらい男手が必要だわこれは。父さんはもういないんだからアンタにやってもらわないと」

 母さんはグチグチと気だるそうに言う。もうどこに行ったかも分からない父さんのことを話題に出す時の母さんの口調だ。

 この光景は、いつもの家族の光景だった。

 俺はあれから良い人間であろうとして、何があっても我慢して、自分を殺して耐えてきた。不平不満を心の中だけに閉じ込めて、あらゆるイライラをただひたすらに抑え込んできた。それが良い人間だと思ったから。

 しかし、その結果、膨れ上がったイライラに負け、また家族に迷惑を掛けてしまっている。

「ほら、虎太郎。突っ立ってないで早くやる」

「はやくしないと寝られなくなっちゃうよー。明日朝起きてこんな状態でもやだし」

 それでも家族は普段と何も変わらない、日常の光景を提供してくれる。

 このかけがえのないものを、ほんの一時でも俺は破壊した。

「……ごめんなさい」

 まっすぐ、言葉は出た。

 優しい光で眩く輝くこの光景を見て、浮かんだものはそれしかなかった。

 怒りからの闘争。それはただひたすらに憐れでしかない。この光景がその真実を教えてくれた。

「まったく……とにかく無事で良かったわよ。あとで話聞くからね」

 母さんは溜め息混じりに言った。

「あたしがおにーちゃんを助けてあげるから安心してよ。あたしのネットワークを使えばあんなヤツイチコロなんだから」

 莉子は妙に物騒なことを言う。

「いや、それはやめてくれ……」

「えー、なんでよ」

「いや、危険だろ……」

 本気を出せばあらゆる男子を操れるであろう力を持っている莉子が言うからには、単なる慰めではないのだろう。ただ、それだけに焦る。悪い司令官のような顔をして莉子があらゆる男子に指示を出すシーンを想像すると変な汗が止まらない。

 その手助けは確かにありがたいものだろう。しかし、それらの要員はこの案件に不要な気がした。明確な理由はまだ出せていないが、何となくそんな気がする。

「……ありがとな。もう大丈夫だから」

 部屋はまだ散らかったままだが、バラバラになった心のモジュールはどんどん組み上がっていく。それはそのまま、イライラがもたらした事象に対する答えという成果物になってくれそうだった。

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