真っ当なイライラなどない
ギリギリのところで辛うじて崩壊を堪えているメンタリティ。しかしそのバランスは、いつ崩れてもおかしくない。
儀我に良いように駒にされ、その無様さを見て取り巻き達は嘲り笑う。
儀我も取り巻きも、俺の目には人間として映らなかった。人間相手ならもう少し感じ取れるであろう温もりが連中にはない。もしも悪魔が現代に舞い降りたらこのようなカオをするのではないか。連中の顔を見て、無意識にそんなことを考えていた。
周囲のクラスメート達は、俺の情けない姿に気づかずに相変わらず明後日の方向を見続けていた。
むしろそれで良いと思った。誰だっていじめの現場など見たくもないだろう。気の毒であり、目にも毒だ。カースト中層への埋没に失敗し、下層の下層、最下層へと叩き落とされる男の憐れな末路。俺ならそんなもの見たくない。
やり切れない気持ちを拭えないまま街を歩く。大通りの空気は、早くも夏本番が近いことを感じさせた。季節が移ろう度に忘れては思い出す、少しぬめりと温さのあるこの空気。
夏が来るということは、その後に秋が控え、更にその向こうには冬がどっしりと待ち受けているということだ。暑さにも寒さにも弱い俺にとって大敵であるそれらの季節は、本来であればクラス内での適切な立ち位置を用いて明るく乗り切りたい。事実、そうすることが出来ている連中もいるのだ。
しかし、どうやら俺にはそれはとても出来そうにない。もう、クラスに俺の居場所はない。
そこに何かがやって来た。
それは救いの手を差しのべるクラスメートではない。
嗚咽。清々しいほどに禍々しく、己の中から湧いて出る嗚咽。
衆人環視の環境に身を置いているこの状況でなお、うずくまってしまいそうになる。しかし俺は、歩みを止めなかった。迫り来る感情をどうにか押し止めて、目的地を目指した。
助けて欲しい。助けて欲しい。助けて欲しい――。
どうしても負のオーラはせり上がってくる。終わりの見えない格闘を続け、疲弊しながら目的地へ辿り着いた。
そこは馴染みのゲームセンター。俺の理想を、このやるせない思いを、唯一ぶつけることが出来る場所。
目当ての筐体には今日も人はいなかった。長野が蹴り飛ばしたことなどまるでなかったかのように、いつもの場所に整然と鎮座している。
ちょっとした安堵感に包まれ、コインを投入する。マッチングの結果、隣町のゲームセンターでプレイしている見知らぬ人間が対戦相手となった。
「やってやる……」
思わず出る独り言は普段なら忌避すべきものだが、カースト上位の人間から蔑まされている今は逆に愛しく思えた。自分で自分のことを認めてあげなければどうにかなってしまいそうだった。
そう、自分を許せるのは自分だけ。他人は自分を許してなどくれない。
その理論は皮肉なことに、目の前にある画面も雄弁に語ってくれた。
相手は強者なのだろう。予想を超える動きとコンビネーションの数々に、俺は全く太刀打ち出来ない。
俺が否定されていく。画面上で俺の操作キャラが地に伏す度に、俺の心は折られていく。
そうなると必然、待っているのは敗北である。画面は、俺が負けたという事実と相手へのリベンジの有無を確認する選択肢をただ無機質に表示した。
一対一の対戦という形式である以上、過程がどうあれ結果としてもたらされるのは『勝利』か『敗北』しかない。チームスポーツとは違い、その原因は全て自分に跳ね返ってくる。
そんなことは知っている。伊達に何年も格闘ゲームの世界に身を置いていない。この二者択一こそが緊張感を高めてくれる、まさに醍醐味なのだ。更に、良い試合をすれば例え負けても後味の悪さはなく、そこにはただ清々しさだけが残るものなのだ。
――でもそんなものはうわべでしかない。
俺は無意識の内にコインを用意していた。リベンジの制限時間が迫る中、身構えてカウントが残り一秒になるのを待つ。
リベンジしようとした際に硬貨が手元になく両替しなければならない、といったような事態を考慮してか、たっぷり二十秒も用意されたそのカウントは少しずつ消化されていく。やがて残り一秒へと差し掛かった。
――ここだ。コイン投入。
背後に腕を組んで立っているかも知れない順番待ちの存在はあえて確認しない。ギリギリでリベンジの権利を行使した。たちまち第二試合が始まる。顔の見えない対戦相手は第一試合同様、俊敏な動きをもって間合いを広げた。
対して俺は、操作用のレバーを前に倒す。つまり、無防備に相手に向かって歩く。
対戦相手の動きが止まった。困惑している様子が二次元の画面越しにも伝わってくるから不思議だ。
「ハハ……来いよ……」
乾いた声が出る。次の瞬間、対戦相手は猛然と突進し、あっという間に画面上の俺をのした。
しかしこれはまだ序章に過ぎない。俺は次のコインを用意し、また制限時間ギリギリまで待ってリベンジした。対戦が始まれば、レバーを前に倒す。
狙いは単純だ。相手をイライラさせる。
制限時間いっぱいまで待てば、早く次の勝負をしたい相手の足を引っ張ることになりストレスを与えられる。そしてリベンジしているにもかかわらずまるで試合放棄のようなプレイをすることで、対戦そのものを侮辱する。
これをされた相手はどう思うか。想像するだけで胸が詰まるような感覚がする。
八百長のような試合が終わり、次、また次とコインを投入する度に『イライラしろ』と念じる。
俺は現実の世界で叩きのめされ、救いを求めてやって来た仮想の世界でもまた叩きのめされた。だから沼に引きずり込んで、俺に苦汁をなめさせた張本人にこの泥をぶつけてやらねば気が済まない。
俺のイライラはこんなものでは収まらない。お前もイライラしろ。狂え。狂え。辞めたくなるほど追い込まれろ――。
視界が明滅する。いくら相手をイライラさせるためとはいえ、本来楽しむべきゲームでわざと敗北を味わっているのだ。しかもこの戦績はしっかりとデータに残る。大事に守ってきた勝率が急降下する。これではワンプレイごとに気が狂いそうになって当然だった。渾身の力作である絵画をカッターで切り裂かれるに等しい絶望が感覚を支配する。
いや。どれだけ気が狂った廃人だろうと、勝負に対してまともな感覚を持っている人間ならこんなことはしない。つまり俺はもう、気がおかしくなっているのだ。
やがて連勝制限である十連勝へ到達し、強制的に隣町プレイヤーとの回線は途絶えた。こうなればルール上リベンジは不可能である。
財布の中身を確認する。ちょうど持ち金が尽きたところだった。
「ハハ、ハハハ……」
乾いた笑いは留まることなく抽出される。それが止む前に、糸が切れたように筐体に突っ伏した。資金と魂を削り、その上プライドの証である戦績を大きく落とした。
だが、それで良かった。この世界で俺だけがイライラするなど許せるはずがない。この拳を振るいたくなるような気持ち悪さをどうしても味わって貰いたかった。
強いて言えば、その相手として偶然選ばれた隣町プレイヤーには気の毒だった。しかしそれもしょうがない。元はと言えば、奴が俺より強かったのが悪い。気持ち良く勝たせてくれれば、こんな巻き添えを食わせることなどしなかったのだ。
脱力感に見舞われ、どれほど経ったか分からない。そろそろこの場所を出ようかと顔を上げた時、わざと音を立てているかのようなうるさい足音が耳に入ってきた。
その音はどんどん大きくなる。まるでここを目掛けているかのよう。
「わっ――!?」
次の瞬間、俺は背後から頭を無造作に掴まれ、椅子から引き剥がされていた。
「ちょ、痛い、痛い――!」
「黙れ! カスが!」
苛烈な声が耳に鋭く響いた。瞬く間に店外へと引きずり出され、コンクリートに思い切り投げつけられた。
「テメエ……随分と舐めたマネしてくれたな。こっちがどんだけイラついたか分かるか! あぁ!?」
ゲームの音でやかましい店内へさえも入り込みそうなほど凄まじい声量と共に、狂った拳が俺の頬にぶつかってくる。
「うぁっ――!?」
初めは痛いのか何なのか、良く分からない。しかし衝撃で吹き飛び再び地面に叩きつけられた後、背中への痛みと同時に頬が激しい熱を持つのが分かった。
「カスみてえなやり方してんじゃねえぞ、コラ!」
仰向けに倒れたまま胸ぐらを掴まれ、二発、三発と拳を顔面へともろに受ける。そんな中で少しずつ頭は理解していった。この目が血走っている男は、きっとついさっきまで画面越しに対話していた隣町のプレイヤーだ。この様子なら、俺の意図したことがストレートに伝わったらしい。良かった。表現方法として間違っていなかった。
もう何発殴られたか分からない。相手が手を離した瞬間、俺は床に頭を打った。
相手がどこに行ったかは分からない。痛いのかどうかも分からない。ただ、体が言うことを聞かず、立ち上がることはまだ出来ない。
人の気配を感じない。ここは駐車場かどこかなのだろう。しかしそんなことはどうでも良かった。
俺はイライラを俺なりのやり方でぶつけた。それに対するアンサーが、この状態だ。これはどういうことだろう。
唯一動く頭で色々なことを考える。彼はわざわざ隣町から駆けつけてまで俺に回答してくれたのだ。何度考え直しても、この思いが伝わったことだけはきっと間違いないと結論づけられる。では、その回答は俺が本当に欲しかったものなのだろうか。俺はただ、苦しむ相手を遠目から見ていられればそれで良かったのではないか。このような、直接体に分からされる結果を果たして望んだか。
取り留めのない思考を続けていたら、やがておぼろげながらも降りてくるものがあった。
イライラは、泥仕合しか生み出さない。
俺は泣いていた。頭以外にも動く機能が今の体にあることに驚くが、この涙の大本が疑問だった。それは何となくだが、どうも殴られた痛みとは違うところから来ているような気がしたからだ。




