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HADAL ZONE  作者: 佐久 満
3/5

quantum eraser

「これで何人目だ?」

「今月に入ってから三人目かな……」

「いつまで続けるんだ、こんな……」

 実験炉の研究員たちは緊張感のない態度で準備をしている。綾の代わりを探す作業は、同盟の独立以来の課題であった。デ・ルカ中佐は彼らをなだめながら、作業を継続していた。士気を保つのは簡単なことではなかった。

 核融合実験炉があるのは第三キルヤである。同盟には正式な研究機関と呼べるものは存在しない。守備隊の本部がある第三キルヤにかろうじて研究施設と呼べるものがあり、仮設の実験炉でテストは行われていた。


 第一キルヤ沖の海上では、綾が加奈と降下準備をしていた。用意した船は同盟軍の原子力潜水艦付属の救命ボートだった。サルタンの指示だった。人間が多いとコンタクトは無理だというのだ。ノイズが入るからという理由だった。そういうわけで、救命ボートに乗っているのは綾と加奈の二人だけだった。

「準備はいい?」

 綾がそう聞くと少女はうなずいて、服を脱ぎはじめた。宇宙服に着替えると、すぐに海に飛び込んだ。

「ロープを放さないでね。沈んでしまったら、助からないわよ」

「わかった」

 少女はうなずくと、海中に姿を消した。

 宇宙服は改良された最新型だが、それでも体重ほどの重さがある。ロープを放して沈めば、助ける方法はない。原潜で探そうにも、光の届かぬ深海ではどうしようもない。ましてやエウロパの海では海底などないも同然なのだ。沈み続けるしかない。

「降下開始」

 綾は通信機の電源を入れると、実験炉に連絡を取った。


 加奈は水深二百メートルに到達すると、綾に教えられたように意識を集中した。第三キルヤの実験炉をイメージする。トーラス状の磁場の中に、重水素とヘリウム3の原子が旋回していた。彼女は原子核の一つ一つを認識することができた。ヘリカルコイルの磁場を利用して、ブラウンラチェットを構成する。プラズマはローレンツ力を受けて、螺旋運動を始める。彼女が原子の記憶を書き換えると、運動量が増加した。プラズマの密度が徐々に上がってゆく。


 一時間が過ぎたころ、実験炉に変化が起きた。

「発熱している」

「今何て言った?」

 モニターをにらんでいた研究員がつぶやいた。

「発熱している、と言ったんだ」

「温度は?」

「現在四千ケルビン」

「……本当か?」

 急に室内の空気が緊張し、研究員が慌ただしく機器を調整し始めた。

「間違いない。現在も上昇中」

 チャンバー内温度は上がり続けている。

「……そんな馬鹿な」

「外が何度か知ってるか?」

「お前に教えてもらわなくても分かってる。せいぜい二百八十ケルビンがいいとこだ」

「……中佐を呼べ」

 一人がそういうと、もう誰も口を開く者はいなくなった。


 加奈はプラズマ密度をさらに上げた。やがてプラズマはローソン条件を超え核融合反応が起こり始めた。重水素とヘリウム3を衝突させて、ヘリウム4と陽子を生成する。トロイダル方向の磁場は10テスラに達していた。彼女はブラウンラチェットを調節して、さらに温度を上げた。ヘリウム4と陽子の一粒一粒の形がはっきり見える。突然背中に何かの気配を感じた。周囲の海水が揺らめいて大きな渦を作り出す。彼女は渦の中心にいた。いつの間にか、渦はヘリウム3と重水素でできていた。トーラス状の渦はねじれて回転しながら、彼女を中心にぐるぐるとトロイダル方向に回った。彼女がブラウンラチェットでさらに渦を加速させると、声が聞こえた。

「……そのまま渦を保つのだ」

「これでいい?」

「そうだ。時間を書き換える」

「原子の時間を書き換えるのね」

「プラグは記憶を操作できる。時間も記憶であり、情報の一種だ。時間を操作すれば、運動量を操作できる」

 加奈はプラズマの運動量を操作して、渦を加速した。次第に慣れてきて、情報の書き換え間隔が短くなる。

 速く。

 ナノセカンドからピコセカンドへ。フェムトセカンドからアトセカンドへ。そしてプランクスケールへ。

 もっと速く。

「その調子だ」

 サルタンは満足そうに言った。

「時間を書き換えて大丈夫なの?」

「心配しなくていい。原子の世界には時間は存在しない」

「時間がないの?」

 加奈は驚いて叫んだ。

「時間が存在しないからこそ、波動関数は確率波になるのだ。時間とは波動関数選択の結果だ。マクロの世界でも時間は本来存在しない。存在するのは記憶だけだ。そして、記憶が波動関数を選択する。だからこそ、エントロピーは減少しないのだ。記憶は増大するのみだからな」

「松田さんも、そんなことを言ってたわ。時間は情報だって。本当なの?」

「実はあまり自信がない。われわれはそう信じている。しかし、どのスケールで記憶の集積が起これば時間が発生するのかは分からない。おそらく、意識も記憶の集合体にすぎない」

「それはつまり、わたしの意識は情報だっていうことね」

「そうだな。この宇宙は情報でできているのだ。そしておそらく、記憶の集積は相転移を起こすはず。われわれはそれが意識だと考えている」

「何だかすごい話ね」

「こうした知識はいずれ必要になる」

「そうなの?」

「時が来れば。今は忘れていい」

「とにかく、わたしはプラグとしては合格点なのね」

「そう言えるだろう」

 それを聞いて加奈はほっとした。

「よかった」

「集中力を切らしてはいけない。もっと温度を上げられるか?」

「やってみる」

 彼女は言われた通りに発電を続けた。


 デ・ルカ中佐はモニターを見つめながら、受話器を耳に当てている。会話の相手は綾だった。

「ええ、そうです。今も上昇しています」

「温度は?」

「一億ケルビンを超えました」

「どうやら本物のようね」

「そのようです。続けますか?」

「そうね。この子がどこまでできるのか知りたいわ」

「了解しました。もう二億を超えましたよ。予備バッテリーを充電したかったんです。ちょうどいいから、充電させてもらいますよ」

「ご自由にどうぞ。一時間は発電可能か、確認できるまで、テストは続けるわ」

「回線は開けておきます」

 中佐は上昇を続けるモニターを見つめた。

「……よかったですね」

「何?」

「よかったですね、って言ったんです。これでプラグが二人になった」

「そうね」

 綾はたいしてうれしそうでもなかった。それでも同盟にとっては吉報には違いなかった。

 中佐は研究員たちの方に振り向いた。

「間違いないですか?」

「ああ、間違いない」

 中佐がそう答えると、研究員たちは安堵のため息をついた。

「二人目の魔女、というわけですか」

「そういうことだな」

 これで同盟にはマクスウェルの悪魔が二人いることになる。それが何を意味するか、物理学に詳しくない中佐でもわかっていた。

 これで連邦に対抗できる。同盟は熱力学第二法則を破ることでその力を手に入れたのだ。

 十分後には、チャンバー内温度は五億ケルビンに達した。少女はその状態を二時間以上維持し続けた。

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