ヨウコ (1)
ハッとヨウコは起きあがった。
今、アキトの声が聞こえたような気がしたのだ。
ヨウコの気配を感じて、モサックも首をあげた。ハアハアと口を開けて、キョトンとヨウコを見ている。
そのモサックの顔を見ると、ふっと心が和らぐ。
モサックは、また自分の前足に顔を乗せると、目だけヨウコの方を見ながら、毛玉の中に沈み込んだ。
ヨウコはベッドの横の窓から外を見た。いつものように、大きなイチョウの木が見えた。
外は静かだった。
戦が始まって、仕事が忙しくなり、アキトはずっと研究所にこもっている。
コンピュータの画面を通して見るアキトは日ごとにやつれ、顔は骨張って、目の下には黒いクマができ、ごつごつしてきていた。
ヨウコには優しい言葉をかけてくれるが、過酷な毎日を過ごしているのだろう。アキトにもゆっくり休んでもらいたい、とヨウコは切に思っていた。
ベッドからすぐ手の届く枕元にコンピュータは置いてある。そのコンピュータを立ち上げてみたけれど、ここ数日、通信機能は作動しなくなっていた。
ヨウコはディスプレイに映るアキトの最後の映像に手を伸ばし、アキトの頬の線をなぞった。
モサックが上目づかいにヨウコの方を見ている。「わかっているよ」と言っているみたいだ。モサックの方に手を伸ばすと、モサックはゆっくり起きあがって、ゆさゆさ身体を揺らしながらやって来て、ヨウコの傍らに座りなおした。モサックはもうおばあさんでだんだん弱くなってきている。でも、モサックがそばにいてくれると、気持ちが落ち着く。
モサックの首に手を当てて、なでると、モサックがゆっくりと目を閉じた。
「ねえ、モサック、ミドリは可愛いかったねえ。一緒にピクニックに行ったことを覚えている? ミドリは車に酔ったけれど、出かけるのが大好きだったのよ」
モサックは静かにヨウコの目を見て、いつまでもヨウコの話を聞いている。
「ミドリはモサックが大好きだったねえ。もっとずっと走り回ることができたら、どんなに良かったかしら。でも、モサックが走り回ると、すごく喜んで声をあげていたでしょ? モサックによりかかって眠るのが大好きだったでしょ? ミドリに今、触ることができたら、どんなにいいかしら」
気持ちが高ぶってくると、ヨウコは、ミドリの思い出に浸ることにしている。
ヨウコはジェルでひんやりとしているアイマスクをつける。
そして、ハットをかぶる。
それは、思いをつなげてくれる。
アキトが作り、置いていってくれたもの。
アキトと、ミドリと、モサックと、ヨウコとすべてがつながっているもの。
今、ミドリは、庭のイチョウの木の根元に埋まっている。
ヨウコは再びイチョウの木の方に顔を向けて、静かに身体全体の力を抜いていく。
アキトの作ってくれたプログラムにつないでいると、眠っているのとは違うけれど、でも眠っているような甘美な夢の世界にいられるのだ。
実世界はつらすぎる。
今は、これをつけよう。
いつまでも思い出だけに浸れるように。
まず、一つずつ思い出をたどろう。
ヨウコが産まれた家。都心のアパートだったけれど、優しい父母がいて、何不自由なく育った。
学生時代には、たくさんの友達とよく遊んだ。勉強することも嫌いではなかった。運動も好きだったし、あまりつらい思い出はない。人とのつきあいには、いつも恵まれていたと思う。看護師になろうと夢見、すんなりと看護師になった。
ヨウコが働く病院にアキトが”グリーンスペース”を売り込みにやって来た日のこと。
まっすぐに目を見つめて話す人だった。病気にかかっている人の、その患部を治療することも大事だけれど、身体全体の調和を保つために、患者の心を豊かに健やかにすることが大事なのだと、熱く語っていたっけ。
でも、私生活ではそんなにおしゃべりな人ではなかった。ただいつも情熱に動かされているような人で、ヨウコがアキトにとってどれだけ大切な存在なのかは伝わってきた。
アキトと過ごす時間は幸せだった。
モサックがやって来た日。
アキトの友だちの家で産まれた子犬で、小さかったけれどムクムクだった。ヨウコが触れるとぶるぶると震えていた。悲しい、頼りない目で、ヨウコのことをじっと見ることさえも恐れていた。
子犬の首に手を触れたら、モサモサしていて「モサック」という名前が浮かんできた。
モサックは大きくなるにつれて、その名前にもっとぴったりのもさもさになった。外を走ると金色の毛がなびく。動く様子も名前にぴったりだった。
ミドリが産まれた日。
小さくて、赤くて、弱くて、細くて、目をつぶっている。
ミドリは小さすぎ、ガラスの保育器の中に入っていた。
しわしわだけれども、口をモゴモゴと動かして、手足を動かしている。その様子がおかしくて、ヨウコは笑った。
ああ、お腹が空いているのかもしれないね。
毎日毎日、少しずつ大きくなる。その一日一日を愛おしいと思った。
女の子だったからミドリ。
赤ん坊がお腹の中にいる時、ふと浮かんできた文字が「緑」という字で、男の子なら「リョク」と読ませるつもりだった。でも。女の子で良かったのかもしれない。リョクっていう名前はあまり聞かないから。




