第2話 暗殺者は死する
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つい数刻前まで、空を覆っていた分厚い雲。その切れ間から三日月が顔を覗かせる。
差し込む月明かりによって、夜の闇に包まれていた部屋がぼんやりと照らし出される。
そこにはあまり、物が存在しなかった。一言でいうと殺風景だった。
埃っぽい部屋に、少々大きな棚と、簡素な造りのベッドが一つずつ。
棚には古びた、分厚い本が数冊置いてあった。
しかし、しばらく読まれていないのだろう。本の上にはうっすらと白い埃が積もっていた。
ベッドには一人の男が寝かされていた。だが、男は眠っているわけではない。
もう身体が動かないのだ。
頬がこけていて、厚手の服の下からでもわかる、痛々しいほどまでに痩せ細った身体からは、男がもう何日も寝かされたままだということが、容易に想像がつく。
呼吸は荒く、時折苦しげなうめき声が口から洩れる。
男は自分の命がもうすぐ尽きることを知っていた。
一か月前、手早く依頼を済ませた帰り道に、自分の身体から、突然力が抜けてしまった。
残った力を振り絞り、何とか近くにあった隠れ家に辿り着いた。そして、男が信頼できる馴染みの友人兼医者に連絡をつけることもできた。
だがそこで男は倒れ、意識を失ってしまった。
次に目を覚ましたとき、男は今のようにベッドで寝かされていて、馴染みのあるその医者が傍に立っていた。
医者が言うには、診察した結果男は不治の病を患ってしまっているということがわかった。
そして、医者の腕ではもうどうしようもない段階であり、男の余命はほとんど残ってないという。
男はまず最初に驚いた。
自分が不治の病にかかっていたという事実にも驚きだが、何よりもどんな重傷や病でも治療して見せた医者でもどうしようもないということに驚いたのだ。
そして、男は現状を受け入れた。
医者が嘘をついている可能性は否定できないが、そこは友人でもあるし信じようと思う。
それに、今思えば真実を言っていようと虚言だろうとどうでもよいのだ。
死。
それは男の人生において、どんな生物にでも訪れる絶対的な運命。それが男の経験則だった。
どれだけ強くても、どれだけの寿命を持っていても生物である限り死からは逃れることはできない。
確かに、例外はいるがそれにもいつしか終わりは来るだろうと思っている。
そのことを彼は今までの人生で嫌というほど見てきて知っている。
数秒前までは幸せに満ちていた場所が、あっという間に崩れ怒号、血の香り、泣き叫びなどが闊歩する世界に早変わりする。
ゆえに、この経験則だけは決して裏切ったことがない。
その経験則に照らせば、自分がここで死ぬということも決しておかしいことではない。
ただ単に自分の番が回ってきただけだ。
男は思う。
自分は幸せだったかと。
男は暗殺者だった。
物心つく前から暗殺者として育てられていた。
毎日毎日、血のにじむような訓練をこなし、夜には一般常識を学びさらに個人的な訓練を重ねた。
寝る暇は1時間もあればいいほうだった。
そんな、普通の(暗殺者としての男からすれば)日々だった。そんな生活習慣は年をとり、成長をした後でもあまり変化はなかった。せいぜい、依頼を行う時間が増えたぐらいだ。
幸福だったのかはわからない。
普通の人からみれば不幸だったのかもしれないが、男を含めた暗殺者から見れば当たり前の日常だ。そう男は考えていた………
意識に霞がかかっていく。どうやら男の命はもうすぐ燃え尽きるようだ。
とても長い人生だった。
皺一つない肌、白髪一本ない頭髪。そして、見た目的にも実際にもさほど歳をとっていないのに、男はそう考えていた。
暗殺者は常に死と隣り合わせの危険な職業だ。
敵対している。または、恨みを買ってしまった組織や個人から命を狙われる。
暗殺対象自身や、その護衛に返り討ちに会い命を落とす。
他の暗殺者や何でも屋のような職種のの依頼内容として命を狙われる。
仮に依頼が成功しても、情報の漏えいを恐れた依頼主が命を奪おうとする。
など命が危険にさらされることは日常茶飯事だ。
そして、暗殺者は暗殺者としての経歴が長ければ長いほど、功績が大きければ大きいほど命を狙われやすい。
つまり、ベテランであればあるほど命が狙われるということである。
そういう男も既に何百というほどに命を狙われた。
そしてその全てを返り討ちにしてきた(そうでなければ今この場にいることはなかった)
そんな、殺伐とした疑心暗鬼の世界で生きていくためには困難を極める。
男は、平均5年(この世界では)が関の山といわれているかれこれ15年以上暗殺者をやっている。
確かにそう考えれば男の暗殺者人生は長かったのかもしれない。なにせ平均値の3倍の長さだ。長いに決まっている。
更に、男にとっては一秒一秒がとても濃い時間だった。
長い人生だった?
今更なぜこのようなことを考えているのだろうか?
もう死ぬ直前だからだろうか?
それとも………………
だが思考がそれ以上続くことはなかった。
男はもう考えることも疲れ切っていた。
本当ならば二週間持てばよいほうだった余命を気合と根性だけでさらに2週間も伸ばしていたのだ。
もうそれは奇跡と呼べるようなレベルの話だったが、そんなことを男は気にしていなかった。
死の先延ばしという反逆の代償は男の甘く見積もっていた予想をはるかに超えた苦痛をもたらし、男の精神と肉体を蝕んでいた。
結局は男も一つの命をを持つ生物の一個体に過ぎなかったのだ。
男は強すぎたために、生きてきて本当に死を実感させることは今まで一度もなかった。
だが、今まで生きてきた中で一番死に近づいた現在、男は心が震えるような、それでいて体の芯から凍てつくような恐怖を確かに感じていた。
暗殺者としての諦め。
生物としての執着。
相反する二つの本能は、せめぎぶつかり合いさらに男の精神を摩耗しすり減らしていく。
もう疲れ切っていた。
身体の感覚ははるか遠くにおいてきてしまったかのように鈍いのに、やけに心臓の動く音だけが大きく聞こえる。
どくんっ、どくんっ、どくんっ、どくんっどくんっどくんっどくんっどくんっどくっどくっどくっどくっどくっどくっどくっどくどくどくどくどくどくどくどくどくどどどどどどどどどどど
緩慢だった心臓のリズムがだんだんと早くなっていく。
もうほとんどの感覚が機能していなかった。
頭に響く心臓のリズム。それだけが焼き付いてしまったかのように残っている。
そのあまりの速さに心臓が壊れてしまいそうだ。
だが、感覚が機能していないせいか、痛みは感じなかった………
目を閉じてしまえ。
意識を手放してしまえ。
そうすれば楽になれる。
もう、つらいのは嫌だろう?
つらいことに我慢をする必要はないんだ。
さあ、楽になってしまおう?
………………!?
その甘いささやき声が聞こえたとき、最終的には破金をガンガンと鳴らしたようになっていた心臓の音はいつの間にか消えていた。
わずかに残っている視界に残るのは月が放つ白銀の冷たい光ではなく、朝日の柔らかさのある白い光だった。
いつのまにか数刻の時が経過していた。
夜が朝に変わっていたことからかなりの間意識を失っていたことになる。
まだ死んでいない?
あの、死の予感は間違いだったのだろうか?
男はまだ生きていられると考えると嬉しさが込み上げてきた。
ふと気が付くとまたどこからか甘いささやき声が聞こえてきた。
「〈さあ、目を閉じてしまおう?そのまま、何もしなくていいんだよ?〉」
おかしい。
聴覚はもう使い物にならないはずなのに………
そうは理解していても、誰かのつぶやきはなにかとても魅力的なものに感じられた。この甘美なるささやきに思わず引き寄せられてしまいそうだ。
この声に抗ってはいけない。
身を任せてしまおう。
と言うのは、もう一人の自分だろうか?
このまま自分に正直になって目を閉じてしまいたい。
その感情が理性を侵食し、上回っていく。
最後に見えたあの景色はいつの日のころだっただろう?
その光景にそっと手を伸ばせたような気がして………力が抜けた。
「俺は幸せだったのだろうか………………」
それは、暗殺者の男らしくはなかったが、男の口からはすっとつぶやきが漏れ、男は目を閉じて闇に身をゆだねた。
絶対的な死の運命。
男はそれから逃れることは出来なかった。
当たり前ではあるけれど不可能だった。
暗殺者としての男の経験則はこの時点までは男を裏切ることはなかった。
そしてその通りに男は死に、息絶えた。
だが、世の中には絶対というものは決して存在することがない。
だからか、この後、絶対的であったはずの法則が、男を初めて裏切ったのは。
それは、暗殺者のくせに心を殺しきれない男に対する皮肉か、それとも、ほんのちょっとの気まぐれなのだろうか………………
その日、暗殺者が一人亡くなった。
その知らせはあっという間に前世界中を駆け巡った。
その暗殺者の名前はトオル=グリーパー。
有力貴族や王族に暗殺者を提供または、都合の悪い人間の抹殺を主目的とし、数多くの一流暗殺者を育成、輩出してきた名門と呼ばれる、通称『暗殺伯爵』。その、グリーパー家の3男としてこの世に生を受け、その後、超一流暗殺者としてまさに世界を股にかけて活躍、暗躍した暗殺者だ。
また、トオルは暗殺者として各国の王や皇帝、貴族が恐怖と畏怖で最要注意人物として恐れられているために世界的に有名なだけではなく、とても強力な詠唱者という側面でも世界中に名を知られている。
まあ、命を狙われる側にしてみれば、どちらの意味であったとしても世界中に強者や恐怖の対象として名を知られているような人物に命を狙われるのは困るどころでは済まないので、どっちにしろということなのだが。
ちなみに、どっちかといわれれば庶民にも広まりやすい詠唱者としてのトオルのほうが知名度は高い。
トオルの使っていた魔法は、一般的には弱者に使うと効果覿面だが、強者にはほとんどの場合で抵抗されるまたは無効化されてしまう。また、状況によっては自身よりも格下の弱者にすら抵抗されてしまう。
しかも、出力は同程度の難易度の魔法に比べてもさして高くないのに、消費する魔力量が倍近くあるので、世間一般には『微妙系統』と纏められてしまっている不遇扱いの魔法が多かったそうだ。
トオルはその『微妙系統』と分類される魔法をどういう術利、技術を使ってかは想像することもできないが、効果や定型詠唱は全く同じなのに、強者にも十分以上に通用する魔法に変えてしまったのだ。
トオルは数ある『微妙系統』の魔法の中でも、属性的には『光属性』や『闇属性』である『幻系統』の魔法を好んで使っていたそうだ。
トオルの幻の攻撃にさらされたものは例外なくひどい目にあわされて、そのほとんどが物質的ではない肉体の内面、つまり精神または魂に看過できないほどの重傷を受けていて、その時点で精神的に死んでしまっているか、生きていたとしてもいまだに立ち直れなかったり、植物人間のような状態で余生を過ごしているらしい。
まだ、これは暗殺対象の護衛だったり、戦争を吹っ掛けた国の正式な軍隊の一卒兵だったからこれだけで済んでいる。
だが、暗殺対象ともなると全てが例外なく事切れている。
傷のない死体。
寿命で死んだのではないかと錯覚しそうになってしまうぐらいにきれいな死体なのだ。
ただし、顔は壮絶な表情を浮かべている。それは恐怖だったり戸惑い、中には歓喜だったりもした。
ゆえにつけられた、正確に言うならば付いた二つ名が『幻影王』
『王』とは、ずいぶんと仰々しく痛々しい二つ名だが、それは世界でもトップクラス。ほんの極わずかな一部の人にしか与えられることのない名誉ある二つ名でもあった。
実際に『王』の二つ名を持つ者は現在、世界中を探し回ったとしても、トオルを含めて8人しかいなく、過去にも同じ時間に『王』の二つ名を持つ者が2桁以上いたことがないという。(勝手に『王』の二つ名を名乗っている輩ならば腐るほどにいる)
この世界―ルシードというに存在する二つ名には、普通の『二つ名』と、特別な効力を持つ『真理の二つ名』の二つがある。
勿論、『王』の二つ名は後者である。
普通の二つ名は何も問題がない唯の二つ名である。
しかし、『真理の二つ名』は通常のものとは違って、ある一人の人物が決めることができずに、不特定多数の人物の意見、意思が混ざり合い二つ名へと変化する。
何とも奇怪なことだが、本人は二つ名に変化した瞬間その存在を自然と知り、本人が名乗らなくても二つ名は勝手に知られていく。
とは言っても、それにも限界があり何もしないでただのんびりのほほんと生きていれば数人ぐらいにしか知られることはない。
そして、この『真理の二つ名』を持つ者は大多数の生命体に知られていれば、知られている程に強い恩恵を受けている傾向がある。
これは、かつて行われたある貴族領での出来事なのだが、『真理の二つ名』を持つ同じ実力ぐらいの2人の人物を拉致監禁して、一人は二つ名を強制的に広めて、もう一人は二つ名を隠蔽し肉親以外の誰にも知られないように情報統制をした情態で、十分な実験結果が得られるまで『回復系統』や『治癒系統』、『再生系統』の魔法を使いながら休息無しのエンドレスで、本気で戦わせ続けるというむごい実験の産物の結果として判明している。
ちなみに、最初は頑としていうことを聞かず、あまつさえ反抗してきたので、その2人の『真理の二つ名』持ちの人物の家族や友人を人質にとり、人質が死んでしまうギリギリのところでようやく、渋々と実験に協力してくれたらしい。
結果は、二つ名を広めた方の人物の15万4362勝0敗。実験は3日3晩続いたというが、どれだけ情報を隠蔽した方の人物が死にもの狂いに頑張ろうと、どんなに汚い手を使おうとも結局は情報を広めた方の人物には1勝もすることができなかった。
このことから、何故かは不明だが、『真理の二つ名』をたくさんの人が知っているほど強くなっているということが分かった。
ちなみに、実験が15万回以上も続いているのは完全に研究者の悪乗りで、実験の最後には二人の被験者は完全に性格が変わってしまって、情報を広めた方が荒々しく凶暴に、情報を隠蔽した方が弱々しく気弱になっていた。
そのため、『真理の二つ名』が世界中に知れ渡っているということはそれだけ強いということの証明になる。
暗殺者、しかも『微妙系統』の魔法の使い手に栄誉ある『王』の二つ名が与えられたことは歴史上トオルが初めてのことだった。
世間では特に王族や貴族などの一部の上流階級の人間、中でもトオルに私的恨みつらみのある人間からはトオルが『王』の二つ名にはふさわしくないと主張する反論が無数に出た。
「汚らわしい裏稼業の暗殺者如きに誉れある『王』の二つ名を与えるべきではない」や「『王』の二つ名に見合うだけの実力などたかが暗殺者が持っていないだろう」、「まるで『王』の二つ名に着飾られているようだ」
など数を数えればきりがなかった。
しかし、彼の実力は『王』の二つ名に相応しい申し分のないものだった。(『真理の二つ名』であるという時点であたりまえだけれど)
そのため、これ以上のトオルの力が強大になることを防ぎながら、あわよくばトオルの力を少しでも削ぎ、自分が炉折るの暗殺対象にされてしまったときに少しでも戦いやすくしようという、トオルへの嫉妬からくる妨害工作と自身の命可愛さからくる二つの側面を兼ね備えた王族や貴族の企みは水泡に帰すこととなった。
トオル=グリーパーが強大な力を持った個人だということは様々な事実が裏付けしている。
その例の一つが王族たちの企みが瓦解した時と同時期に起きた戦。
その戦が当時12,3歳程度だったトオルの力を真に証明し保証して、皮肉にも王族たちの企みが失敗する直接的な原因になった。
その戦は『ガルカティー聖戦』と呼ばれている。
トオルに両親を暗殺された過去を持つ小国の美しき女王が、トオルが名誉ある二つ名を授かったことが許せない。何か、仕掛けがあるのではないかという理由を建前にして近隣にある大小問わずの3国をそそのかし、焚き付けた。そして、国主を自身の美貌を使い色仕掛けで籠絡した。
女王はトオルと同じくらいの年齢だったので、国主はロリコンといわれてもおかしくはない。そんな、変態と思われてもしょうがない国主は哀れなことに、ホイホイ女王のいうことを聞き同盟とは名前ばかりの属国契約と服従契約を魔法具を使ってまで結んでしまった。
よほど復讐に燃えていたのだろう。まだ幼いのによく考え付いたものだ。
そして、取り込んだ3国の軍と自国の軍。更に、冒険者や傭兵、賞金稼ぎなどの戦える者たちを集わせ、急速に連合軍に仕立て上げ、トオルに報復勝としたのが戦の始まりであった。
『ガルカティー草原』にあった当時のトオルの隠れ家兼住居を発見した連合軍は、トオルが仕事を終えて帰ってくるタイミングを見計らって奇襲を仕掛けた。
連合軍は、地上を歩き常に最前線へ行くことを要求される歩行兵。
馬に乗ることによって高速移動から奇襲力の高い騎馬兵。
後方から援護射撃を行い、時には斥候の役目も請け負う弓兵。
重量感のある両手剣を持ち、分厚い全身鎧を着こみ魔法も使いこなして戦闘を行う魔法騎士。
高火力の魔法で敵を殲滅する攻撃特化の魔法兵。
負傷した兵士の怪我や不意の病気などを薬や魔法で癒し、治す魔法医師。
兵たちに紛れて罠を仕掛けたり最新の情報を集めたりと裏方で援護を行う工作兵。
現在の戦況を分析しその時の状況に合わせて順次作戦を組み立てていく、実質最前線の指揮権を持つ軍師
兵たちに美味しい食事をふるまい、英気を養わせると同時に影から指揮を上げる料理人。
国から雇われた、冒険者や傭兵、賞金稼ぎなどを集めた集団。
の10の統制された部門からなり、それぞれに各国の部門長一人ずつの36人と手段の代表者4人の計40人がいた。
そして、連合軍の総数は500万にも及んだ。
500万対1。
この人数では結果は火を見るよりも明らかだろう。もちろん誰の目から見ても500万の軍勢が勝利する予想だった。
だが結果は、予想に反してトオルの勝利に終わった。
誰が予想しただろうか?
たった一人の人間が24時間どころか72時間つまり3日間ぶっ続けで戦い通して何の疲労もなく痛痒もないことを。
たった24時間という僅かな間に連合軍でも最強クラスの各部門の部門長40人と部門長の親衛隊、そして彼らを守ろうとした軍全体の3分の1にも及ぶ兵たちが皆殺しにされ死体として大地に転がされていると。
この戦は3日で終結した。指導者である各部門長を失った軍は混乱し統制がとれずに敗走。
2日目で500万もいた大群の約9割、数に直すと480万近い兵士が死亡した。
3日目で戦を引き起こした女王と国主が一族郎党皆殺しにされ連合軍の後方作戦本部として使われていた女王の城は血で染まった。
指導者と兵力のほとんどを一気に失った国家は瓦解。今ではほかの国に侵略されて属国となっている。
この戦で敗因があったとすれば数が多すぎたことだろう。
1人に対して500万という圧倒的なまでの数の優勢から、楽観視して気を抜く兵が多いことに問題があった。
また、敵が一人なので、同士討ちを恐れて攻撃を一点に密集させることができないという問題もある。
ただ、一番の敗因はトオルに喧嘩を売ったことだろう。
殺した人間や生き物は数知らず、世界最強の魔物である『邪竜種』ですらも単独討伐。国家レベルの軍隊でも通用しない。魔法も剣技も世界トップクラス。
そんな伝説級の暗殺者が亡くなったという知らせは全世界を驚愕させた。
世界中の国家や組合などの表立った組織からカルト組織や暴力団などの裏の世界の組織がこぞって情報を集め、街や都市では市民の話のタネになり、情報屋があることないことごちゃごちゃと入り混じった情報を売りつけている。
そして、様々な推測や憶測が飛び交っていた。
2,3日経った後、トオルが亡くなったことが真実であると確証を得た各国の上層部や首脳部はそのことを秘密にしようとしていた。
しかし、人の口には戸が立てられないというように、どこからか情報は漏れていくもので、そのことが一般市民にも知れ渡っていった。
各国の主要人物がこぞって隠蔽しようとした事が分かり、最初は疑がっていた一部の人々もこれによって真実であると認めざるを得なかった。
その数日後、トオルの死因が、いまだ解明されることのない謎に包まれた不治の病であるということが分かると、さらに人々はヒートアップしていった。
なにせ、世界的に有名で強大な暗殺者が自殺でも他殺でもなく不治の病とはいえ病気で亡くなったのだ。自分たちには到底想像できないような何かがあったり、何かしらの曰くがあったとしても不思議ではない。そう人々はこぞって考えたのだ。
人間とは想像力豊かな生き物だ。自分たちが分からなかったとしても、ああだろう、こうではないか。こうじゃないか。とついつい想像を巡らせ膨らませてしまう。
つまり、人々にとって事件といって差し支えのないこの出来事は、変わり映えのない日常を刺激的に変えるスパイスであり、人々が創造をするための格好の餌の役割を担ってしまったのである。
「今まで『幻影王』が殺してきた人たちや生物が化けて出た………」とか、「『幻影王』に匹敵するだけの力を持っている『呪言王』が強力な死の呪をかけた………」、「『幻影王』が単独討伐した邪竜は実は竜王の息子で、それを殺してしまったことによって竜王の怒りを買った………」などの何の根拠もない無責任なうわさが幾千と流れ始めた。
さらに、その暗殺者が20代前半で、女性受けのしそうな美しい顔をした美青年であったという事実も、人々の想像または妄想に拍車をかけていった。
そして、噂の中に女性関係のいざこざがどうのこうの………というものが増えたのは言うまでもない。
機密情報として扱っている情報が漏れ出ているとようやく気が付いた各国が重い腰を上げたときには、すでに遅くトオルの噂話が広まりすぎていた。
結局、事態の収拾がつかなくなってしまった各国は人々にとても厳重な緘口令を敷かなくてはいけなかった。
しかし、風のうわさも75日という偉大な言葉が存在する。
人とは噂話(何故か、この世界では人の成功話よりも、人の不幸話や滑稽な話が好まれる傾向が強いが好きな性質上、最新の情報に飢え、少し古い情報には飽きっぽい性質を持っているだろう。
この言葉の例外に漏れるはずもなく、実際に大体2か月と15日くらいが過ぎた頃には、トオルの噂話をする人々は)ほとんどいなくなっていた。
トオルが亡くなったことに関するこんな噂話の中にはこんなものがあった。
それは、暗殺者トオル=グリーパーが唯一友達と認めた人物。トオルと同世代くらいの青年で、今世紀最高とまで言われる稀代の若き天才医師。
巷では『医療王』と呼ばれている彼がトオルの最期を看取り、そのことを世界中に知らせた。
という内容の噂話だ。
だが、本当にそんなことができるのだろうか?
いや、それは無理だろう。たとえどんな手段をとっても不可能に違いない。
そもそも、『幻影王』に友と呼べる存在はいたのだろうか?いや、いなかったに違いない。
トオルの『幻影王』としての一匹狼というイメージの強い人々はそろってそう考えた。
火のない所に煙は立たぬという言葉があるが、実際には真実ではない噂話など数多存在している。
だからか、人々はこの噂話をだれも信じようとはしなかった。
そして、1週間もすればこの噂話は人々の記憶の隙間から抜け落ちて忘れ去られた。
この噂話が真実であると知っているのは、噂を流した張本人と世界でも数名の有力者や『真理の二つ名』持ちの人間、そして、一部の魔物だけだった。
何か誤字脱字、文法的な間違いがありましたらお知らせください。