1話 三歳で「前世」を思い出す
「……お嬢様! イザベルお嬢様! しっかりしてくださいませ!」
誰かの叫び声で、意識が浮上した。
頭がガンガンする。……あれ、私、何をしていたんだっけ?
そうだ。三歳の私は、追いかけてくる侍女から逃げようと廊下を猛ダッシュしていた。
角を曲がった瞬間、ワゴンを押していた別の侍女に激突。
跳ね返った拍子に装飾用の甲冑にぶつかり、その甲冑が持っていた盾が外れて落下。
盾の上に尻もちをついたまま廊下を滑走し、最後は大きな花瓶の台座に頭をぶつけて…。
(何よ、この不運なピタゴラスイッチ!あー痛い!)
……痛すぎて、全部思い出した…。
脳内に流れ込んできたのは、三歳児の記憶ではない。
都内の会社勤務だった私。
終わらない仕事を自宅に持ち帰り、深夜二時にキーボードを叩いていた三十歳、事務職の記憶だ。
液晶の光でチカチカする目。冷めきったコンビニのパスタ。
遠のく意識の中で最後に思ったのは、「あー、私の人生こんなもんかぁ」という妙に冷めた諦めだった。 大切なものも特になかったし、家族も私がいなくても元気でやってるだろう。
……そんな、あっけない最期。
目を開けると、そこには豪華な天蓋付きのベッドと、泣きべそをかいている侍女の顔。
起き上がって、目の前にあった化粧台の鏡を覗き込めば、そこにはツルツルツヤツヤの肌に、勝ち気そうなツリ目を持つ、私からしてみたら可愛い幼女。
(これが最近流行りの異世界転生?なにかのゲームか、小説か、アニメか…なんにせよ第2の人生で記憶ある状態からスタートって、それだけで結構気持ち昂る!)
「…ベルお嬢様、…イザベルお嬢様!」
侍女が呼ぶ声がする。
(あ、イザベル、私の名前か。)
同時に、三歳までの記憶も思い出してきた。
「お嬢様、お怪我は!? お夕食の時間ですが、今日は休まれますか?」
「……ううん。いく。おなか、しゅいた」
舌が回らない。でも、腹は減る。
私はよちよち歩きで、公爵家の食堂へと向かった。
そこには、私の「新しい家族」が揃っていた。
「……遅いぞ、イザベル。頭を打ったそうだが、問題はないか?」
低音ボイスで私を見るのは、父、ベルドレッド公爵。
顔がめちゃくちゃ怖い。前世の鬼部長より、圧倒的に「殺る側」の顔をしている。
その隣には、気品溢れる母。
さらに、跡取りプレッシャーで顔が強張っている兄ヴィンセントと、完璧な美少女の姉エルザ。
(……五人家族、か。全員美形だけど、漂う『エリートの重圧』がすごいのね)
「はい、だいじょぶでしゅ。」
たどたどしく答え、私は大人しく席についた。
中身が三十歳なので、嫌いな野菜を放り投げることもないし、スープをこぼして泣き喚くこともない。
淡々と、マナー通りにスプーンを動かす。
それだけで周囲の侍女たちが「なんてお利口な……」と感心しているのがわかる。
(……前世の私なら、この威圧感だけで胃に穴が空いてたわ)
そんなことを思いながら、運ばれてきたスープを一口食べる。
(あ、意外と美味しい。……ちゃんと、手間暇かかった味がする)
自宅のデスクで啜っていた、お湯を入れるだけのインスタントとは大違いだ。
(決めた。私のセカンドライフの目標は、穏やかに暮らすこと。目立たず、適当に過ごして、最後は領地でもどこでもいいから、穏やかに猫と暮らすのよ)
私は、自分の「セカンドライフ」だけを信じて生きる。
(大丈夫。私はただの、扱いやすい三歳児。……のはず。)
だが、この時の私は知らなかった。
この平和な食卓が、いずれ「美しい理想」を吐く偽善者たちにぶち壊されることを。




