15 魔導災害2
扉の向こうで足音が増えた。
工具箱が床に置かれる鈍い音。
金属の留め具が外れる乾いた音。
誰かが配線を追って指先を走らせる、布越しの擦れ。
防毒マスクは限界を迎えつつあった。
除去しきれないガスが少しずつ混じり、肺の奥がひりつく。
息は浅くなり、吸ったはずの空気が身体に入ってこない。
扉の外でオリヴァーの声が低く響いた。
「……配電盤、ありました」
その次の沈黙が異様だった。
言葉が途切れたのではない。
全員が同じものを見て固まった気配が、扉越しでも分かる。
レオンの声が掠れた。
「コアが」
「暴走してる。臨界点だ」
ユリウスの声がそれを引き取った。
落ち着いているというより、決断だけが硬い音をしている。
続けて、ロイが噛み殺すように言った。
「安全装置が効かないってことか」
「効かない」
短い断言だった。
アストリッドは扉横の壁にもたれたまま、崩れないように肩へ力を入れる。
胸の奥が苦く重い。
深く息をしようとしても、吸い上げる途中で引っかかる。
限界が近かった。
金属が擦れる音がした。
工具箱の留め具が外れ、何かが取り出される。
続いて、分厚い手袋が布を引くような音を立てた。
ユリウスが絶縁手袋を嵌めたのだと分かる。
硬質な柄が掌に収まる気配もした。
絶縁ドライバー。
扉越しでも、その準備の静けさが伝わってくる。
「ユリウスさん、まさか」
オリヴァーの声がわずかに揺れた。
ユリウスは答えを変えない。
「コアを落とす」
無茶だ、と頭のどこかで理解する。
工学課の二人が息を呑む気配がした。
アストリッドにも分かる。
そんなことをすれば、ユリウスだって無事ではいられない。
「手動に切り替わったら君たちは扉を横にずらして押し開けろ」
「ユリウスさん!そんな……」
「早く行け。アストリッドが中にいる」
その一言で、外の空気が変わった。
足音が扉の正面へ移動する。
金属に手を添える位置を確かめる、短いやりとりが続く。
ロイが扉越しに声を張る。
「アストリッド!聞こえるか!ゆっくり息をしろ!」
返事をしようとして喉が鳴った。
胸の奥に鋭い痛みが走る。
マスクの中が熱い。
視界の端が薄く滲み、輪郭がほどけていく。
今は、立っているだけで精一杯だった。
「行くぞ」
鈍い衝撃音が響いた。
金属が何かに突き立てられる硬い音が続く。
続いて、空気が裂けるような白い破裂音。
バチン。
一度ではない。
連続する。
火花が散る音が、壁越しでも分かるほど大きい。
金属の焦げる匂いが扉の縁から流れ込み、喉が焼けるように痛んだ。
肩が反射で竦む。
呼吸が速くなりかけて、抑えようとする。
抑えた途端、息が引っかかり、胸がさらに苦しくなる。
「今だ!開けろ!」
駆動音が変わった。
今まで完全に固定されていた扉が、わずかに遊びを持つ音に変わる。
ゴン、と外から押される。
金属が軋んで横にずれ、細い隙間が生まれた。
そこから外の空気が一本の線になって入り込み、肺の奥へ冷たく刺さった。
膝の力が抜けた。
壁にもたれたまましゃがみ込み、そのまま横へ崩れる。
「……っ」
声にならない息が漏れる。
外側で、扉がさらに押し広げられた。
ギ、と重い音。
最後は力任せに押し開けられる。
「先輩!」
「アストリッド!おい、返事をしろ!」
返事をする代わりに、指先をわずかに動かした。
それが精一杯だった。
扉がさらに開き、人ひとり通れる隙間ができる。
誰かが中へ滑り込んだ。
躊躇いのない一直線の踏み込み。
ユリウスだった。
「……アストリッド」
名前を呼ぶ声が、少しだけ掠れている。
目を開けようとした。
けれど瞼が重く、視界がうまく結べない。
ユリウスが屈み、肩と背を支えて起こしてくる。
手つきがどこかぎこちない。
当たり前だ。
さっき、両腕を感電させた。
袖口の先で、絶縁手袋の残骸が焦げて縮んでいるのが見えた。
前腕に走る痙攣の名残。
指先が思うように動いていないのが、動きで分かる。
それでも、支える力は手放さない。
「外気に触れさせろ!外へ!」
ユリウスは歯を食いしばった顔でアストリッドを担ぎ上げた。
抱き上げた腕が小さく震える。
痛みと痺れが、今になって追いついてきたのだろう。
オリヴァーとレオンが扉の外側で道を作る。
「ユリウスさん、代わります!」
「……まだ持てる」
担がれたまま運ばれ、視界が白く滲んだ。
外気は冷たく、肺の奥を刺すのに、息は浅いまま整わない。
誰かの声が交差して、意味だけが遅れて届く。
ユリウスが足を止める気配がした。
身体がゆっくり下ろされる。
床の固さが背中に伝わったあと、両腕が差し入れられて、今度は横抱きにされる。
揺れ方が変わり、胸の前で支えられている感覚だけが残った。
「アッシュ、外せ!」
「はい!」
顎の下に指がかかり、防毒マスクの留め具が外れる音がした。
アッシュの手が慣れた動きで、ぐったりしたアストリッドのマスクを外す。
空気が直接喉へ流れ込み、咳が出そうになって出ない。
その代わりに、涙だけが勝手に滲んだ。
「レオン、僕のもだ」
「了解!」
少し離れたところで、別の留め具が外れる乾いた音がした。
レオンが、両腕を負傷したユリウスのマスクを外しているのだと分かる。
人の気配が増えていく。
足音が集まり、誰かが指示を飛ばし、誰かが救護を呼んでいる。
けれどユリウスの意識は、アストリッドにだけ向いていた。
抱えられる腕の震えが止まらないのに、離す気配がない。
すぐ近くで掠れた呼吸が聞こえる。
ユリウスはアストリッドの顔を覗き込もうとして、力の入らない左腕をなんとか持ち上げた。
だが横抱きの両腕は塞がっていて、涙を拭うこともできない。
視線だけがアストリッドの頬を追い、滲む涙に苛立つような息が混じった。
ふいに、ユリウスはアストリッドの唇が目についた。
浅く息をする、かすかに開いた唇。
ユリウスの顔が寄ってきて、柔らかい熱が触れる。
キスだった。
周囲の気配が一斉に止まる。
誰かが息を飲む音だけが聞こえた。
それでもユリウスは周りを見ていない。
世界にいるのは、抱えているアストリッドだけだ。
「僕の想う相手は、アストリッドだよ」
低い声が耳に落ちた。
言葉の意味が遅れて胸に刺さる。
朦朧とする意識の中で、視界がユリウスでいっぱいだった。
キスをされて、想う相手が自分だと言われて、何をどう受け取ればいいのか分からない。
困惑だけが浮かび、喉が乾いて、声が出ない。
人がさらに集まってきた。
誰かが走り、誰かが道を作り、担架が運ばれてくる音が近づく。
「担架、こっちだ!」
ユリウスが担架にアストリッドを下ろした。
視界が天井へ向き、光が滲んで流れた。
ユリウスの足元が崩れる気配がした。
支えようとしても支えきれないほど、彼の身体が限界を迎えているのが分かる。
「ユリウス!」
ロイの声が鋭く響いた。
ロイが身体を支え、倒れ込むのを止める。
「担架!」
誰かの指示が飛ぶ。
ユリウスも担架へ乗せられる。
ロイが付き添う形で位置を整え、救護班が手早く処置を始める。
サイレンが遠くで立ち上がった。
すぐ近くで救急車の扉が開く音がする。
担架が持ち上げられ、振動が伝わり、身体が揺れる。
救急車が走り出した。
その揺れの中でアストリッドの意識は薄く沈みながらも、さっきの言葉だけが繰り返し残っていた。




