3-05【真実】―シャルロットSIDE―
神代の物語は月ノ章3-05【語部】で語られています。
「(神々の集いし大地―――天の島タルタロス……小さい頃、絵本で見た世界……)」
シャルロットが幼き日の感慨に浸る。
海面にそびえ立つ巨大な断崖の中腹から表出した伏流水が、海岸瀑となって簾状に流れ落ちる様は、超自然の驚異と称して差し障りのないものだった。
「こいつは近づくことも容易ではなさそうだな」
エドゥアルトの言葉通り、目に見えて船足が衰えている。
海面直下した水流が白波を引き起こし、船の接近を阻害しているようだ。
「どうするね?」
一同の背後から船長であるエルグの声が響く。 自他認める物臭者な彼が態々甲板まで出向く辺り、事態は急を要しているのであろう。
「構わぬ。 このまま突っ込むのじゃ」
首人の指示にエルグが頷くと、周辺の水夫たちが一斉に動き出す。
瞬く間に帆船は縦帆を展開して、前方から吹き付ける滝風を間切って突き進んでいく。
「おいおい、本気か」
瀑布の水飛沫が降り注ぐなか、エドゥアルトが天を仰いで首を振った。
次第に船の揺れが激しくなり、
「シャルロットさま、掴まってください」
ミルフィーナはシャルロットを抱き寄せると、帆柱の先端の滑車から垂れる荒縄を手繰り寄せて身体を固定する。 他の者も同様に船縁や船楼の外壁に手を掛けて、落下する水流から身を守る態勢になった。
「きゃあ……」
シャルロットの悲鳴とほぼ同時に、凄まじい水量がノーディン号を襲い、押し潰された帆柱が地響きのような音を立てて捩じ折れる。
少女の視界が黒く塗りつぶされ―――次の瞬間、周囲はおぼろげな幽光に包まれていた。
「ここは……」
シャルロットは小さく身震いすると、不安そうに視線を巡らす 。 海岸瀑を抜けた先は、広大な洞穴となっていた。
「どうやら海光苔が群生しているようだな」
エドゥアルトの言葉通り、岸壁一面が小型のコケ植物で覆われていた。 海光苔は天上から降り注ぐ僅かな陽光を利用して、金緑色の反射光を生み出しているようだ。
「あれは!?」
水路を進む内、最初にそれに気づいたのはミルフィーナだった。
暗がりの正面に、白亜の神殿が浮かび上がっていた。 引き寄せられるようにノーディン号は神殿の鎮座する孤島の桟橋に接舷する。
「必要ないだろうが、武運を祈っておこう」
エルグが首人に声を掛ける。
「うむ、そうありたいものじゃな。 それと、船の修繕にはあのデカブツを叩き起こして扱使ってくれて結構じゃ」
意味深に言い残すと、首人はノーラを急き立てて、陸の人となる。 後を追うように、ミルフィーナがシャルロットの手を取って桟橋を渡り、シーラとエドゥアルトがそれに続いた。
・
・
・
一同が古き殿堂に足を踏み入れると、そこは高い吹き抜けの円天井の広間になっていた。
「こいつはスゴイな……」
エドゥアルトが感嘆の息を洩らす。
高みに配置されたステンドグラスから差し込む金緑光が、薄暗い神殿内を霊妙に浮かび上がらせていた。 古代神アアル=セナートルは勿論のこと、【法】や【混沌】の末神に到るまで様々な神像が立ち並び、数多の礼拝堂や祭壇が、絢爛豪華な装飾によって覆いつくされている。 それは宗教施設というよりも宗教芸術と称した方が的確な表現かもしれない。
「これは女神メナディエル。 でも他の三つは……」
シャルロットの視線が前方に並べ置かれた四体の神像に留まる。
内ふたつは無残に崩れ去り判別はできない。 残った二像のひとつはベルムーテスでは最もよく知られる女神メナディエル。 神剣アンネ・シュティフを携え、壮麗な全身鎧に身を包んだ乙女の像。 そして、その隣には、四本の腕を上下左右に振り広げ、三匹の大蛇を胴体に巻きつけた多臂神像があった。 呑み込まれるような圧迫感に鼓動が早まる。
「それはグラトリエル。 冥府の支配者たる“死せざる王だよ、人族の娘」
鋭く、それでいて透き通るような声音がシャルロットを打つ。
いつからそこに居たのか、主祭壇の前に初老の男が佇んでいた。 白髪紅眼、黒光りする円筒形の帽子に同色の燕尾服、片手で蝙蝠傘をついた場違いな出で立ちである。
「シャルロットさま、お下がりください」
ミルフィーナがシャルロットを庇うように背後に下がらせる。 男から只ならぬ気配を感じ取ったようだ。
「珍しく客人が訪れたかと思えば、とんだ厄介者が混じっているようだな」
一同を見回した燕尾服の男の表情が、ノーラの腕のなかの首座に気づいて、不機嫌そうに歪む。
「ふん、こんな偏狭で隠居暮らしを続けてきた瘋癲屍族には云われたくないわ」
対する首人の方も、負けず劣らず不満げに返した。
「やはり屍族なのか!? だが、なぜ教会の聖地に屍族が紛れ込んでいる?」
ミルフィーナが腰元の長剣の柄に手を添えて問い質す。 どうにか抜刀を堪えたのは、先のやり取りから首人と面識があると察したからであろう。
「心配は要らぬ。 こ奴、身形は一見風変わりじゃが、中身は至って常識人じゃ。 実害がない点だけは保証しよう」
首人が微妙な言い回しで殺気立つミルフィーナに自制を促す。 加えて、目の前の屍族が聖剣戦争以前から、この天の島で墓守を担っていることを告げた。
「久しいなアルフォンヌよ。 それに暫く見ない内に随分と珍妙な姿になったものだな」
「余計なお世話じゃ」
名も無き屍族の皮肉に、首人が眉根を逆立てる。
「ふむ、やはり首人殿はウィズイッドの大屍族さまであったか」
と、会話に割り込んだエドゥアルトが笑顔で首座の正面に回り込む。
首人自身がシャルロットに明かした過去から、一同も薄々とその素性を察してはいた。 更に当該の人物名と合致したことで、確証を得たようである。
「表立っては名を明かせぬ理由があったからの」
首人は居心地が悪そうにエドゥアルトから視線を逸らす。
ヤガ=カルプフェルト王国に於いて、大屍族アルフォンヌ・ウィズイッドは、反逆罪で処刑されたと公布されている。 その件となんらかの関係があるのだろう。
「それでこのような場所に何用かね?」
名も無き屍族の言葉が一同を現実に引き戻す。
「なに、大した用件ではない。 この地に眠る神剣アンネシュティフを頂戴しに参った」
首人アルフォンヌが平然と言い放つと、名も無き屍族の紅眼が如実に見開かれた。
「それが何を意味するか、理解できぬわけではあるまい」
「無論じゃ。 そこの娘はアルジャベータの血脈に連なりし者じゃ。 彼女に逢う資格としては十分であろうよ」
首人アルフォンヌの意味深な視線が傍らのシャルロットに向かう。
「……神殺しの血統の片割れか。 ……そうか、ならば我に止めることはできぬな」
名も無き屍族は重たい息を吐いて、シャルロットを見やる。
「神殺し? それはどういう意味ですか!?」
成り行きを見守っていたシャルロットが口を開く。 到底無視できぬ発言があったのだから当然だ。
「この地には緑眼の聖母の魂が封印されている」
「緑眼の聖母?」
聞きなれぬ単語にシャルロットが訊ね返す。
「リュズレイ家の祖先、聖女アルジャベータがその身に宿した威霊―――其方たち人族には女神メナディエルといった方が分かりやすいかな?」
「女神メナディルが……ここに……」
シャルロットの顔に当惑の色が滲み出る。
途方もない展望を見せる会話の行方に、ふたりの屍族を除く全員が息を呑んでいた。
「もっとも、封印されているのはメナディエルの霊体のみで、肉体の方は遥か以前に滅んでいる」
「それが事実だとして、なぜリュズレイの血脈が“神殺し”と徒名されるのですか?」
シャルロットは内心の動揺を抑えて言葉を選ぶ。 相手の婉曲な言い回しに、苛立ちよりも不安を掻き立てられているようだった。
「よかろう、其方には全てを知る権利がある」
名も無き屍族は燕尾服の襟元を両手で正すと続けて口を開いた。
「其方たち人族も知っての通り、聖女アルジャベータは女神をその身に降臨させて、永きに亘る屍族との抗争に終止符を打った」
「聖剣戦争ですね」
シャルロットの言葉に、名も無き屍族が肯首する。
アルジャベータの存在なくして、人族の勝利はあり得なかっただろう。 それほどまでに屍族と人族の個体能力には歴然たる隔たりがあった。
「だが、アルジャベータにとって本当の戦いは戦役後に訪れたといっても過言ではない」
「それはどのような意味で仰られるのですか?」
シャルロットは暗澹たる思いに囚われていた。
多大なる犠牲を払った戦後の復興と考えれば理屈は通るが、名も無き屍族の口振りから、そうでないことは明白だった。
「その身に宿した女神の魂との戦いだよ。 メナディエルは必ずしも善なるものではなかったのだ。 いや、その真逆―――女神は人族を疎み憎悪していたといった方が正確かもしれない」
「そんな……」
シャルロットが絶句する。 思うように言葉が続かなかった。
「精神を蝕む孤独な戦いに、アルジャベータの心身は日に日に衰弱していった。 もし、女神の不滅の魂を封じ込めていた器が崩壊すれば、彼の邪悪なる意思が、この世界に解き放たれることになる。 そうなれば、人族の死滅は時間の問題となっていただろう」
「聖女一人に咎を背負わせて、恩恵を被った他の人族共は何もしなかったのかい?」
エドゥアルトが口を挟む。 それはこの場に集う人族全ての疑問を代弁したものだった。
「無論、当時扱える魔法薬や錬金術から屍霊術に至るまで、様々な方法が試された」
「なるほど、やる気はあったが役立たずだっただけか」
エドゥアルトの身も蓋もない物言いに、首人アルフォンヌが自嘲的な笑みを浮かべる。
戦後間も無く、乱れた人心を治める為には女神の名を貶めるわけにはいかなかったのだろう。 計画の全てが、教会がひた隠しにする真実の一部として、秘密裏に処理された。
「そして、聖女アルジャベータは死の淵で最後の手段を講じることになる」
名も無き屍族が言葉を切ると、水を打ったような沈黙がその場を支配した。
暫しの静寂が続き―――
「最後の……手段ですか?」
耐え切れなくなったシャルロットが擦れた声で尋ね返す。
「もっとも近しい存在に命じて、己の肉体共々、女神を封印したのだよ。 その役割を担ったのが初代教皇アグリウスタ。 アルジャベータをもっともよく理解し、互いに想い合っていた男だ」
「っ………」
「そんなことが可能なのですか?」
言葉を失ったシャルロットに代わりミルフィーナが疑問を口にする。 人の手で神を封印するなど、到底信じられる話ではなかったのだろう。
「神剣アンネシュティフを用いれば可能だよ。 彼の剣は別名“生命の剣”と謂われる業物で、斬りつけた相手を殺傷するのではなく、再生する能力を秘めている。 アルジャベータは己の心臓に神剣を打ち込み、半永久的な神の器となったのだ」
「待ってください。 それではアルジャベータは……」
シャルロットが狼狽の気配を漂わせる。 どうやら、ひとつの結論に思い至ってしまったようだ。
「生きておるよ。 この大神殿の冷たい地の底で、愛するアグリウスタの亡骸と共にな」
名も無き屍族の言葉は、長い余韻を残して静謐な空気に溶けて消えた。