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5話・音除

「退避してください、少佐!」


 爆音の残響が、地下施設の壁を震わせる。

 非常灯だけが赤く明滅している。

 崩落した天井から落ちた配管が火花を散らし、床には割れた計器と、砕けたガラス片が散乱していた。

 少佐と呼ばれた神祝は返事をしなかった。

 軍服は裂け、左肩から先は血に濡れている。

 それでも彼は、床に倒れている少女のそばから離れようとしなかった。

 そんな彼に、部下の兵達が怒鳴る。

 遠くからの轟音と爆音に声がかき消されないように。


「少佐! これ以上は持ちません! 次の爆発で区画ごと落ちます!」


 敵軍の攻撃は、既に地上施設だけに留まっていなかった。

 地中貫通弾による爆撃と、自律兵器群による侵入攻撃。地下深くに隠されていたはずのこの研究区画も、今や戦場の一部に変わっている。

 防衛線は破られ、隔壁の向こうでは味方の怒号と銃声が断続的に響いている。

 その緊急事態においても神祝は退避の素振りさえ見せず。


「まだだ」


 神祝は、かすれた声で言った。

 彼の腕の中には、幼い少女が抱かれていた。

 野乃。

 彼の幼い娘、絵馬の親友であった。

 野乃の小さな身体は血にまみれている。

 轟音の中では聞き逃してしまいそうなくらい、呼吸はほとんどなかった。


「もう無理です! その子は」


 部下のその言葉は、神祝の優しさを慮ったものであった。

 幼い少女が死に瀕している。

 そのことに心を痛めているのだろうと。

 この非常事態であっても、死に往く命に動揺を隠せないのだろうと。


「まだだ。この子の魂は死んでいない」


 だが、神祝の言葉を聞いて、周囲にいた兵たちが息を呑む。

 彼らは何れも技術兵であった、故に知っていた。

 神祝が何を言っているのか。

 そして、それがどれほど危険な言葉なのかも。


「娘さんの方を優先すべきです、早く医療機関へ!」


 技術兵の一人が叫んだ。

 少し離れた床に、神祝の娘である絵馬が倒れていた。

 額から血を流しているが、胸は小さく上下している。


「絵馬の命に問題はない。気絶しているだけだ」


 愛娘に対してあまりにも冷静な分析。

 その冷静さに、部下達は恐怖すら抱いた。

 神祝は野乃を抱えたまま、奥の格納台へ向かった。

 そこには、起動試験を終えたばかりの軍用アンドロイドが横たわっていた。

 試作機。

 まだ名前もない。

 まだ記録上は、兵器ですらない。

 軍用機でありながら女性の形をしている。

 人間そっくりの顔。

 柔らかな髪。

 細い腕。

 戦略的優位性だけを考えれば、無駄の多い造形だった。

 だが、それは最初から兵器として作られたものではなかった。

 魂の境界に手を伸ばした研究によって生み出された機体であり、既に凍結されたはずの計画だった。


「例の技術を試す」


 その言葉に、場の空気が凍った。


「許可が下りていません! あれは凍結された計画です!」

「許可を待っていたら、魂は死ぬ」

「魂なんてものが、本当に」


 神祝は振り返らなかった。


「ある」


 短く、断言した。

 再び爆発が起きた。

 壁が裂け、照明が落ちた。

 衝撃で技術兵たちが床に叩きつけられる。

 神祝も倒れた。

 それでも彼は、野乃の身体を離さなかった。


「我々は辿り着いた筈だ、魂の場所に。そしてそれを移す方法も手に入れた筈だ。ただ、試すことが出来なかっただけだ」


 警報が鳴っている。

 退避命令が繰り返されている。

 施設の自動音声が、無感情に死の運命を予言している。

 神祝は震える手で、アンドロイドと接続されている機器のコンソールを操作する。

 そして傍らの箱。

 金属製で人が一人入るほどの大きさのそれに、死にかけの少女の体を置いた。

 彼は血に濡れた指で、実行キーを押した。

 手術用の刃を持つ機械のアームが少女の身体に狙いを付けた。

 それは禁忌の術であった。

 動作完了を待つ間に神祝は娘を抱え上げる。

 再びの爆発。

 炎が広がり施設は崩壊を迎えていた。

 娘を抱えての脱出は難しいだろう。

 人間ならば。


 神祝にとって永遠のような時間だった。

 「転送」プログラムが走り処理が完了するまでの間。

 遠くから轟音と有機物が燃える臭いがした。

 アンドロイドの閉じていた瞼が、わずかに震えた。

 神祝は息を呑む。


「……聞こえるか」


 返事はなかった。

 ただ、女性型アンドロイドの指が、小さく動いた。

 まだ焦点の合わない瞳は何も知らず理解している筈がない。

 正確ではないが夢見心地であるのだろう。


「言葉が通じるか」


 神祝は、血に濡れた手でアンドロイドの頬に触れた。


「今すぐ絵馬を連れて脱出しろ。絵馬を守れ」


 アンドロイドはゆっくりと上半身を起こした。

 動作はぎこちない。

 神祝の抱えた少女の姿を見てアンドロイドは、絞り出すような声を出す。


「……え、ま」

「そうだ。絵馬だ。守れ」


 神祝には確信があった。

 そのアンドロイドの反応に成功を確信していた。

 アンドロイドは絵馬を抱き上げた。

 その腕つきは危うく、ぎこちなかった。

 けれど、壊れ物を抱くように慎重だった。

 何も状況を理解できてはいないだろうが、少なくとも絵馬を抱えて走らねばならないことは分かっている様子だった。

 神祝は一度だけ、先ほど野乃の身体を入れた箱の方を見た。


「すまない」


 炎が天井を舐める。

 区画の崩落が始まる。

 アンドロイドは絵馬を抱え、後ろを振り返ることなく走り出した。



◇◇



 ThisManから送られてきた言葉は、数日経っても絵馬の中から消えなかった。

 アンドロイド達がロアを語ることで、ハルシネーションの先に体系化された物語を手に入れる。

 それは、アンドロイド達によって生み出される独自の文化となる。

 もはや、それは人間と変わらないのではないか。

 ふとした瞬間に、その言葉が脳裏をよぎり、絵馬の手が止まる。

 今、自分が手を加えている物は何であるのかと疑問を抱いてしまう。

 人の形をしていて、限りなく人に近くて、それでも人ではないもの。


 絵馬の自宅の一部は、簡易的なメンテナンスルームに改造されている。

 白い壁。

 防塵処理された床。

 天井から吊られた検査用アーム。

 壁際に並べられた工具と、一般家庭には似合わない軍用規格の診断端末。

 部屋の中央には、マノノの身体が横たわっていた。

 彼女は今。低負荷待機状態にある。

 主機能を落とし、内部ログを整理し、外部診断を受け入れるための無防備な状態。

 アンドロイドにとって、睡眠に最も近い時間だ。

 穏やかな寝顔と共に、ボディは露出した内部構造とケーブルが覗く。

 マノノの首元にある接続端子から情報を取得する。

 駆動系の摩耗や疑似感情回路の負荷。

 記憶領域の断片化やログの取得。


 民間機のアンドロイドであっても、所有者が自分でメンテナンスを行うことはまずない。

 高価な設備が必要になるし、専門知識も要る。

 正規の民間業者も、行政の保守サービスも存在する。

 むしろ、そちらを利用しない方が不自然だった。

 それでも、絵馬はマノノを外へ任せられなかった。

 マノノは特殊だ。

 そして、その特殊さを誰かに知られてはならない。


 眠っているマノノの顔は、人間のそれと変わらない。

 薄く閉じられた瞼。

 整った呼吸に似せた排熱制御に連動して胸はわずかに上下する。

 ナノマテリアルでリアルに再現された透き通った肌は触れることをためらわせる。

 頬に触れてみれば、体温と誤認する。

 あまりにも人間に近い。

 だからこそ、絵馬は時々怖くなる。

 マノノを見ているのか。

 それとも、「野乃」の影を見ているのか。

 絵馬は小さく息を吐いた。

 メンテナンスログの端に、古いデータが残っている。


 初期起動時の音声ログ。

 破損が激しく、再生すれば雑音ばかりの中に、絵馬が何度も聞いた音がある。

 ――え、ま。

 幼い声に思える。

 アンドロイドの持つ機械の喉を通った声、マノノの筈のその声は、幼い音声に聞こえる。

 絵馬はケーブルを抜いて、マノノの首元の端子カバーを閉じた。

 メンテナンス用に開いた身体の部位を閉じていく。

 疑似筋肉に蓋をして機械の痕跡を隠していく。

 マノノの瞼がゆっくりと開く。

 マノノが絵馬の顔をまじまじと見て口を開く。

「絵馬、何かありましたか?」

「別に。異常はないよ」

「絵馬は……」

「何?」

 マノノの次の言葉には、少し迷いがあった。


「メンテナンスの後は、いつも苦し気な顔をしているので」

「人の顔を診断しないで」

「診断ではありません。観察です」

「同じようなものだよ」

「それでも、何か隠しているのなら言ってください。私の身体ですから」

 その言葉に、絵馬は手を止めた。

 私の身体。

 マノノは当然のようにそう言った。

 だが、絵馬にはその言葉が少しだけ重かった。

 マノノの身体は、もともとマノノのものではなかった。

 父が造った。

 軍の記録から抹消された、特別な機体。

 軍用機でありながら人間の姿に似せられた、魂を移すための箱。

 そして、その中に野乃の魂を移せると、父は信じていた。

 その真偽を、絵馬は知らない。

 確かめる術もない。

 たとえ術があったとしても、確かめたいのかどうかすら分からない。

 マノノは上半身を起こし、少しだけ首を傾げた。

 その仕草に、ふと、かつての野乃の姿が重なった。

 幼い頃、分からないことがあると、野乃はよく同じように首を傾げた。

 ほんの少しだけ眉を寄せて、絵馬の答えを待った。

 その記憶が、今も絵馬の中には残っている。

 けれど、目の前にいるのは野乃ではない。

 少なくとも、そう簡単に野乃だと呼べる存在ではない。

 幼い少女だった野乃と、今ここにいるマノノの間に、本当に連続性があるのか。

 魂と呼べる何かが、あの日、あの身体からこの身体へ移ったのか。

 それとも、死に際の少女の記録や反応を、機械がそれらしく再現しているだけなのか。

 答えはない。

 きっと、これからもない。

 絵馬は目線を逸らした。

 そんな少女は、もう存在しない。

 そう思わなければいけない時期があった。

 そう思わなければ、マノノを見ることができなかった。


「……私達が今巻き込まれつつある状況は、ThisManがマノノに興味を持っているせいだから」



 絵馬は言った。


「変なことにマノノを巻き込んでしまった。そんな罪悪感みたいなものがある」

「私が絵馬を巻き込んでしまった、の間違いだと思いますが」

「元を辿れば、お父さんがマノノを作ったことが始まりだから」



 父は死んだ。

 幼い娘をアンドロイドに預け、炎の中に消えた。

 絵馬は、その瞬間を正確には覚えていない。

 けれど、父が何をしたのかは知っている。

 知ってしまった。

 父は、野乃を救おうとした。

 死にかけていた幼い少女を、アンドロイドの身体へ移そうとした。

 それを奇跡と呼ぶ者もいるだろう。

 魂の移管と呼ぶ者もいるだろう。

 あるいは、死者の情報を機械に焼き付けただけの、倫理に反した実験と呼ぶ者もいるかもしれない。

 絵馬には分からない。

 ただ一つ分かるのは、その結果としてマノノが絵馬のそばにいるということだけだった。

 マノノは絵馬を守る。

 いつも、当然のように。

 それは神祝少佐の命令だからなのかもしれない。

 野乃だったものが、絵馬を守りたいと願っているからなのかもしれない。

 マノノ自身が、そう選んだからなのかもしれない。

 どれも否定できない。

 だからこそ、絵馬は苦しい。


「私は」


 絵馬は言葉を探した。


「マノノの中に、本当に野乃の魂があるのなら、それはそれで怖いんだと思う」

「怖い、ですか」

「うん」


 絵馬は頷いた。


「野乃は、子供だった。私と同じ、ただの子供だった。なのに、マノノは最初からこの身体だった」



 絵馬は、マノノの手を見る。

 細く、白く、美しい手。

 幼い少女のものではない。

 成長した女性の形をした、完成された機体の手。


「もし野乃が本当にそこにいるのなら、私はあの子に、望んでもいない成長を押し付けたことになる」

「絵馬が押し付けたわけではありません」

「でも、私は生きている。マノノに守られて、ここまで生きてきた」


 絵馬は笑おうとして、上手く笑えなかった。


「野乃は、私と一緒に大きくなるはずだった。くだらないことで喧嘩して、仲直りして、たぶん別々のものを好きになって、別々の道を選んで。それが普通だったはずなのに」


 そこまで言って、絵馬は唇を噛んだ。


「もしマノノが野乃なら、その普通を奪ったのは私達だ」

「私達、とは」

「お父さんと、私」

「絵馬は何もしていません」

「何もしなかったからだよ」



 マノノは黙った。

 絵馬の声は小さかった。


「子供の頃は、マノノを野乃として見ていた気がする。だって、そう思いたかったから。野乃が死んでいないなら、その方が救われるから」



 幼い絵馬は、マノノに野乃の面影を探した。

 言葉の癖。

 首の傾げ方。

 手を繋ぐ時の力の入れ方。

 絵馬の名前を呼ぶ声。

 似ているものを見つけるたび、嬉しかった。

 似ていないものを見つけるたび、怖かった。

 やがて、そのどちらにも耐えられなくなった。



「でも、ある時からやめた」

「覚えています」



 マノノが言った。

 絵馬は顔を上げる。



「絵馬は、私に野乃のことを聞かなくなりました」

「……うん。確かめ続けたら、たぶん私達はどこかで壊れてた」


 マノノが野乃である証拠を探す。

 マノノが野乃ではない証拠を探す。

 どちらを見つけても、きっと傷つく。

 野乃だったなら、絵馬はマノノを野乃の代わりにしてしまう。

 野乃でなかったなら、絵馬は野乃を二度失うことになる。

 だから絵馬は、いつからか、その問いを避けるようになった。

 マノノが何者なのか。

 野乃なのか。

 機械なのか。

 魂なのか。

 記録なのか。

 それを口にしないまま、二人は今日まで来た。



「だから、私はマノノをマノノとして扱うことにした」



 絵馬は言った。



「野乃じゃないからじゃない。野乃かもしれないからでもない。マノノがマノノとして私のそばにいてくれることが嬉しいんだって私は気が付く必要があったから」

 マノノは絵馬を見ていた。

 その表情は、いつも通り静かだった。

 それがあまりにも人の姿に近いから、ThisManの言葉が現実味を帯びてしまう。

「アンドロイドがロアを持つこと」

 絵馬は言った。


「それ自体は、私も興味がある。追いかけていたロアという物が、旧時代の遺産が、今形を変えて新しく生まれようとしている。新しい伝説の始まりに立ち会えるかもしれない」

「不確定な情報を共有することがそれほどに意味を持ちますか?」

「人間だってそうしてきた。神話も、怪談も、噂話も、誰かが言い出して、誰かが信じて、少しずつ形を変えてきた。全部が真実じゃなくても、全部が無価値なわけじゃない。そしてそれが出来るのは人間だけだった筈だ」

「では、ThisManの言葉は正しいのですか」

「正しいかどうかは分からない。でも、危うさがあるのは分かる」

「何故です?」

「物語は人を殺すよ。そしてあいつは、人を殺す側の人間だと思うから。彼女の目的の為に、犠牲が必要なら彼女はそれを躊躇わない」


 既にThisManは犯罪を犯している。

 公安部の土岐からの情報は間違いない。


「しかし、ThisManは私達のことをどこで知ったのでしょうか。神祝少佐の関わっていた計画は軍内部でも情報が抹消された筈です。少なくとも神祝少佐は何も残さなかった」


 マノノの記憶領域には計画に関する情報が残っている。

 生前、神祝少佐が何をしていたかの記録もあった。

 絵馬が以前調査した限りでもマノノの機体が関わっていた計画は痕跡もなかった。

 倫理的懸念から計画は中断抹消。

 しかし、独断で神祝少佐が強硬したというのが結果の筈だった。

 絵馬はマノノの疑問に一つの仮説を口にする。


「記録は消しても記憶は消せない。当時の軍関係者はまだ生きている」



◇◇


 都市圏の外縁部。

 かつては住宅街だったはずの一帯は、戦後復興を経て白い壁の建物が並ぶばかりだった。

 低層の棟が庭園を囲むように配置され、敷地の外側には薄い防音壁。

 継続支援機構、第三保存医療センター。

 そこには、重度の戦傷者、長期昏睡患者、植物状態の患者、出生時から自力生活が困難と判断された者達が収容されている。

 彼らは救われている。

 制度上はそう説明されていた。

 夜の敷地内に、人影が一つあった。

 警備灯の薄い青色が、白い壁を冷たく照らしている。

 敷地内には均一な建物が等間隔で並んでいる。

 生活感のない風景は、この場所から「生活」というものが失われたことを物語っている。

 人影は、施設名の表示を見上げた。


「ただいま」


 小さく呟いた声は、少女のものだった。

 だが、敷地内の監視カメラにはそう映っていない。

 カメラの映像上では、そこに立っているのは中年の男性職員だった。

 ThisMan。

 そう呼ばれている存在は、機械の目の隙間を狙って歩いていた。

 夢の中に現れる見知らぬ男。

 誰も会ったことがないのに、誰もが見たことがあるような顔。

 あの古いロアの顔を模した認識攪乱用の仮面は、アンドロイドや監視システムの視覚認識を誤作動させるための道具だ。

 本当の名前は別にあった。

 だが、その名を呼ぶ者は、もうほとんど残っていない。


 彼女は施設の自動門へ近づく。

 外観では見分けのつかない、同じ建物達の一つへと迷いなく。

 門扉横の認証パネルが、彼女の姿を読み取ろうとして一瞬だけ迷う。

 表示が揺らぎ、男性職員のIDを認識する。

 指先で認証パネルに触れる。手袋の下に埋め込まれた補助端末が、短い認証情報を流し込む。

 数秒後、施設の門は何事もなかったかのように開いた。

 白い制服を着た受付アンドロイドが、完璧な笑みで彼女を迎えた。


「夜間搬入業務、お疲れ様です」

「お疲れ様」


 仮面を着けた彼女の存在に疑念を抱く「物」は何もいない。

 受付アンドロイドは一礼し、それ以上何も問わなかった。

 アンドロイドは優秀だ。

 定められた手順を守り、例外を排除し、効率よく人間社会を支える。

 汚れ一つない白い廊下はそれによって支えられている。

 そんな廊下を気にするものなどいないのに。


 長期意識障害患者の管理区画。

 人間の声がない。

 足音もない。

 機械音も、ほとんど聞こえない。

 ただ、規則正しい呼吸器の音と、生命維持装置の低い駆動音だけがある。

 一つの病室の前で足を止めた。

 扉横のパネルには、女性の名が表示されている。

 年齢は二十歳前後。

 状態は長期昏睡。

 認知反応指数は、ここ数年ほとんど変化がない。

 面会制限あり。

 家族接触注意。

 その最後の一文を見て、彼女は小さく笑った。

 通行権限はなくとも扉は静かに開いた。

 病室の中には、若い女性が眠っていた。

 細い腕に点滴ラインが繋がれ、首元には神経活動を計測する薄い端子が貼られている。

 髪は綺麗に整えられている。

 唇は乾かないように処置されている。

 肌は清潔に保たれている。

 身体は痩せすぎないように管理され、筋萎縮を抑える処置も定期的に施されている。

 完璧だった。

 完璧に、何もかもが維持されていた。

 けれど、彼女は目を開けない。


「来たよ」


 返事はない。

 当然だ。

 眠る妹の頬に触れる。

 温かい。

 生きている。

 だが、それだけだった。


 ThisManとして施設に侵入し、軍警から押収品を奪い、大手企業の機密を盗み、違法な軍用プログラムを流通させ、アンドロイド達の視覚認識を欺き続けてきた彼女は、妹の前ではただの姉だった。

 姫は椅子に腰を下ろす。

 仮面を外した。

 病室の薄暗い照明の下で、少女の顔が露わになる。

 実年齢よりも若く見える顔。

 だが、首元から鎖骨にかけて、皮膚の下には細い機械光が走っている。


 大戦中、非公式な人体拡張実験に使われた痕跡だった。

 サイボーク化。

 世界大戦の折に行われた、人間の身体能力を引き上げるための手法。

 だがアンドロイド技術の急速な発展により、非人道的なサイボーク兵士は居場所を無くし、記録から消され、戦後は存在しなかったことにされた。

 それでも生き延びた。

 生き延びてしまった。

 妹だけは、そうならなかった。

 戦火に巻き込まれた妹は、身体だけを残して眠り続けた。

 生きている。

 死んでいない。

 だからこそ、諦められなかった。


「もう少しだから」


 妹の手を握った。

 握り返されることのない手。

 だが、手放すこともできない手。

 生命維持装置の音だけが続く。


「魂が移せるなら。もし、本当に魂が移せるなら」


 この国では、人間は以前ほど働かなくなった。

 農業も、物流も、復旧作業も、介護も、清掃も、行政の補助業務も、多くはアンドロイドによって代替されている。

 人間の手が不要になったわけではない。

 けれど、人間でなければならない仕事は、確実に減っていた。

 戦後の復興は、アンドロイドの労働力によって成された。

 それは事実だ。

 そして、その事実は人間の価値を少しずつ変質させている。

 経済活動から切り離された種は、ただそれを存続させる為だけの存在に変容しつつある。


 その時、妹に居場所はあるだろうか。

 ないだろう。

 人間がその領域を機械に明け渡した時、訪れる時代は全ての人間に優しい世界ではない。

 この社会は、遺すべき存在以外を淘汰していく。

 人間という種として、遺すに相応しい存在以外は不要になる。

 アンドロイド達が社会を構成することで、人は人であるだけで意味がある。

 ならば、その人は、相応しい「人」であらねばならないのだ。


【音除 完】



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