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それぞれの想い/温子と知美


 屋上のペントハウスの屋根には、例によって司の姿があった。

いつものように、武蔵野の森を眺めている。

鉄の扉がバタンと閉まる音がすると、間もなく、亨と薫が上がってきた。

「大将、調子はどうだい?」

亨が司の脇に腰を下ろしながら言った。

「まあ、お前にしちゃあ、上出来だったんじゃないか?」

「告白したんだもんな。」

薫も司の後に腰を下ろして、話しに加わった。

司は、相変わらず黙っている。

確かに、司は、“F&N”で知美に告白した。

その時は、知美に返事を求めなかったし、告白された知美は、話しをはぐらかして、返事をしなかった。

若葉や綾が「ヒューヒュー」と冷やかしても、照れる様子も見せなかった。

もちろん、それは知美ではなく、涼子だったのだが、司達は知る由もなかった。

 三人は、揃ってしばらくの間、武蔵野の森を眺めていたが、やがて司が口を開いた。

「何も変わらない。相変わらず、先輩、先輩となついてはくれるが、それ以上を期待していないみたいだ。付かず、離れずといったところかな。」

「まあ、そのうちチャンスはあるさ。なんてったって藤村と一緒にいる時間はお前の方が多いんだからな。それより、薫、よくも俺達をかついでくれたな。」

亨がドレスコードの件を薫に問いただした。

司には、その後の亨と薫の話は、ほとんど耳に入ってこなかった。


 教室では、知美と洋子がいつものようにコンピューターと奮闘しながら、話しをしている。

「それで?彼とはうまくいったの?」

「だから、まだ彼じゃないって言ってるでしょう。」

知美は、そう言いながらも自然と顔がほころんでくる。

「そこそこの収穫はあった訳ね。」

「まだまだよ。ねぇ、これどうやればいいんだっけ?」

知美が、画像を立体的に見せる方法を洋子に聞いた。

「ああ、それはね…こうやって、こうやって、ねっ!」

洋子は、知美のコンピューターのキーボードを操作して、やり方を教えた。

「なるほど。ありがとう。」

「ところで、横山先輩に告白されたんだって。」

「ええ、そうみたいね。」

「なに?それ?まるで人ごとみたいに。」

「だって、人ごとだもの。」

「なんですって?」

「いや、その…実感が無くて。」

「2回も告白されておいて?」

「う〜ん…ちょっとちがうんだなあ。」

「そうかしら?デザイン科の他の先輩と比べたらイケてる方だと思うんだけどなあ。」

「何がイケてるのかな?」

二階堂教授が後から声を掛けた。

知美と洋子は、飛び上がりそうになるのを、何とかこらえて、言い訳を考えた。

「このキャラクター、イケてませんか?」

洋子が思わず、知美のコンピューターを指して言った。

二階堂教授が、知美のコンピューターの画面をしばらく眺めて頷いた。

「ほー、これはなかなかのもんだ。」

二人はホッと胸をなで下ろした。


 知美の実家は、孝太の住む団地がある町の隣町で、一つ東京よりの駅から徒歩で十五分ほどの住宅街にある一戸建ての二階屋だ。

小学校の教師をしている父親、幹生みきおと出版社で編集長をやっている母親、優子ゆうこの元で生まれ、育った。

父親の転勤で、小学校に入る前に、この町に引っ越してきてからは、ずっとこの町に住んでいる。

大樹たいきという名の弟が一人いる。

今は、知美と同じ高校に通う2年だ。

2年ながら、野球部のエースで、甲子園を夢見て毎日練習に励んでいる。

知美は、小さい頃から、母親が持って帰ってくる、同じ出版社から出されているアニメ雑誌のファンで、テレビアニメだけではなく、色々なアニメーションを見て育った。

父親が、ビデオを購入してきたり、映画では、一般のロードショーにとどまらず、市民会館で上映される大学生の自主制作アニメーションや映画などを見に連れて行ってくれたのだ。

一時、母親の影響で出版社の仕事にも興味を持っていたが、結局、アニメーション関係の仕事をしたいと、心に決め、武蔵野台美術大学に進学した。

 孝太とは、中学では一度も同じクラスになったことはなかったが、高校3年間は、ずっと同じクラスだった。

孝太は、1年の時は真ん中くらいの成績だったが、3年になった頃には学年でもトップを争うほどの成績を上げるようになっていた。

知美は、目的があって、努力をしている孝太のことを、3年間ずっと見守ってきた。

小さい弟の面倒を見ながら、母親を助けてバイトに明け暮れながら、必死で勉強していたことも知っている。

そんな孝太のことを想えばこそ、知美もずっと我慢してきた。

だから、今更、諦めるわけにはいかないのだ。

孝太は、この春、夢への第一歩を踏み出すことになった。

たった1枚のメモだけが、孝太とのつながりだった。

再び孝太と巡り会うことになって、知美は生まれて初めて神様に感謝した。


 今日の“磯松”は、割と暇だった。

孝太は、最後の洗い物を片付けて店を出た。

いつものように、温子が待っていた。

「お待たせ。」

いつものように、腕を組んで駅までの道を二人で歩いた。

「ねえ、お腹空かない?久しぶりにどう?」

温子の目線の先には、いつものオレンジ色の看板が見えていた。

「いや、たまにはラーメンでも食いたいなあ。」

最近、駅前に屋台のラーメン屋が出ているのを孝太は思いだした。

「駅前に屋台が出ているだろう。ちょっと寄ってみようぜ。」

「あっ、知ってる、知ってる!私も一度行ってみたかったの。屋台って初めて。」

「へえー、そうなんだ。さすが、お嬢様だな。」

そう言って、孝太は温子をからかった。

「もう…」そう言って温子は孝太の背中を思いっきりひっぱたいた。

「…今日はごちそうして貰おうかしら。」

駅前まで来ると、屋台には三人ほどの先客がいた。

スーツ姿のサラリーマン風の男が二人。

そのうちの一人は、水商売風の女性を連れている。

孝太と温子は、のれんをめくると、一人でいるサラリーマンの隣に腰掛けた。

メニューは、ラーメンとチャーシューメンだけだった。

二人ともラーメンを注文した。

「最近、涼子が元気無いみたいなんだけど、孝ちゃん、何か心当たりない?」

最近というのは、“あの日”以来ということなのだが、孝太はたぶん“入れ替わり”の件を気にしているのだろうと思ったが、分からないと答えた。

「へい!お待ち!」

屋台のおやじが、二人にどんぶりを差し出した。

チャーシューが二枚、メンマに、なると、少々のモヤシ、1/4にカットされた、ゆで卵が入っている。

スープはシンプルなしょうゆ味で、なかなか旨かった。

二人はスープを一口すすって、目を見合わせた。

「おいし〜い!」「うまい!」

二人は、同時に声を上げた。

そして笑った。

孝太は、久しぶりに、心の底から笑ったような気がした。


 “F&N”のテーブル席。

一番奥にある、観葉植物に囲まれた席。

あすかは、例によって、ハンチングキャップを目深に被り、サングラスをかけている。

いつものように、楽譜に音符を刻んでいる。

店内は、遅い時間にも係わらず、けっこう混んでいる。

奈津美が、直々に、オニオンリングフライとマティーニを運んできた。

「待ち人の到着よ。」

奈津美の後に広瀬涼子がいた。

「遅くなってすみません。」

涼子は、そう言うと、深々とお辞儀をした。

奈津美は、涼子にオーダーを聞くと、涼子はアップルティーを注文した。

奈津美は頷いて「それじゃあ、ごゆっくり。」と微笑んで立ち去った。

「まあ、座ってちょうだい。」

そう言いながら、あすかは、テーブルの上の楽譜を図面ケースにしまった。

涼子が席に着くと、あすかはいきなり本題に入った。

「この間のことなんだけど…」

武蔵野台美術大学とのパーティーの時、途中で涼子が知美と入れ替わっていたことに、あすかも気付いていたのだ。

涼子は、知美が孝太の高校の同級生で孝太のことが好きなこと、知美が孝太の本心を確かめたいと言ったこと、自分の気持ちを見透かして、そそのかしたことなど、全てを話した。

あすかは、黙って涼子の話を聞いていたが、涼子が話し終わると、マティーニを飲み干して、オーダーのためのベルを押した。

間もなく、ウエイターがやってきた。

あすかは、マティーニのお代わりと茹でたシュリンプをオーダーし、涼子のためにカボチャのケーキを追加した。

「何度か来てるから知っていると思うけど、ここのケーキは最高よ。中でも、このカボチャのケーキは絶品なの。」

そう言って、涼子にウインクして見せた。

涼子は、どう対応すればいいのか困った様子でいる。

「そうか…そう言うことだったのね。孝ちゃんもやるわね。涼ちゃん、あなたも辛いわね。温っちゃんもいい娘だから、誰かえこひいきして応援してあげるわけにはいかないけれど、誰かが傷つくことのないように見守ってあげたいわね。」

涼子は、あすかに気付かれていたことには、気まずさも覚えたが、全てを話してしまってからは、心の中のもやもやが無くなっていることに、内心安堵感を覚えていた。


 店内には、コーヒーのいい香が漂い、店の奥にある電話台の脇には、太った雑種のネコが時折、大きな口を開けてあくびをしながら、横たわっている。

カウンターの中ではこの店のアルバイトで、美大生のアイドル、江藤智子が洗い物をしている。

薫は、カウンターの一番手前の席から、そんな智子をずっと眺めては、ため息を付いていた。

智子は、この春、武蔵野台美術大学を卒業し、この喫茶店“HIRO”でアルバイトをしている。

秋には、イタリアの工房へ行くことが決まっていて、つかの間の骨休めと、旅費をためる目的で、叔母の博子が経営するこの店に来ているのだ。

薫もそのことは知っていた。

薫にとって、智子は大学に入って以来、ずっと憧れの人だった。

「先輩、本当に行っちゃうんですよねぇ。」

智子は、洗い物の手を止めて、薫の方にやって来た。

長い髪をバンダナで束ね、店のロゴが入ったエプロンをしている。

眉毛が隠れるかどうかというところまで前髪を垂らして、少し切れ長の目は知的で、小さな輪郭の顔の中にバランスよく収まっている。

薫の前で、両肘を付いて頬杖をし、薫の顔をじっと見る。

薫は不意に目をそらす。

「何のために、むさ美(武蔵野台美術大学)を卒業したと思っているの?小田切君だって知っているでしょう?」

 薫がむさ美に入学した時、智子は既に4年だった。

彼女が手がけるブロンズの彫刻は、国内のコンクールでは常に入賞するほど、見事なものだった。

薫は、智子が卒業するまでの1年間だけ、彼女のチームでブロンズ像の制作に携わっていた。

そんな、智子をイタリアの有名工房のデザイナー、レオナルドがスカウトしたのだ。

「だけど、さびしいっすよ。俺、もう先輩に会えなくなると思うと…」

「バカねぇ!大袈裟よ。そんなこと考える暇があるなら、小田切君も頑張って、レオナルドに認められるような作品を出すことね。」

「レオナルドに認められるなんて俺には不可能っすよ。」

「何言っているの?1年間手伝って貰ったけど、なかなかのものよ。小田切君のおかげで、今の私があるようなものよ。」

「そうっすか?なら、俺も、頑張ってみようかな。何か元気でてきたっすよ。」

「そう、そう、落ち込んでる小田切君は、らしくないわよ。」

そうだ、そうだとでも言うかのように、奥に横たわっていたネコが薫のそばに寄ってきて、ニャア〜と鳴いた。


 カキーン!勢い良く飛んでいく打球を、左翼手が必死に追いかけて行く。

「おーい!藤村、何やってる。バックホーム来るぞ。カバーに行かないか!」

右中間、ややセンター寄り、見事にランニングキャッチ。

同時に三塁ランナーがタッチアップでホームに突っ込んでくる。

外野手はすぐに、ホームへ返球する。

返球は大きくそれて、カバーに走った投手の元へ転がった。

それを見て二塁ランナーもホームへ突っ込んでくる。

投手は素早くボールを掴んで、捕手へ送球する。

間一髪、主審の右手が上がる。

「アウッ!スリーアウト!ゲームセット!」

高校野球春季大会県予選の準決勝。

大樹の高校は5−4で何とか、逃げ切り、決勝進出を果たした。

これで、関東大会への切符を手にした。

ベンチに戻ってきた藤村大樹を、コーチの中西明弘が迎えた。

スタンドで見ていた知美は、大樹と明弘に手を振った。

 知美の実家では、知美が、母親の優子と大樹の関東大会出場を祝ってごちそうを用意していると、大樹が帰って来た。

明弘も一緒だった。

「おじゃまします。」

明弘は、テーブルに並べられた料理を見て唾をごくりと飲み込んだ。

大樹は、唐揚げを一つ摘んで口に放り込み知美の方を向いた。

「まさか、姉貴が見に来るなんて思わなかったなあ。」

知美は、つまみ喰いをした大樹の手を叩いて、睨み付けた。

「まだ手を洗ってないでしょ!」

そう言って、あごで洗面所の方を指した。

「ちょっと、忘れ物を取りに来ただけよ。試合を見に行ったのはついで。」

大樹は、洗面所で手を洗いながら「そんなことだと思ったよよ。」と言い、水道の蛇口をひねって水を止めた。

「久しぶりだな。元気だったか?」

明弘は、テーブルの端に腰掛けペットボトルの水を飲んだ。

「まあね。」

知美は、そう言って冷蔵庫からビールを取りだし、グラスに注いだ。

ちょうど、父親の幹生が風呂から上がってきた。

「中西君、今日はよくやったね。おめでとう。」

「大樹が、踏ん張ってくれたからですよ。」

「明日も頼むよ。」

「ええ、任せて下さい。」

食事の支度ができたので、知美は、母親の優子に言われて、祖母のユメを呼びに行った。

ユメは車いすを押してもらって、テーブルの手前の席、いわゆる、お誕生日席にあたる場所についた。

「大樹、今日は勝ったのかい?」

大樹は、ユメに向かって、Vサインを出して「イエーイ!」と答えた。

ユメは満足そうな笑みを浮かべ、ビールのグラスを差し出した。

食事が終わると明弘は「それじゃあ。」と席を立った。

知美は玄関の外まで明弘を見送った。

「広瀬君に会ったわ。」

明弘は振り向かずに、「そうか。」とだけ言って、立ち去った。

 部屋に戻ると知美は、机の引き出しからサイン帳を取りだした。

一番、最後のページを開く。

孝太に書いて貰ったページだ。

懐かしい文字が書かれてある。

『3年間いっしょで本当によかった。ありがとう。』

知美は、しばらく、その文字を見つめていたが、やがて、サイン帳を閉じ、バッグにしまった。


 ビートルズのアルバム、“ABBEY ROAD”のB面“YOU NEVER GIVE ME YOUR MONEY”から続いていくメドレーが始まったところだ。

孝太は、このメドレー部分がとても気に入っている。

あれ以来、ビートルズのアルバムを既に4枚買っていた。

ビートルズのサウンドに合わせて、リズミカルに玉ねぎをみじん切りにしていく。

コンロに掛けたフライパンから煙が上がり始めた。

孝太は、一旦火を止め、油を少量垂らした。

すぐに火を付けると、フライパンを廻しながら、油を馴染ませる。

予め、溶いてあった卵をフライパンに流し込む。

ジューッという音が、一瞬ビートルズをかき消す。

続いて、みじん切りにした玉ねぎと人参、ご飯、薄くスライスした魚肉ソーセージを加える。

しゃもじでご飯をほぐしながら、塩を一掴みふって、左手でフライパンを上下させ、ご飯に具材を絡めていく。

見事な手つきだ。

あっと言う間にチャーハンが出来上がった。

午前十時過ぎ。

昼食を兼ねた遅い朝食を、孝太はかき込んだ。

今朝は、珍しく朝寝坊した。

食べ終わると、食器を流し台のシンクに放り込んでアパートを出た。

駅までの道を全速力で走った。

駅に着くと、下りの電車がホームに入ってくるところだった。

自動改札の機会に切符を滑り込ませると、出てきた切符をつかみ取り、、そのまま電車に飛び乗った。


 午前中の講義が終わると、孝太は厚生棟にあるCIPの部室に向かった。

望から召集がかかっていたのだ。

良介以外は既に揃っていた。

「今年度の初仕事よ。もちろん裏のね。発注者は、むさ美の文化委員会よ。知っての通り、むさ美では、年2回、春と秋に展示即売会を兼ねて、バザーをやるわ。むさ美ではこの、年2回のバザーの収益で有望な学生の作品造りのサポートや個展の資金を賄っているの。今回は、春のバザーに客を呼び込むために、うちにイベントの企画を依頼してきたのよ。」

望が、ざっと、今回のプロジェクトの概要を説明した。

むさ美と聞いて、孝太は顔をしかめた。

せっかく温子との仲がうまくいきかけているのに、ここで、また、知美と係るようなことになったら厄介なことになると思ったのだ。

温子は、あの日、知美が、孝太のことはあきらめたのだと思っている。

そのことで、自分にとっては害がないと判断したことと、その時、ある程度話をしたことで、知美という女性に対して好感さえ持つようになっていた。

そんな温子の知美に対する心境の変化は、孝太も気づいていたが、孝太自信の気持ちがまだはっきりしていないことも理解していた。

「それで、今回は…」

さらに望みは話を続けた。

「それで、今回は、高倉君に仕切って貰おうと思うの。確か、むさ美には友達がいたわよね。」

伸一が頷く。

「小田切君っていったかしら?今回、むさ美がうちに依頼してきたことには、彼が一枚かんでいるのよ。」

「あいつが?」

伸一は、不思議そうな顔をしたが、プロジェクトリーダーに指名されたことで、多少、有頂天になっていた。

「分かりました。その辺の経緯もふまえて、早急にプランを練ってみます。」

望は頷いて、続けた。

「そうしてちょうだい。プランがまとまったら、報告すること。細かいことに関しては、私と良介でサポートするから。みんなはそれまでの間、むさ美の情報収集をしてちょうだい。いいわね。」

「イエッサー!」


 午後の講義を取っていない伸一は、鵬翔と、早速、むさ美へ赴いた。

文化委員の吉田友成よしだともなりは、執行部会議室に二人を迎えた。

「初めまして。武蔵野台美術大学執行部文化委員の吉田です。聖都大学CIPの噂はかねがね伺っておりまして、今回うちの学生があなた達と親しくしていると聞いたものですから。」

そう言って、吉田は握手を求めてきた。

「こちらこそ、宜しくお願いします。」

伸一と鵬翔は、挨拶を返して、握手に応じた。

「さて、早速本題に入りましょう。大まかなことは七瀬さんにお話ししてありましたからご存じでしょうが…」

伸一は頷いた。

吉田は話しを続ける。

「…今年の卒業生の中に、イタリアのデザイナー、レオナルドに認められた学生がいるのですが、彼女のように才能のある学生が世界へ飛び立っていけるように、サポートしてあげることが、我々文化委員の最大の目的なんですが、芸術というものは、皆さんが思っているより遙かにお金がかかるものなんですよ。

ご存じの通り、むさ美では年2回のバザーの収益で、そんな芸術家の卵をサポートしているわけですが、彼女の様なケースはごく希でね…今、在学中の学生の中にも彼女に匹敵するほどの才能の持ち主が何人かいます。うちでは、今年、彼らを是が非でも世界へ送り出したい。そうしたことで、むさ美を世界への登竜門として、この世界での地位を確立したいわけです。とまあ、こういう風にいえば話は堅くなりますが、要は金を掛けて、有望な学生を売り出したい。そのための資金が欲しい。そう言うことです。」

「なるほど。事情は分かりました。ところで、この件に小田切が一枚かんでいると聞いたのですが…」

「ああ、彼ね…実は江藤智子というんですが…ああ、その、レオナルドに認められた学生というのがね。で、彼は彼女のチームで1年間彼女をサポートしていたんですが、なかなか才能があるんですよ。今回、そちらへ企画を依頼することにしたのは、その彼が言い出したことなんですよ。」

「そうでしたか。それで、小田切は、今、どこにいるんでしょうか?」

「たぶん…たぶん“HIRO”じゃないですかねえ。」

「ひろ?」

「ええ、その、江藤智子が働いている喫茶店です。すぐ近くですよ。」


 武蔵野台美術大学から十分ほど歩いたところに“HIRO”はあった。

店先に、エプロンをしたネコの看板が出ていた。

車が3台ほど止められるくらいの駐車スペースがある。

入口の両側には花壇があり、すみれの花が植えられている。

グリーンのペンキが塗られたドアには格子状の桟ががあり、硝子がはめ込まれている。

伸一は、店のドアを開けた。

鵬翔とは、むさ美で別れた。

ひき続き、過去のバザーの資料などをチェックするため、鵬翔は一人で残ったのだ。

あとで、望が合流することになっていた。

 ドアを開けると、カウンターの一番手前の席に小田切がいた。

店内は、入って左右に丸いテーブルの二人用の席があり、左側の席にはスケッチブックを持った女の子が、颯爽と自転車で駆ける女の子の絵を描いていた。

席からは窓越しに、外の風景が眺められる。

店の前の通りは、サイクリングロードになっていて、そこは自転車部の練習コースでもある。

右側の奥がカウンターになっていて、その一番手前の椅子に薫が腰掛けていた。

カウンターの後側は、壁際にベンチシートが備え付けられていて、4人用のテーブル席が3席あり、自転車乗りのウエアを着た男女が6人ほど座ってコーヒーを飲んでいた。

カウンターには、背もたれのある回転椅子が5脚設置されていた。

奥の電話台の脇には、太ったネコが鎮座している。

「授業は受けなくていいのか?」

伸一の声に、薫が振り向いた。

「来たな!」

薫は、伸一が尋ねてくることは計算づくだった。

「お前だって、人のことは言えないだろう?」

伸一は薫の隣の椅子に腰掛けた。

カウンターの中の女性が水の入ったコップを伸一の前に置いた。

「コーヒーでいいかしら?」

そう言って、微笑んだ。

伸一は頷くと、その女性をしばらく見ていた。

真っ黒な長い髪が肩まで伸びている。

正面はカチュウ−シャで前髪をあげている。

やや、ぽっちゃりしてはいるものの、品のある輪郭には、それにふさわしい、パーツがはめ込まれている。

美人と言って間違いない。

だが、吉田から聞いた、江藤智子ではないことは明らかだった。

「初めて見えた方ね。小田切君のお友達かしら?」

“HIRO”のママ、鈴木博子が尋ねた。

「ああ!高校の時の悪友だ。こう見えても、こいつ聖都の工学部なんだ。」

「まあ!それはすごいわ。聖都の学生さんが来たのなんて初めてだわ。」

伸一は謙遜して、ママをたしなめた。

その時、カウンターの奥で女性の声がした。

「ただいまー。」出前に行っていた智子が通用口から入ってきた。

薫の横にいる伸一を見て軽く会釈をした。

彼女が現れた途端に、薫の態度が急変した。

「はは〜ん、こいつ、彼女に惚れてるな!」

伸一は、直感でそう思った。

「案外、今回の依頼の裏にはその辺のことが絡んでいるのかもな…」


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