1-01 空飛ぶ魔導士
――村の古老は子どもたちにこう教える。
森の中で魔法使いと出遭ってしまったら、何も見なかったことにして立ち去れと。
さもなくば、待ち受ける運命はふたつにひとつ。
魔法に掛けられて記憶を消されるか、
魔法に掛けられて己が新たな魔法使いになってしまうかだ――
―アゼル地方 森林地帯―
荘厳な雲間を縫うようにして飛び抜けると、眼下に目の覚めるような緑が広がった。
敷き詰められた新緑の絨毯に、ちぎった綿のような残雪が顔をのぞかせている。
少女は早春の清々しい空気を胸いっぱいに吸い込んだ。冷たい刺激が鼻を通って眼に澄み渡る。
ソルフィスは空を飛んでいた。
風と雲の中を滑るように突き抜けながら、もうかれこれ二時間ほどこうしている。
山々の稜線から続くなだらかな勾配の傾斜を針葉樹が一面に覆っている。雲霞の切れ目からところどころ見え隠れする森の渓流が陽の光を反射してまばゆく輝いていた。
彼女は奇妙なものに跨っていた。
飛翔彗と呼ばれるそれは空を飛ぶための魔法の道具だ。
どこにでもある日用品の箒のような形に似ているが、それとは少し違う。
彼女の手が握る幹の部分はフォークのような独特の曲線を描いていた。幹の後方には尻を乗せるための鞍がある。鞍といっても馬の背に付けるような大きなものではなく、腰掛けが出来る程度の皿といってよいくらい、ずいぶんと小ぶりなものだ。
鞍の下に包み込まれるようにして、白桃色をしたたくさんの鮮やかな羽根が綺麗に差し込まれてある。その羽根の一つ一つから魔術によって生み出された長い光の帯が伸び、吹流しのように風に乗って揺らめいていた。
魔法の光帯が通ったあとに、刷毛でなぞったような薄い光の軌跡が描かれる。空飛ぶ少女の姿を遠目から眺めれば、まるで光る尾長鳥のようだ。
ソルフィスはふわりと飛翔彗を停止させ、眼下に広がる絶景をしばし楽しんだ。
実に壮観な眺め。もう一度深呼吸する。ひんやりとした山の空気が心地よい。
スカートの裾をつまんでシワを直すと、彗を握っていた手を放し、うーんと伸びをした。
少し冷たくなった手を温めようと手袋を脱いで息吹きかけていると、お尻の方がモゾモゾと動いた。
手毬ほどの小さな黒い毛玉から、黒い尻尾と黒い頭がにゅっと飛び出した。
全身黒づくめの小さな仔猫がぱちっと大きな瞳を開き、聞き耳を立てるかのように大きな耳を震わせた。
「どこだここは」
驚くことにその黒猫は少年のような張りのある声で、人の言葉をしゃべった。
「あら、ティノ。お目覚め?」
「むぅ……。着いたのか?」
名前を呼ばれた黒猫は気だるそうに返事した。ソルフィスは、うーん、と唇に指をあてる。
「たぶんね。お城から西南西の方向、50リーグほどかなぁ? 風に流されてなければだけど」
「ふむふむ」
黒猫ティノはヒゲをふんふん鳴らしながら、ぴょんと跳ねてソルフィスの肩につかまり、うしろの肢を可愛らしくバタつかせた。
50リーグといえば、馬をまっすぐとばしても五、六時間は掛かる距離だ。森と山を越えてくるのならば、さらに数倍の時間が掛かる。そこをひとっ飛びに越えてやってきたわけだ。
ソルフィスは懐のポケットから地図の紙片を取り出した。これまでに飛んできた距離が目測と一致しているかどうか、黒猫と一緒になってまわりの風景とを見比べる。これも訓練のひとつだ。飛行速度と方向感覚が適切か、体に覚えこませているのだ。
「集落が見えるなぁ。あれがエントの村だとすると……、えーと、すぐ横に川が……うん、すげえな。期待通りの場所だ」
「わぁ、やったー!」
ソルフィスは小さく拳を握りしめた。飛行感覚はまずまず。精度良好だ。
朝方に魔導学院を出発したときは無風の快晴だったが、次第に雲が立ち込め、上空の風は少し強くなっている。それでも彼女の飛翔術の練習は順調に進み、長距離の飛行訓練も問題なく完了しそうだ。
「そいじゃあ、ソル。次は東南へ70リーグほど行ってみようか?」
「えぇーっ。ちょっと休もうよ。お腹すいたよ」
「よく空く腹だなぁ……」
えへへ、とソルフィスは照れ臭そうに頭を掻いた。
「じゃあ、ちょっと早いけど休憩にすっか。すこし高度下げて。安全かどうか視てみる」
「ほいっ」
促されるまま、少女は高度を落としていく。
黒猫がヒゲをよりいっそう鳴らしながら、鳶色のつぶらな瞳で見渡す限りの大地をぐるりと眺めまわた。しばらくして黒猫はひょいと顔を上げた。
「いいよ、魔獣の気配は感じないから大丈夫だろ……。あそこの川辺に降りて休もうぜ」
「ティノ! ほら、あれ見て見て!」
黒猫は指差された方向に視線を移した。
すぐ下を渡り鳥の一群が飛んでいる。越冬を終えて北へと向かっているのだ。日に照らされた鳥の背中が鮮やかな七色の光彩を放っていた。
「カモだな。優雅だねぇ」
黒猫は何の気もなく言葉を返したが、彼の相棒はたいそう興味を惹かれている様子だ。
ソルフィスは大きな瞳をキラキラと輝かせ、
「お昼はあれにしよっか!」などとのたまった。
「ハイ?」
「しっかりつかまってて!」
ふわりとした奇妙な浮遊感のあと、彗の先端がカクンと落ちた。
次の瞬間、紐が切れたかのように彗は落下した。
「ふぎゃあぁぁあぁ」
黒猫はただならぬ叫び声をあげた。