シュランベルクの時計
番外編の3000字小説です。
以前、別のところで掲載したものを一部修正しました。
時計メーカー、ユンハンスで有名なシュランベルクは、黒い森――シュバルツバルトのなかにある。1861年にユンハンス兄弟が壁掛け時計の会社を創設して以来、140年以上経った今も、ジュンベルクは時計の町であり、職人たちの手によって正確な時が刻まれていた。
裕樹は、町外れの時計工房にいた。ユンハンスとは縁もゆかりもない小さな工房だったが、仕事は多く忙しかった。一日があっという間に過ぎてゆき、彼はいつも窓から差しこむ夕陽に終業時間を教えられた。山稜を染める夕陽をしばらく眺め、祐樹は手馴れたようすで後片付けにとりかかる。番号の記された引き出しの中に、ゼンマイや、調速テンプ、竜頭に大小さまざまなネジを丁寧に収めていく。ここは主にアンティーク時計の修理を請け負う工房で、取り扱う部品のほとんどが規格外だから、管理には気を遣った。普段、大らかな師匠も、部品の取り扱いに関してだけは厳しかった。
祐樹の師匠であるハンスは、業界でかなり有名なマイスターだった。日本でも何度か専門誌に取り上げられたことがあり、祐樹はその腕に惚れこみ、わざわざドイツにまでやって来た。数少ないハンスのオリジナル時計とトランク一つで押しかけて2年になる。慣れないドイツ語も、それなりに通用するようになってきたが、職人としてはまだまだ未熟だった。
工房の後片付けは見習いの仕事だ。引き出しの整理が終われば、テーブルの片付け、道具の整理、そして最後に床の掃除が待っている。祐樹はこの床掃除が好きだった。学生のときのように、ホウキで床を掃いていくのが懐かしくて面白かった。日本にいたときは、学生時代の掃除のことなんか、すっかり忘れていたのに、ドイツでこんなに懐かしく思うのだから、人生は不思議だ。まともに掃き掃除なんかしたことのなかった人間が、今じゃ端から端まで木目にそって、丁寧にホウキを動かしている。祐樹は掃き集めた山を見るたび、一日の成果がそこに現れるような気がした。自慢するようなことでもないのに、なぜだか胸を張りたくなる。祐樹はちりとりで集めた一日の成果を持って、中庭に出た。
中庭のテーブルには、時計を広げた師匠のハンスが真剣な面持ちでノートを眺めていた。ハンスは顔を上げ、夕陽の傾きを確認し、置いてあった時計の竜頭を一つ一つ、大きな手で器用に回し始めた。祐樹はその様子を眺めながら、師匠の向かいに座り、無地のバンダナをテーブルのうえに広げ、掃き集めた一日の成果をぶちまけた。といっても、決して、自慢するためじゃない。彼には重要な仕事が、まだ残っているのだ。祐樹はホコリと金属片の山を静かに人差し指でならしていった。そうして、仕事中に落としてしまったネジや細かな部品の拾い忘れがないかを確認し始めた。これが今日の最後の仕事だ。
「昨日より、少ないか?」
ハンスが手を動かしたまま訊ねた。祐樹は即答できずに、しばらくしてから、
「ヤー(だと、思います)」
と応えた。実際、その日の成績は優秀だった。いくつかの螺子と秒針が落ちていただけだった。ハンスは満足そうに頷いた。
「アンティーク時計は規格外があるから、気を遣うだろう」
「規格外の部品は、落とさないようにしています」
得意気な答えに、生意気なヤツだ、とハンスが苦笑した。祐樹がいつものように、しれっとした顔で肩を竦める。
「手伝いましょうか?」
片づけを終えた祐樹が申し出ると、ハンスは大袈裟に首を振った。
「お前には、十年早い」
手際よく竜頭を回す師匠は、いつものように軽快な舌打ちさえオマケする。そのおどけたようすに、祐樹の口元がほころんだ。
師匠は、修理を終えた時計の時刻を、日の入りに合わせるのを習慣にしていた。風変わりな習慣だったので、祐樹は弟子入りしてすぐにその理由を訊ねた。すると、ハンスは胸を張って、こう応えた。
「ここで修理した時計なんだから、最初くらいは、ここの時間を刻ませたいんだ」
「でも、標準時と少しずれるでしょう? 持ち主が見たら、時間をあわせなおしませんか?」
弟子入りして間もない人間は、恐れを知らない。ハンスは眉を吊り上げ、憮然としながら、いった。
「だとしても、俺はジュンベルクの時間を最初に刻んでほしいと思ってる。たとえ僅かな間でもな。それが、この工房で生き返った証だ。まあ、お前には、わからんだろうがな」
ハンスの言うとおり、当時の祐樹には、その意味がさっぱりわからなかった。ジュンベルクだろうがなんだろうが、時計は正確な時間を告げるものだ。そうでなければ、時計の意味がない、と祐樹は思っていた。だが、師匠の真剣な様子を毎日見ているうちに、なんとなく、師匠のこだわっているものがわかるような気がしてきた。といっても、まだ漠然とした感覚でしかないから、うまく説明はできなかったが……。
祐樹はハンスの傍らに立ち、広げてあったノートをのぞきこんだ。そこには毎日の日の出と日の入りの時刻が、正確に記されていた。祐樹は、その時刻を確認し、自分の腕時計の時刻を合わせた。そして、山稜に沈んでいく夕陽を眺めながら、ゆっくりとゼンマイを巻いた。
ハンスの数少ないオリジナル時計は、軽快な音を立て、シュランベルク、ハンス時計工房の時間を、また刻み始めた。




