第1話
「はいはい、もうすりすりしないの〜」
僕はしゃがみ込んで、天地創造と終焉を司る究極神獣・バハムート三世のもふもふした大きな頭を、わしゃわしゃとなでた。
ちょっと名前が長いけど……僕の飼っている、ただのゴールデンレトリバーだ。
こいつはどうしても僕を行かせたくないらしく、ズボンの裾をくわえて離さない。まるで地獄にでも向かう僕を、何が何でも引き止めるつもりのようだ。
「バハちゃ〜ん、いい子だから〜。ほんのちょっとだけだって……!」
「先に家具を運んで、片づけたら迎えに来るから……車にはもう、ほんとに乗る場所がないんだって!」
「くぅ……」
「そんな顔しないでよ!」
「くぅ………………」
「あああああっ! わかった、僕の負け! じゃあ一緒に助手席に乗ろう! 足元でじっとしてるんだよ!」
「わんっ!」
引っ越し業者の運転手とひとしきり相談した結果、バハちゃんは僕の足元に臨時の居場所を確保した。
車が走り出すと、バハちゃんも少し落ち着いたようだった。
それでも、もふもふの頭をあちこちに向け、何かを探すように不安げにきょろきょろしている。
その頭に手を置いた。
「バハちゃん、元気出して! 今日はお祝いの日なんだから!」
「今日から、僕たちにも自分の家ができるんだよ!」
「ちょっと辺鄙なところだけど、家の前に小さな庭がついてるんだ! 一緒に寝っ転がって日向ぼっこしたり、ごろごろ転がったり、ボールで遊んだり……」
夢にまで見た暮らしだ!
それが、ついに実現するんだ!
そう思った、そのとき……
【ガシャーン!!!】
「おい! どこ見て運転してんだ!」
前方から、突然ものすごい衝突音が響いた。
乗用車が二台、衝突して交差点をふさいでいる。
けれど妙なことに、事故を起こした運転手たちは言い争う様子もなかった。
一人はふらふらと車を降り、顔を上げると、スマホを空へ向けた。
もう一人も、ぽかんと上を見つめている。
「……?」
何が起きたのか理解する間もなく、カーラジオから突然、耳障りな雑音が響いた。
「ザザッ……」
「ザッ……」
続いて、震える女性の声が流れてきた。
【こちらは……国家緊急放送センターです……】
緊急放送?!
【アナウンサーの林千夏です。】
【これより、全国の皆様に向けて、最後の放送をお届けします……】
……最後??
ご……ご退職、おめでとうございます?
いや、それ、全国民に知らせる必要ある?
【最終的に確認された観測結果によりますと……】
【超高速で接近する巨大天体が、まもなく地球に衝突します。】
「ぶふっ!」
運転手が、飲んでいた水をフロントガラスに噴き出した。
【衝突まで、あと……およそ三分です。】
【残念ながら……】
【もはや、これを阻止する手段はありません。】
「……」
僕は目をぱちくりさせた。
「……は??」
何だって?
地球?
衝突?
三分???
呆然と運転手を見た。
「……今日って、エイプリルフールですか?」
運転手はスマホで日付を確かめ、首を横に振った。
「いや、今日は十月二十四日だ」
四月一日じゃない。
いや、違う!
エイプリルフールかどうかって問題じゃないだろ、これ?!
【現在、政府およびすべての関係機関は、緊急対応の指揮を終了しております。】
ラジオの女性は、まだ放送を続けている。
【すべての緊急避難指示を、ただいまをもって解除します。】
緊急対応を終了って、どういうことだよ??
僕の家はどうなるんだよ??
十年も必死に社畜やって、ようやく頭金を貯めて手に入れた僕の家はどうなるんだよ???
【残された時間は、皆様それぞれ、ご自由にお過ごしください。】
……ご自由に???
遺言だけ残して逃げるみたいな言い方するなよ、おい!!
【ザッ……】
放送が途切れた。
運転手と顔を見合わせる。
【ガン!】
何かがぶつかり、フロントガラスがガシャンと砕け散った。僕は慌てて腕をかざし、降ってくるガラスの破片からバハちゃんをかばった。
腕にいくつか細い切り傷ができて、血がにじんだ。幸い、大した傷じゃない。
まあ、ひどい傷だろうがなかろうが、もう関係なさそうだけど……
「WHAT THE FUUUUUCK??????!」
僕はバハちゃんを連れて、慌てて車を降りた。
空を見上げた瞬間、僕は理解した。ウンコの上で暮らす細菌が、踏みつぶされる直前にどんな気持ちになるのかを。
空に浮かぶ巨大な灰褐色の球体は、片側を太陽に照らされて神々しく輝きながら、視界の中でみるみる大きくなっていった。
世界の終わり……
本当だった。
通りはすでに大混乱だった。
無駄だとわかっていても、防空壕を探す人がいる。
家族に、最後の電話をかける人がいる。
かと思えば、人類最後の三分間を満喫しようと、往来のど真ん中でピストン運動を始める連中までいた。
何をすればいいのか、わからなかった。
この十年間、僕の目標はただ一つ。自分だけの小さな庭を手に入れることだった。
そして大都会を離れ、庭に寝っ転がって、何もしない。
その目標があったから、クライアントの無数の無茶ぶりにも耐えられた。食費も服代も切り詰める毎日だって、乗り越えてこられた。
それなのに、なんでよりによって今日なんだよ……
せめて一日くらい、楽しませてくれよ!
いや、一日じゃ足りない。一年は楽しませてくれ。
……うん、今は交渉してる場合じゃないな。
突然、進む先を見失ったような気がして、全身から力が抜けた。
トラックのタイヤにもたれて座り込むと、バハちゃんが僕の腕の中に頭をぐいっと押し込んできた。
顔を上げ、視界の中でますます大きくなっていく球体を見つめた。
「バハちゃん、片っぽの前足、貸して」
バハちゃんの前足を片方持ち上げ、ほかの爪を押さえて、真ん中の一本だけを空へ向けた。
それから、僕も空へ中指を立てた。
何も言わず、ただじっと、そのままでいた。
世界のすべてが、白い光に照らされるまで。
◇
「ワン!」
頬に触れる湿った感触で、僕は意識を取り戻した。
目を開けると、なんとも困り果てたような犬の顔があった。太っているうえに下を向いているせいで、顔の肉がだるんと垂れ、くしゃっと寄り集まっている。
「バハちゃん? ここは……げほっ、げほげほげほっ!」
話そうと口を開いた途端、ほこりを吸い込んでむせ返り、一気に目が覚めた。慌てて上体を起こし、ほこりだらけの地面から顔を離す。
ところが、体が妙に軽い。起き上がっただけなのに、その勢いで空まで飛んでいきそうになった。
「ぺっ、ぺっ、ぺっ! ここ……どこだよ?!」
口の中の灰色の土を吐き出し、周囲を見回した。
広々とした荒野だった。どこまでも黒っぽい灰色の地面が続き、草木一本生えていない。焼け焦げた大地のように荒れ果てている。
その焦土には、無数の身体が横たわっていた。
みんな、僕と同じように目を覚ましたばかりで……
そして僕と同じように、何も着ていなかった。
見渡す限りの……全裸。




