第1話
聖国エリュシオンの建国記念パーティーは、華やかな光と音に満ちていた。
大広間の天井高く吊るされた水晶のシャンデリアが無数の燭台の炎を反射し、床に敷かれた深紅の絨毯を黄金色に染め上げる。
貴族たちが着飾り、楽団が優雅な弦楽を奏で、侍女たちが銀の盆に載せたワインと菓子を運び回る。
その中心に、セラーナ・アルカディアは立っていた。
武門の名門アルカディア公爵家の長女。
黒髪を高く結い上げ、深い藍色のドレスをまとった姿は、夜の湖面のように静かで美しい。
十年前、王太子アレクシスとの婚約が発表された時、誰もが「完璧な二人だ」と称賛した。
アルカディア家は代々「王家の剣と盾」と呼ばれる一族。
強大な魔力を宿し、王族を守るために戦場を駆けることを宿命づけられている。
セラーナもまた、幼い頃からその期待を一身に背負い、剣術と魔力制御の鍛錬に明け暮れた。
だが、十年が経った今も、彼女の魔力は目覚めていない。
「セラーナ・アルカディア!」
突如として響いた声に、広間の喧騒がぴたりと止まった。
声の主は王太子アレクシス。
金色の髪を輝かせ、深紅のマントを翻して高壇に立つ彼の隣には、見知らぬ美しい女性が寄り添っていた。
純白のドレスに身を包み、淡い金色の髪をなびかせるその女性は、柔らかな光をまとっているかのように見えた。
アレクシスは、舞台の役者のように大きく手を広げて宣言した。
「この無能め! セラーナ・アルカディア! お前との婚約は、今ここで破棄する!」
ざわめきが広間に広がる。
貴族たちの視線が一斉にセラーナに突き刺さった。
誰かがくすくすと笑い、隣の貴婦人が手を口に当てて囁く。
「やっとか」
「あの無能が王太子妃なんて、最初から無理だったのだわ」
嘲笑と好奇の波が、セラーナの周りをじわじわと取り囲んでいく。
セラーナは目を伏せ、唇を軽く噛んだ。
(……こんな日が来ると、思ってはいたけれど)
心の底で、ずっと覚悟を決めていた。
魔力が目覚めない自分を、周囲はいつしか「無能」と呼び始めた。
王太子の側近たちも、陰で嘲笑っていた。
アレクシス自身も、最近は冷たい視線を向けることが多かった。
それでも、セラーナは信じていた。
約束を。
幼い頃に交わした、共に国を守るという約束を。
あの日のアレクシスは、目を輝かせて「セラーナと一緒なら、どんな敵も倒せる」と言った。
その笑顔が、今でも胸の奥で疼いていた。
だが今、王太子の隣に立つのは――
「彼女こそ、魔王を討伐し、この聖国を救った英雄、聖女リリアーナ様だ!」
歓声が沸き起こる。
リリアーナ。
千年に一度現れるという伝説の聖女。
魔王軍との最終決戦で神託を受け、勇者と共に魔王を打ち倒したとされる女性。
帰還してまだ数ヶ月しか経っていないのに、すでに国民の誰もが彼女の名を知っていた。
リリアーナは優雅に口元を緩め、セラーナの方へ一歩踏み出して言った。
「主は私に示されました。この国に、真の平和が訪れるために、古き剣は鞘に収められるべきだと。セラーナ様、どうか神の御心をお受け入れくださいませ。私たちは、あなたのために祈っておりますわ」
リリアーナは両手をそっと胸の前で組み、首をわずかに傾げた。
「どうか、許してくださるわよね?」
その仕草は神に祈りを捧げる聖女そのものだった。
セラーナには「あなたはもういらない」という冷たい宣告にしか聞こえなかった。
瞳の奥にちらりと覗いた――熱病のような、燃えるような光は、誰よりもセラーナに届いた。
周囲の貴族たちはそれを「聖なる輝き」と讃えていたが、セラーナにはただの狂気に見えた。
(……計算高い人だわ)
セラーナの胸に、抑えた怒りが湧き上がった。
それでも、彼女は表情を変えなかった。
アレクシスはさらに声を高めた。
「お前にはもう、王族の傍に立つ資格はない。いや、この聖国にいる資格すらない! セラーナ・アルカディア、俺はお前を追放する!」
静寂。
誰もが凍りついた。
追放――それは単なる縁切りではない。
聖国から永遠に追われる身となること。
貴族の地位も名誉も、すべてを失う宣告。
広間の貴族たちが、再びざわめき始めた。
「追放?」
「やりすぎでは……」
「……自業自得ね」
冷ややかな視線と、隠しきれない嘲笑。
セラーナの指先が、ドレスの裾をぎゅっと握りしめた。
胸が締めつけられるような痛み。
幼い日の約束が、裏切られた痛み。
それでも、彼女はわずかに顎を引き、顔を上げた。
「……わかりました」
小さな声だったが、広間に確かに届いた。
驚きの視線が集まる。
反論しないのか。
怒らないのか。
泣かないのか。
セラーナは無言で腰を折った。
「王太子殿下のお言葉、しかと承りました」
アレクシスは眉をひそめた。
予想していた激反応が返ってこなかったことに、苛立ちを覚えたのだろう。
「即刻、国を去れ。行く先は――」
そこでアレクシスは、嘲るように口元を歪めた。
「海を越えた先の大陸。かつて魔王が根城とした『魔界』だ。お前のような無能な者が行くに相応しい場所だろう」
嘲笑が漏れる。
魔界――そこは人の住めぬ荒廃の地。
魔王が滅んだ今も、強大な魔物たちが跋扈し、毒の霧が立ち込めると言われる死の大地。
生きて帰れる者はいない。
セラーナは小さく頷き、落ち着いて答えた。
「殿下のご命令とあれば、謹んでお受けいたします。私はこれまでも、これからも、この聖国の繁栄を心より願っております。どうか、殿下とリリアーナ様が、国をより輝かしい未来へと導かれますように」
その言葉は、澄んだ響きで広間に広がった。
静寂。
貴族たちのざわめきが途切れ、誰もが言葉を失った。
反論でもなく、恨み言でもなく、ただ純粋な祝福と忠誠。
アレクシスは顔を歪した。
予想していた涙や怒り、懇願が一切ないことに、苛立ちと動揺が混じった表情を見せる。
リリアーナも、笑みを引きつらせた。
セラーナは優雅に一礼し、背を向けて歩き出した。
その背中は、微塵も揺らいでいなかった。




