第62話:マシロ、留守番をする
玄関のドアノブに手をかけたまま、タナデが振り返ったのはこれで三回目だった。
「マシロ、いいか? もう一度確認するぞ」
タナデは心配そうな顔で冷蔵庫に貼られたメモを指差した。
そこには太い黒マジックで書かれた文字がズラリと並んでいる。(マシロに漢字は読めないが)
『火を使うな』
『玄関の鍵を開けるな』
『配信機材に触るな』
『冷蔵庫は一回だけ開けていい』
『部屋を荒らさないこと』
『寂しくて我慢できなくなったら電話すること』
マシロは胸を張って、ビシッと敬礼した。
「マシロ、もうお姉さん! お留守番も完璧!」
今日のタナデはお仕事でどうしても外出しなきゃいけないらしい。「機材の現物確認」とかいう難しい用事だから、マシロは連れて行ってもらえない。
でも大丈夫。今のマシロはもう、あかちゃんじゃない。
体も大きくなったしお風呂だって一人で入れている(髪の毛は乾かしてもらってるけど)。
お留守番くらい、朝飯前だ。
「⋯⋯本当に大丈夫か? どんなに急いでも二時間はかかるぞ? トイレは済ませたか? お腹が空いたらどうする?」
「タナデ、心配しすぎ、マシロはちゃんとできるよ!」
マシロはタナデの背中をぐいぐいと押した。
タナデは名残惜しそうにマシロを見つめ、最後にマシロの頭をくしゃくしゃと撫でた。
「⋯⋯何かあったらすぐにスマホで電話するんだぞ。短縮ダイヤルの『1』だ」
「うん! いってらっしゃい!」
重たい金属音と共に鍵が閉められる――足音が廊下の向こうへ遠ざかっていく。
シーン。
リビングが急に静かになった。
時計の針が動く音と冷蔵庫のモーター音だけが響いている。
「⋯⋯⋯⋯」
マシロはリビングの真ん中で仁王立ちした。
ついに始まった。
マシロの、マシロによる、マシロのための「おひとりさま時間」だ。
タナデがいない自由な時間。何をして遊ぼうか。踊ろうか、歌おうか。
「よし! まずは瞑想!」
マシロはソファの上に座り、脚を組んで目を閉じた。
大人の女は静かに心を落ち着けるものだとテレビでやっていた。
「マシロは、大人⋯⋯マシロは、お姉さん⋯⋯」
ブツブツと唱えながら精神を統一する。
一分経過。
三分経過。
五分経過。
「⋯⋯⋯⋯」
十分経過。
「⋯⋯タナデ、遅い」
パカッ。マシロは目を開けた。
まだ十分しか経っていないのに体感時間は三時間くらい過ぎた気がする。
尻尾がパタパタと貧乏ゆすりを始めた。
静かすぎる。つまらない。
瞑想、終了。
☆
時計の針が十五分を回った頃にマシロの腹時計が正確に「おやつの時間」を告げた。
マシロはキッチンへと移動し、銀色の巨大な壁――冷蔵庫の前に立った。
ここで重要なルールを思い出す。
『冷蔵庫は一回だけ開けていい』
タナデがしいた鉄の掟。
これはマシロが暇に任せて冷蔵庫を開け閉めし、中身を全部食べてしまって夕飯が入らなくなるのを防ぐための処置らしい。
つまり、チャンスは一度きり。
「うーん⋯⋯」
マシロは腕組みをして悩んだ。
中には昨日タナデが買ってきてくれた「なめらかプリン」がある。
そして、マシロの大好物である「ツナマヨの残り」も入っているはずだ。
プリンか。ツナマヨか。
甘い誘惑か塩気のある至福か。
究極の二択――もし一度開けてプリンを取り出したら、もう扉は開けられない。あとで口が甘くなっても、ツナマヨには手が届かないのだ。
五分間、冷蔵庫の前で唸り続けた。
そしてマシロの頭上にピコーンと電球が灯った。
「そうだ! 同時にとれば一回!」
我ながら天才的な発想だ。
マシロは深呼吸をして冷蔵庫の取っ手に手をかけた。
勝負は一瞬。
「せーのっ!」
ジュバッ!!!
扉を開け放つと同時に両手を突き出す。
右手でプリンをキャッチ! 左手でタッパーに入ったツナマヨを鷲掴み!
さらに顎で閉まりかけた扉を押さえつつ、足の指で冷蔵庫の下段に入っていたお茶のペットボトルを挟んで引きずり出す!
「⋯⋯確保!」
バタン――冷蔵庫が閉まる。
マシロの手の中には完璧な戦利品が揃っていた。
ルール違反ではない。開けたのは一回だけだから。
「マシロ、賢い!」
マシロは尻尾を高く掲げ、勝利の凱旋パレードのようにソファへ戻った。
プリンとツナマヨを交互に食べるという、タナデが見たら「味覚が迷子」と呆れそうな食べ合わせを堪能する。
お腹がいっぱいになると少しだけ寂しさが紛れた気がした。
☆
三十分経過。
おやつタイム終了。
再び訪れる静寂。
「⋯⋯タナデ、なにしてるかなぁ」
マシロはゴロンとソファに寝転がった。
一人は自由だけど広すぎる。
タナデの匂いが足りない。
マシロは起き上がり、探検に出ることにした。
向かう先はタナデの寝室にあるクローゼットだ。
そっと扉を開けると中にはタナデの服がたくさん掛かっている。
いつもタナデが着ている、黒っぽくてかっこいい服たち。そこからはコーヒーと洗剤とタナデ特有の落ち着く匂いがした。
「⋯⋯これ」
マシロはハンガーにかかっていた黒いジャケットを手に取った。
レディース用だけどタナデは背が高いからマシロには少し大きい。
袖を通してみる。
「ぶかぶか」
予想通りだった。
袖が長すぎて手がすっぽりと隠れてしまう。裾は膝のあたりまである。
まるで彼氏のジャケットを借りた彼女ようになってしまった。
でも包まれている感じがして安心する。
マシロは姿見の前に立った。
鏡の中には少し背伸びをしたマシロが映っている。
「ふふん。私はプロデューサーのタナデだぞ」
マシロは声を低くして、タナデの真似をしてみることにした。
「いいか、マシロを傷つけるやつは⋯⋯しゃかいてきに⋯⋯えっと⋯⋯」
なんだっけ⋯⋯まっさつ? そち?
難しい言葉は忘れてしまった。
「しゃかいてきに⋯⋯もふもふの刑!」
バッと両手を広げて威嚇のポーズを取る。
しかし、袖が長すぎて手が布から出ていないため、幽霊の「うらめしや」みたいになってしまった。
しかも声が高くて全然怖くない。
「⋯⋯タナデごっこ、むずかしい」
マシロは鏡の中の自分に向かって溜息をついた。
本物の狂犬になるには、まだまだ修行が足りないらしい。
☆
四十五分経過。
タナデ成分を摂取しても、まだ時間はたっぷり残っている。
マシロは禁断の扉の前まで来てしまった。
『配信部屋』――防音室になっているこの部屋には高そうな機材がいっぱいある。
タナデには冷蔵庫のメモを指さながら『触るな』と何回も言われている。
「⋯⋯見るだけ。見るだけなら大丈夫」
自分にそう言い聞かせてドアを開ける。
薄暗い部屋の中で機材のランプが赤や青にチカチカと点滅していた。
綺麗だ。まるで小さな夜景みたい。
猫の本能が刺激され、瞳孔が開くのがわかる。
「⋯⋯ちょっとだけ、近くで見る」
マシロは忍び足でデスクに近づいた。
そこにはいつも配信に使っているパソコンと、マイクと、カメラがある。
マシロはタナデがいつも座っている椅子によじ登った。
まだジャケットを着たままだから、タナデごっこ気分が抜けていない。
「はい、次の曲はー⋯⋯これです」
マシロはマウスをペシペシと軽く叩いてみた。
画面のスリープが解除され、明るくなる。
「おおー」
画面にはたくさんのアイコンが並んでいる。
マシロは意味もわからずカチカチとマウスをクリックし、キーボードをカタカタと押してみた。
プロっぽい。すごく仕事ができそうな音がする。
「タナデです。今日は重大な発表があります!」
調子に乗ってキーボードの上を指で散歩させていた、その時だった。
ポチッ。
画面の端っこにあった、赤い丸いボタンをうっかりクリックしてしまった。
《ON AIR》
機材のどこかで赤いランプが静かに点灯した。
でも、マシロはそれに気づかなかった。
「⋯⋯あ! さわっちゃだめだった!」
急にタナデの怖い顔が脳裏に浮かんだ。
いけない、いけない。触るなと言われていたんだった。
マシロは慌ててマウスから手を離し、椅子の上で正座した。
何もしてません。マシロはただの置物です。
でも、画面は変わらない。
マシロは手持ち無沙汰になって椅子の上でくるくると回ったり、ジャケットの袖を振り回したりして遊び始めた。
――その頃、ネットの海では大変なことが起きていたことを、マシロは知る由もなかった。
某動画配信サービス――チャンネル『shiro_cat』で突如として配信が開始された。
タイトルなし。サムネイルなし。事前告知なし。
通知を受け取った視聴者たちが「何事か!?」と雪崩れ込む。
映し出されたのは無音の映像。
薄暗い部屋の中、タナデのものと思われる大きすぎる黒ジャケットを着たマシロが、椅子の上で回ったり、カメラに向かって「ガオー」と威嚇ポーズ(無音)を取ったり、袖をぶんぶん振り回して踊ったりしている姿だった。
音声が入っていないため、彼女が何を言っているのかはわからない。
ただひたすらに、ブカブカの服を着た美少女が、一人遊びに興じているだけの映像。
『事故か!?』
『可愛すぎる放送事故www』
『一ノ瀬ママはどうした!?』
『マシロちゃん、それモンタナ先生の服じゃね?』
『彼ジャケならぬママジャケ』
『萌え死ぬ』
『音声ないのが逆にシュールで草』
『これは伝説の無音配信になるな』
同接数はぐんぐん伸びていく。
マシロはそんなこととはつゆ知らず、カメラのレンズに向かって変顔をしたり、プリンの空き容器を頭に乗せてバランスを取ったりしていた。
☆
一時間後――ガチャッ、バン!!
玄関のドアが乱暴に開く音が聞こえた。
ドタドタドタ、という走る足音。
「マシロ!!!」
リビングのドアが勢いよく開け放たれた。
そこには肩で息をするタナデが立っていた。顔色が真っ青だ。
「⋯⋯ただいま」
マシロはソファの上で正座して待っていた。
ジャケットはもうクローゼットに戻してある(ただし、畳み方がわからなかったので丸めて突っ込んだだけだけど)。配信部屋からも当然、退散済みだ。
「タナデおかえり! お留守番、ちゃんと出来た!」
マシロは満面の笑みで出迎えた。
タナデはその場にへたり込み、深く、深ーく息を吐いた。
「⋯⋯ああ、無事で良かったよ」
「うん! マシロ良い子にしてた!」
タナデはよろよろと立ち上がり、マシロの前にしゃがみ込んだ。
そしてマシロの目をじっと見つめた。
「さてマシロ、正直に答えるんだぞ。約束はいくつ守れた?」
「⋯⋯⋯⋯う、うーん」
マシロは指を折って数えた。
火は使ってない。玄関も開けてない。
「⋯⋯2個?」
「そうか。じゃあ、いくつ破った?」
「⋯⋯えっと」
冷蔵庫(一回詐欺)。クローゼット(侵入)。配信機材(接触)。
「⋯⋯たくさん?」
マシロは正直に白状し、シュンと耳を伏せた。
やっぱり、お留守番は難しい。
大人の女への道は険しかった。
「ごめんなさい⋯⋯マシロ、だめな子?」
涙目で見上げるとタナデは大きなため息をついた。
でも、怒ってはいなかった。
タナデの大きな手がマシロの頭にポンと乗せられた。
「⋯⋯まあ火事にならなかっただけマシだ。それに一人で泣かずに二時間待てた。前のマシロだったら私が家を出て五分で泣いてただろう」
「ほんと? マシロ、偉い?」
パッと顔を上げるとタナデは少しだけ笑っていた。
「ああ、偉いよ。⋯⋯ただし」
タナデは懐からスマホを取り出し、画面をマシロに見せた。
「配信機材のカメラには明日からカバーをつけることにする」
「え?」
画面を見てマシロは「みゃっ!?」と変な声を出した。
そこにはブカブカの黒いジャケットを着て、頭にプリンの容器を乗せ、真顔でカメラを見つめているマシロの動画が映っていた。
タイトルは『【事故】マシロちゃんの無音ダンス【かわいい】』
再生回数はすでに百万回を超えていた。
「⋯⋯これ、なに?」
「お前が世界中に発信した、新しい伝説だよ」
タナデは疲れたように笑い、マシロを抱きしめた。
タナデの匂いがする。本物の、温かい匂いだ。
「おかえり、タナデ」
「ああ、ただいま。⋯⋯もう二度と一人で配信機材の近くには寄るなよ」
「⋯⋯はーい」
こうして、マシロの初めての長時間お留守番はネットの歴史に新たな謎と伝説を刻んで幕を閉じた。
ちなみに、丸めて突っ込んだジャケットがシワシワになっていたことで、あとで少しだけ怒られたのは、また別のお話。




