2話 本番台本
タートルネックの上からフィールドコートと言う
そのラフな格好が似合う男は、旅慣れた仕草で羽田のゲートを抜けた。
二十代──だが、どこか軍人とも研究者ともつかない、均整の取れた“無駄のない身体”。
迎えに来る者はいない。
だが彼は、まるで“見えない誰か”へ合図するように、軽く手を振った。
そのまま空港ビルを出て、ためらいもなくタクシー乗り場へ向かう。
乗り込む寸前、都心の方角を一度だけ振り返った。
その男の名は──岩野歩。
かつて、蘭と光一たちの確執の“火種”をつくった男である。
そしてその経歴は、若くして“ドラマ”と呼ぶしかない軌跡だった。
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◆ 少年工科学校から、軍と工学の深淵へ
自衛隊・少年工科学校を卒業し、
福島・いわき高専へ編入。
蘭にとって唯一の友となり、
静かで短い共同生活が続いた。
2011年──震災と原発事故。
世界は音を立てて壊れ、
二人の人生は、まったく別方向へ裂けていった。
岩野が選んだのは“日本の外”だった。
フィリピンの軍事学校で半年修行し、
その軍事ネットワークの縁で辿り着いたのが──
アメリカ南部・クレムソン大学。
いや、彼らの間では別名で呼ばれる。
“East Point”。
理由は単純。
ここは、戦争屋と軍人を大量に輩出してきた
“東部の軍人製造大学”だったからだ。
大学全体のレベルは平均的。
だが──ただ一つ例外があった。
◆ 航空工学科だけは、異常だった。
•航空力学
•戦闘機制御
•振動解析
•流体シミュレーション
•無人兵器のプラットフォーム設計
あらゆる軍事空力技術が異常レベルで集約された、
“軍オタが骨を埋める魔境”。
その環境で、岩野は眠っていた才能を一気に開花させた。
卒業後、彼が招かれたのはハリウッドの表側。
だが本当の任務は、裏側にあった。
ルーカスフィルム・スタジオ。
米軍と共同開発する音響兵器セクション。
映画産業の皮を被った軍事開発チーム。
そこで岩野は、
“音で空間と人間を操作する技術”
“共鳴と波長の本質”
に触れた。
だが、そのキャリアは突然中断される。
帰国せよ──。
その一報を受け取ると、迷いなく荷物をまとめた。
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◆ 帰国。その瞬間、運命が動き出す。
タクシーに手を伸ばした瞬間、
ロータリーに一台のシルバーのランエボ10が滑り込んだ。
助手席の窓が静かに下がる。
味沢岳。
「岩野──いや、No.6。
教授(如月博士)が、お前を待っている。」
岩野は短く頷き、スーツケースを片手で軽々とトランクへ放り込む。
助手席に座ると、ランエボは国道へ滑り出した。
「クレムソン大学……いや、イーストポイントか。
よくあんな“軍人の巣窟”で生き残ったな。」
味沢がぼそりと呟く。
岩野は苦笑した。
「航空工学科は、本物でしたよ。
あそこを出た人間は……皆どこかで“戦場の匂い”を纏っています。」
味沢はゆっくりと首を振った。
「纏ってるだけじゃない。
今、お前自身が“戦場”を引き寄せている。」
その言葉の意味を、岩野は否定しない。
「蘭の“前の時代”を知っているのは……お前だけだ。」
東の空が白み始める。
朝日の光の中で、岩野は静かに言った。
「役者は揃ったみたいですね。
──いよいよ、本番の台本が始まる。」
ラジオから流れる、
バッハ《マタイ受難曲》より
「憐れみたまえ、わが神よ」
が被った。
その声は、帰国者のものではなかった。
戦場に戻った“観察者(No.6)”の声だった。
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◆ 都心の大学病院・最上階会議室
味沢は都心の大学病院で岩野を降ろす。
岩野は軽く礼を言い、ビルの奥へ消えた。
最上階の会議室。
如月猛教授、蜜、フェルディナンド(No.5)が待っていた。
「遅くなりました。」
岩野は一礼して席に着く。
フェルディナンドが微笑んで言う。
「ようこそ、岩野サン。
……御使いのラッパが鳴りました。」
岩野は静かに問い返す。
「間に合いそうですか?」
如月猛教授が、慈愛にも似た表情で口を開く。
「さあ……彼らが“現実”だと思い込んでいるこの世界は、
実のところ、脳が創り出すバーチャルリアリティ。
いわば“人生ゲーム”のようなものです。
我々はただ観察するだけ。
彼らが次の進化を遂げるのか、
退化するのか──それを。」
岩野は苦い顔をした。
「……残酷ですね。
私はルーカススタジオで、この世界の構造を少し知りました。
あまりにも……この世界は悪意に満ちている。」
蜜が静かに目を伏せた。
「そう。そして、それはまもなく臨界点を迎える。
世界は“次の相転移”に入ろうとしている。
その予兆は、すでに至るところで始まっているわ。」
「……これは、タルコフスキー的メタバースだな。」
教授はカーテンをそっと開けた。
会議室の窓越しに、朝日がまぶしく射し込む。
こうして──
観察者 No.6・岩野歩が日本に戻った瞬間、
黙示録の時計は静かに動き始めた。




