8話 ある晴れた日に(改)
新宿・老舗デパート
有線で“いそしぎ”のBGMの流れる
メンズフロアの鏡の前で外す、光一は襟付きのシャツを選んでいた。
白い照明の下、鍛え抜かれた腕と古傷がわずかに覗くたび、
すれ違う客は本能的に距離を取る。
それを見て、後ろのソファでコーヒーを啜る味沢が言った。
「……だから言ったろ。
お前はTシャツを着るな。うちの猫が怖がる。」
「……猫?」
「外の人間もだよ。」
味沢は、ブルックスブラザーズの白いポロカラーシャツを取り上げ、光一に向ける。
「ほら、これ。
誰でも“優等生”に見える仮面だ。
俺も現場で散々試したが、機能性もコスパも最高だ。」
光一が袖を通す。
その瞬間、わずかに“野生”が薄れ、社会の輪郭が重なった。
曲は“オールオブミー”に変わる。
味沢は満足げに頷くと、自分の腕から革バンドのグランドセイコーを外すと光一に
投げてよこす。
Gショックも悪くないが、「牙を隠すには、こういう、主張しないスタイルの方がいい。
お前がヒューゴボスなんか着たら──」
「……着たら?」
「ナチスだ。完全にアウト。」
光一は思わず噴き出す。
味沢の冗談は、ときどき人を殺しかねない。
他にも上品な縁無しの伊達眼鏡、カンペールのスニーカーを買い
会計を済ませ、二人が横断歩道へ向かう。
ちょうどその瞬間──
白いボルボV50 が静かに前を通り過ぎた。
窓の隙間から、
山下達郎「エンドレス・ゲーム」のイントロが微かに流れてくる。
光一は気づかない。
だが運命は、ゆっくりと交差を始めていた。
吉岡蓮は、白いボルボV50の荷室から機材を降ろしていた。
ビデオカメラ、キャンプチェア、簡易照明──
必要最低限の“誠実な仕事道具”。
ボルボV50のサイズはゴルフワゴンとほぼ同じ。
エンジンは2リッター。
同年式のベンツCクラス(W204)と比べると燃費も取り回しも劣り、
都内の細い路地ではむしろベンツのほうが扱いやすい。
それでも吉岡は、この北欧車を気に入っていた。
華美ではなく、主張しない。
必要な分だけ積んで、静かに走る。
「背伸びしない自分」にいちばん近い車だった。
本業は公共テレビ局のAD。
休日は相棒の赤井と動画制作をしている。
最近になって妙に人気が出てきた。
とりわけ、自ら企画した地下格闘技イベント──
「モノノフ」。
あれは“バズる”という言葉では追いつかない。
64名のアウトローが集まり、
パイカルと味沢という“人外”がセキュリティに立ち、
空気が震えるほどの熱気だった。
……だが、その裏側で“余波”が生まれた。
あの日、リングで倒れた男──湯田。
昨夜、その 死亡の報せ が届いた。
準決勝で“松尾ルイ”に倒され、搬送された男。
ただの参加者の一人……のはずだった。
吉岡は胸の奥がわずかに沈んでいくのを感じた。
湯田の死以上に、
吉岡を震わせたのは別の事実だ。
赤井によれば──
湯田を倒した男“松尾ルイ”は、
中学時代の裏番にして東北震災で消息不明になっていた、“あの怪物”・金本光一 らしい。
当時の面影は薄かったが、
“普通の格闘家”でないことは一目で分かった。
吉岡はベージュのタイルの古いマンションのエントランスへ向かう。
新宿御苑・千駄ヶ谷門に面した
70平米・2LDKのマンション。
一月前に越してきたばかりだが──
福島の沿岸部で育った自分には、
こういう“静かな場所”でないと落ち着かないことが、
最近になってようやく分かってきた。
(……光一、どうしてるんだろうな)
6階バルコニーから新宿御苑を眺め、
吉岡はぽつりと呟いた。
そのとき携帯が鳴る。真名美だ。
「ねぇ蓮、久々に昭和歌謡バトルやらない?
あたし今天城越えの気分なんだけど!」
吉岡は吹き出し、澄んだ空を仰ぐ。
遠くで救急車のサイレンが鋭く鳴る。
まるで“何かの前触れ”のように。
「……今日くらいいいだろう。」
赤井にも電話を入れる。
「了解。場所は俺が決める!
シェイクスピアさえ嫉妬する──
俺の表現力を見せてやる!」
いつもの軽薄な声が、今日は妙に頼もしい。
「赤井……まさか、お前、妖怪人間ベムとか歌わないよな?」
ほんの一瞬の沈黙。
「いや……歌うけど?
あのジャージーなベースが堪らんのだよ。」
吉岡は天を仰ぎ、肩を落とした。
シャワーを浴び、
お気に入りのグレーのヘンリーネックに着替え、
赤井にもらったエメラルドのチョーカーをつける。
時計はオメガのシーマスター。
玄関の鍵を閉める前、もう一度だけ空を見上げた。
雲ひとつない初秋の空。
その奥で──
“エンドレス・ゲーム”の歌詞のように、
世界がわずかに軋む気配がした。
12月12日15時9分 加筆しました。




