高い城の男編 プロローグ
成田行きの深夜便。
雲の上。
ビジネスクラス後方のギャレーで、
CAの真理子は、小さく息を吐いた。
機内は静かだった。
長距離便特有の、
乾いた空気。
眠る乗客たち。
青白いフットライト。
低く続くエンジン音。
いつもの帰国便。
——のはずだった。
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ただ、
一人だけ妙に気になる男がいた。
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窓側席。
二十代半ば。
短く刈った銀髪。
くすんだパープルのシャツに、
グレーのジャケット。
その服装と妙にアンバランスな、
ピンクレンズのシューティンググラス。
機内持ち込みは、
使い込まれたレザーボストンだけ。
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顔立ちは、
妙に日本人離れしていた。
CNNのキャスター、
アンダーソン・クーパーを、
若くして東洋人にしたような浅黒い顔。
だが——
そのなめし革の様な肌越しには
東洋人特有の柔らかさが、
ほとんど感じ無い。
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冷たい、
というより。
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硬質。
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最初は、
海外帰りの学生か、
若い実業家か何かだと思った。
だが違う。
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妙に静かすぎる。
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普通、
長距離便の乗客は落ち着かない。
映画を見たり、
酒を頼んだり、
意味もなく姿勢を変えたりする。
だが、
その男はほとんど動かなかった。
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いや——
必要な動きしかしていない。
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若い。
だが、
若い男特有の軽さがまるで無い。
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キョロつかない。
空気を読まない。
愛想笑いもしない。
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周囲を見ていないようで、
全部把握している。
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そんな感じだった。
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飲み物を置く時だけ、
視線がこちらへ向く。
その瞬間だけ、
妙な緊張が走る。
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威圧感ではない。
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“確認された”。
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そんな感覚。
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まるで、
保安検査を受けているのが
こちら側みたいだった。
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同僚の若いCAが、
「あの人、俳優さんかな」と小声で言った。
真理子は曖昧に笑った。
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違う。
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芸能人の空気じゃない。
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もっと危険な何かだ。
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半グレやヤクザのような、
“見せる危険”ではない。
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あれは、
もっと静かなものだ。
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例えば——
軍人。
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あるいは、
処刑人。
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……まさかね。
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だが、
明らかに“絶滅危惧種”の臭いがした。
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昔のフランス映画に出てきたような、
静かで、
美しく、
どうしようもなく危険な男。
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「さあ、先週コンパした軽い商社マンとも違うようね。」
真理子は小さく笑うと、
トレイを片付けた。
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着陸前。
男が初めて、
ウイスキーを頼んだ。
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「何になさいますか?」
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男は、
それまでの無表情が嘘みたいに、
ぱっと笑った。
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ひまわりみたいな、
妙に明るい笑顔。
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「ラフロイグを」
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年不相応に低い声だった。
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真理子は、
ほんの一瞬だけ戸惑う。
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キャラを作っているのか。
それとも、
あれが地なのか。
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判らない。
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だが、
どちらにせよ危険だった。
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気を抜くと、
そのまま引き込まれそうになる。
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真理子は、
グラスを置こうとして、
ほんの一瞬だけ手を止めた。
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男の左手。
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小指の先に、
鉛色のフィンガーキャップを嵌めている。
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指先が欠損しているのか。
それとも、
最初からそういう形なのか。
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一瞬、
判別できなかった。
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細く湾曲した形状。
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まるで、
さそりの尾の毒針みたいだった。
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アクセサリーというより、
もっと実務的で、
もっと危険な何かに見える。
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その指には、
古い傷があった。
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銃か、
刃物か。
どちらにせよ、
普通の学生の手ではない。
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——不思議な男。
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グラスを受け取る時、
男は軽く会釈した。
何を思ったのか、コインをグラスに沈めた。
占いか
だが、
妙に洗練されている。
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真理子は、
昔観た
フランス映画を思い出していた。
確か、さらば友よだったか
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男は真理子に言った。
5枚で、電話してもいいか?
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真理子は頷く。
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男は、笑うと、コインをもう一枚グラスに沈めたl
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数週間後。
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霞ヶ関近くの合同庁舎。
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人事課の面接官、
佐伯は履歴書を見ながら眉を上げた。
高城萬
東工大卒業。
コロンビア大学院修了。
建築。
都市工学。
人間工学。
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語学——英語、ドイツ語。
射撃経験あり。
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妙な経歴だった。
名前を呼ぶ。
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「どうぞ」
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ドアが開く。
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グレーのスーツにサックスブルーのシャツの長身の男が入ってきた瞬間、
部屋の空気が少し変わった。
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ドアを閉める男の左小指の金属製の義指を見た瞬間
佐伯の脳裏に、
ふと奇妙な映像が浮かぶ。
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砂埃。
乾いた熱気。
そして——
M2機関銃を、
無表情で撃ち続ける
目の前の男。
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……まさかな。
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佐伯は、
小さく頭を振って
そのイメージを打ち消した。
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静かだ。
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だが、
妙に圧がある。
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男は、
無駄なく椅子へ座る。
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姿勢が良い。
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キョロつかない。
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面接官特有の、
“こちらが観察する側”
という空気が成立しない。
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……逆だ。
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見られている。
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佐伯は、
妙な感覚を覚えた。
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警察官僚。
自衛官。
外務官僚。
危険なタイプは何人も見てきた。
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だが、
この男は少し違う。
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感情のノイズが薄すぎる。
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敵意も、
緊張も、
野心も、
ほとんど見えない。
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まるで——
既に、
判断が終わっている。
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「志望動機を」
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男は、
一拍置いて答えた。
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「観察です」
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佐伯の眉が、
わずかに動く。
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「……観察?」
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「ええ」
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男は、
淡々と続けた。
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「この国は、
表から見るのと、
内側から見るのでは構造が違う」
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静かな声。
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「それを、
確認したいだけです」
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部屋の空調音だけが響く。
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佐伯は、
なぜか背筋が冷えた。
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その瞬間だった。
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男の視線が、
ほんの一瞬だけ動く。
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窓。
非常口。
警備員。
監視カメラ。
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一秒もない。
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だが、
全部見ている。
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佐伯は直感した。
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——この男は、
何かあった時、
迷わない。
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そして、
そういう人間が一番危険だ。
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男は静かに微笑んだ。
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その顔は、
妙に整っていた。
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だが——
美しすぎる。
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まるで、
捕食者が
人間のふりをしている何かみたいだった。
30分後、ビルから出て来た、男の前に
BMWの白いカブリオレが停まる。
ラジオから流れてきたのは、
妙に古臭いディスコミュージック。
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運転しているのは真理子だった。
男は優雅に会釈し、BMWの助手席に乗り込んだ。
白いBMWのカブリオレが、
霞ヶ関の夜を滑っていく。
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真理子は、
片手でハンドルを握りながら、
オーディオの音量を少し上げた。
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Boney M. の
“Rasputin”。
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“Russia’s greatest love machine”
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真理子は吹き出した。
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「……出来過ぎね」
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「何がだ?」
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萬は、
窓の外を見たまま言う。
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「全部よ。」
真理子は指をピストルのように構えると、
フロントガラスの向こうへ向け、
軽く引き金を引く仕草をした。
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「バーン。」
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萬は、
窓の外を見たまま、
小さく笑った。
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白いBMWは、
夜の国道を静かに流れていく。
ここから、
別作品「高い城の男」
とクロスオーバーします。




