1話 木差子 康生
序
常來夏を信仰している。
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1
「康生、ねえ、こっちっ側の髪、結ってもいーい?」
なんだよ、急に。
「お願いが叶うまで切らないの! よくない? ていうか後ろ髪ウザそうだしさー、あと〜……見た目おもしろそうだし」
……まあ、好きにしてくれればいいよ。
「ふふ……なんだか懐かしいなァ。こうやって康生の髪で遊ぶの。昔もやったよね、ボンドで固めてさ……」
あまり思い出したくない部類の記憶である。
「懐かしいといえば! 食べ歩きもできてないよね。お店の感想、よく話すけど〜、一緒に行きたくてステイ中のとこも、もう五百件くらいあるんだよ〜?」
別に、構わず行ってくれていいんだぜ。
「そんな顔しないでよ〜! ごめんね! ……ま、気長に待つって」
……
「よっ。こんなもんかな。かわいくできた! 三つ編みー」
え。そんなに本格的に編み込んでたの?
「ふふ。んじゃ今日はこんなもんで────また来るね。康生」
……うん、待ってるよ。
2
常來夏を信仰している。
今際の際にこの俺、木差子康生自身の人生を振り返ってみようと思ったのだが、そうするにあたって、これが最も重要な内容なのだ。
何せ俺は十三歳の時分、突然に治る見込みのない病にかかり、それ以来は寝たきり。首から下が動かない。色素が抜け髪は白く、慢性的に全身が痛み意識朦朧。死に損ないだ。当然、手も使えないので、遺書を紙には書けない。喉すらも酷くただれて、遺言は言葉の体をなさない。だからこうして、頭の中に残しているわけだ。
そんな男を七年間も見舞い、学校のこと、私生活のこと、世の中のこと。楽しそうに話してくれる女性こそが幼馴染の常來夏。この病室に足繁く通い続け、伏した俺の前に笑顔を見せ、励ましてくれる……安っぽい言い方になるが、心の支え。彼女の表情と言葉が、暖かな匂いが、この手を握る感触が。布団から出られない俺の世界の、冗談でなくほとんど全てなのだった。
どうしてそこまでしてくれるのか。俺にはわからなかったし、正直、ずっと負い目を感じていた。無償の愛をひたすらに与えるその在り方は、俺には眩しすぎる。
なぜ。享受している当人のセリフとして、酷く罰当たりなのは百も承知で言うが、ちょっとおかしいとすら思う。
だから、感謝と、後ろめたさに隠れて確かに、分かり得ないモノに対する困惑と畏怖があったのだ。それらがいつのまにか混ざり合って、「信仰」へと姿を変えていた。彼女は俺にとって、妖精さんとか、女神様とか、そういう存在に近しいのだ。
長々と語ったが、結局言いたいことは最初と変わらない。彼女、常來夏を信仰している────これに尽きる。
3
だから、常來夏が死んだ後の俺は、本当に脆かった。
崖から海に落ちたという。幼い頃によく遊んだ、景色の良い場所だった。見下ろすと巻貝に似た岩のある、あそこだった。二月七日の夕方。地震により崖が崩れ、防護柵ごと落ちていく姿が、防犯カメラには記録されていたそうだ。
彼女がこの病室に来なくなってしばらく経ち、やってきた彼女の母が、震える声で伝えてくれた。口ではまだ、見つかるかもしれないと言っていたけれど。その声色が、全てを物語っていた。
そして、その事実を伝えてくれた誠意に報いることも出来ないのが俺、木差子康生なのだった。心が揺れても、頭が微かに傾くだけ。哀しくとも、干からびた瞳から涙は流れず。言葉を投げかけたくとも、すきま風のような音を立てる程度。別れ際に握らせてくれた、唯一見つかったという彼女のヘアピン。その感触すら、曖昧にしか感じられない。何も出来ない。本当に、何も出来ないのだ。
そしてそんな俺を、薄皮一枚分だけ人間でいさせてくれた、生きる意味であり、生きる活力であり、生きる喜びである常來夏は、もうこの世にいない。
いよいよなんにもなくなった。
そんな心の有り様が、肉体に直結したのかもしれない。以来、容体はだんだんと悪化していき、彼女の言葉に返していた精一杯の応答すら、もはや奪われてしまった。
近いうち、この、数刻ごとに多少痙攣するだけのクズ肉は、やっと……やっと完全に、動きを止めるだろう。
彼女が今までにかけてくれた、数えきれない慰めを。優しさを。言葉を。時間を。全て無駄にしてきた。そしてそのまま逝くのだろう。
だけどそのことが、親にも彼女にも悪いと思いつつ、存外に辛くないのだった。だって俺は、本当ならとっくに死んでいるのだから。彼女のおかげで、生き永らえていただけなのだから。
お前のいない世界でなんて、今さら生きていても、仕方がない。死んでお前と同じ場所へ行けるなら、それがいい。今までの感謝と、謝罪を、そこでしよう。あの世で、恩返しをさせてほしい。
そんな妄想をふかしているうち、だんだんと眠くなってきた。
「康生、康生!」
「あのね、康生」
「康生。今日はねえ」
うすぼんやりした意識の中で、彼女の声がリフレインしている。もしかしたらこれが、走馬灯というやつなのかもしれない。そう思った。
4
次に目が覚めた時、普段────つまり、病室のベッドとは、全く趣を異とする感触が、俺を包んだ。かさかさと、乾いた布のようなもの。それに、硬く、冷たい、岩肌のようなもの。ともかく、病院のベッドではない。
「はぁっ?」
反射的に、声が出る。
────声が?
今いる場所がどこだ、なんて疑問はふっとび、顔中にくっついている呼吸器の管を、手探りに探そうと、両の腕を上げた。これだって、変な話だ。
手で探る? この俺が?
しかし目の前には、確かに自らの意思で動かせる、両の掌が。そして同時に、頭につけられた異物に気づく。
手に取ってみると髪飾りだった。生前に渡された、大切な人の。その見た目を、初めて知った。銀色で、三角の装飾がついた、シンプルなデザインだった。
半ばパニックにあった頭はとうとう真っ白になり、そして少し固まったあと、乾き切ったはずの両の目から、ぬるい水分が流れ落ちた。頬をなぜて、くすぐったい。
「くっくっくっ。はは、は、は……」
全身の細胞が歓喜しているようだった。それに釣られて、笑みが漏れる。指の先まで痺れるような興奮。身体が異常なく動くという、異常事態。これは、つまり、俺の病気は────
「ははっ、はっはっ、ハハハハハ!!!…………はは……」
ひとしきり笑い、喜び、しかしやはり冷静になるとどうしても、病が綺麗さっぱり治ってしまったのだとは、考えられなかった。七年ものあいだ、回復の兆候すら見せなかったそれが、今さら寝て起きただけで治られては、たまらない。
だからそう、俺の身に何が起きているのかと言えば、こういうことだ。
死んであの世に来た。思い描いた通りに。
「…………ライカ」
そうときたら、やることはひとつしかない。先に来ている、彼女に会いに行くことしか。
天国と地獄に分かたれている可能性は一旦捨てよう。お互い親より早く死んだのだから、昔話になぞらえて考えれば、たぶん同じ場所にいるはずだ。
胸ポケットにヘアピンをそっと入れて、出発を決めた。
まずはこの暗く冷たい岩肌の穴から出て、美しい花畑を見渡そうじゃないか。第一に寒いんだよ。柄のついた、変な病院着みたいな服を着てはいたが、こんなんでこの気温に耐えられるか。せっかく元気になったのに、風邪をひいてしまいそうだ……死後にも健康の心配とは、やってられないぜ。
そういうわけで、よし、前進あるのみと、風が吹いてくる方に向かうが、五体満足になったとはいえ、ずっと身動きしてこなかったぶん、操縦の仕方がおぼつかない。ふらふらと生まれたての子鹿のように頼りない。しかし確かに、軽い足取りであった。
よもやこの後、また死にかけるとはつゆ知らず。
5
何メートルほど歩いただろうか。思ったよりも深い洞らしい。裸足なので、石を踏む痛みや、体温を奪われる感覚がある。そのせいもありずいぶん疲れてきた頃、やっとあかりが見えてきた。「そろそろ外かァ」などとぼやいていたところ、ピシャ、と音がした。水溜まりだ。外は雨かと思って遠くを見ると、大きな、黒い塊を見つけた。まだ暗くてよく分からないが、それはなんとなく、土嚢を思い出させた。
「誰か、いるのかッ……! 助けてくれェッ……!」
苦し紛れ、といった表現が適切だろう、振り絞るような声。それは、てっきりズタ袋か何かと思っていた、その目前の塊から、発せられているのだった。
人だ。
俺は思わず駆け寄ろうとした。あいつがいる時以外、ずっと一人だったというのに、一丁前に心細さというものを感じていたのかもしれない。しかし、それは思うようには運ばなかった。滑って転げてしまったからだ。真水にしては、やけに粘り気のある感触に足を取られて。地面すれすれに顔が近づき、鼻腔を刺した強い鉄の臭いが、それがおびただしい量の……血液であることを、理解させた。
6
もつれながらバタバタと体勢を起こし、声の主へと走る。単に心配しているとか、善意だとか、そういう理由ではなかった。こういう時、純然たる慈悲でもって行動できるのが、敬愛する常來夏だが、俺はそこまで出来た人間ではない。ある種の強迫観念。
自分はあれだけ優しくされたのに、他人にはなにもしないのか?
義務感が、身体を動かしていた。
「……………!!」
血を流し倒れている男のそばまで来て、外から入り込む薄明かりにぼうっと照らされたその様子を見た俺は、思わず息を呑んだ。
全身に刻まれたあまりにも多い切り傷、骨の飛び出た左脚、えぐれて内臓が溢れるわき腹。そこから流れる血。生きていることが不思議なほどの。現実味のないくらいの重症。どうやったらこんな傷がつくんだ。
いや、考えてもどうもならない。大丈夫。聞くべきことくらいは分かっている。
「医者の場所ッ。わかりますか!」
ほんのかすかな希望を追い求めるなら、これはしなくてはならない質問だった。俺に魔法でも使えれば、この場で彼を治せたかもしれないが、そんなのは不可能だし。かといって治療出来る場所へ連れて行こうにも、土地勘がない。近場に病院があるかもしれない。相手が知っている可能性に、賭ける他はなかった。
そしてそれは、この今にも力尽きそうな男も同じだったのだろう。俺がこの近隣の善良な住民で、看病ができる施設へ運んでくれる。そんなご都合主義の展開に、賭ける以外はなかったのだ。
男から力が抜けたのが、目に見えて分かった。手から滑り落ちた斧が、物哀しい音を立てた。
数秒の沈黙の後、彼の唇が、小刻みに震えた。
「……娘が、来年から士官学校でなあ……」
諦めたような、あるいは気持ちを切り替えられず……なんとか耐えているような口調だった。
「だってぇのに……」
彼の顔の筋肉がこわばり、たくさんの深いしわを作る。
「……学費、が……野盗に……く、は、ハァ……う、ゔぁああ……」
「あ……」
思わず声が漏れた。あまりにも残酷じゃないか。知らない人間の、知らない場所で起きた悲劇に、自分で驚くほど、気分が悪くなった。
「全部ッ……全部……ッ!」
吐き出される娘への想い。それを遮って、俺は言った。
「まだ、そいつは、近くに」
「は……あ……?」
目を剥く男に向かって、なおも俺は言葉を重ねた。
「その野盗とかいうのはまだ、近くにいるんですか!? そこらへんほっつき歩いてんだったら、俺が、俺が取り返して、金だって、あなたの娘さんに、届けてやるっ!!」
出来るはずもないことを言った。ガタガタ震えながら。何か言わないと、自分が耐えられなかっただけだ。辛い話をさえぎるついでに良い人ぶったという形だ。しかしそんな、今しがた会ったばかりの信用ならない男に対し、
「は、は、は……」
彼は笑った。どうしようもない戯言に呆れたのか、先ほどのような激しい感情の発露はなかった。
「俺は……テータ、という。家はシャナイ村だ。ずっと……ずっと北にある」
「……!」
「あいつに会ったら、驚くよ。ワカは……村一番の、美人、だからなぁ……」
「それは……楽しみです」
「ああ、ほんと、楽しみだ。どんな大人になるんだろうなぁ。なあ……伝えてくれ。どんな人と、どんな……でも……いいんだ……幸せに、なっ……て…………」
だんだんと体温を失う男の肩を抱き寄せながら、こう思った。
ここが死後の世界だなんて、馬鹿な、そんな筈はない。




