第34話 『天の咢』
――天の咢。それは天と地を結ぶ柱の様に、遥か過去より悠久の時を超え聳え立つ、黒灰色の大々岩山。遠目で観察するも、すぐ近くに存在するかのように錯覚してしまう程に極大なその山を、崇める者は誰一人としていない。
荒削りな麓に立てば、その理由を知る事が出来るだろう。そこに広がる、不用意に山に近づいた生き物達の死屍累々の海を。天に近付き、咢に砕かれたその姿を。
生命に死を与える“何か”。屍を踏み越え山を登り、中腹を超えたあたりで襲いかかる、形容し難い不快な現象。高い音の様にも低い音の様にも取れる強烈な耳鳴りと共に、視界が真っ赤に染まり、ものが見難くなる。
それはその者が持つ命の力、即ち魔力を激しい痛みと共に削り取る。『断界』と呼ばれるその区域は登れば登る程にその現象は歪み混沌とし、坂が崖へと差し掛かる場所へ到達した頃には登山者の魔力は底をつき、地に落とされる。
それでも登り続けようものならば、そこに待っているのは死のみである――
そこまで周知され、何千年と生命を寄せ付けず、恐怖だけを人々に植え付けたこの天の咢に挑む、一人の愚かな少年がいた。
頭からすっぽりと全身を黒い厚手の外套で覆っており、齢は十四、五と言った所。背に身の丈もある大剣を背負い、体中に這わせた締縄から垂れ下がる先に四つの大石を括り付けた、異様な出で立ちの少年だった。
一切の道具を付けず、身一つで崖を登る修験者と呼ばれる者達も存在するが、この少年の様に自ら重荷を増やし、更にはこの危険な山を選ぶ無茶無謀を行う者は居ないだろう。
突風雷雨に晒され、滑らかとなった岩肌に黒い五指を突き立て、命を刈り取る音を意に介さず少年は登り続ける。
不意に大剣が、大石が大きく揺さぶられる。登り始めてから十回目の大突風。少年はより指を深く岩へ食い込ませ止むのを待っていたが、吹き荒れる風の中には礫、と言うには少々大きすぎる、少年の頭程もある幾つもの氷の塊が混じっている。
少年は片腕を岩から引き抜き、飛来した礫へと拳を振るい殴り砕いた。しかし、無理な姿勢が祟ってか、支えとしていた側の指先の岩肌が砕け、少年は宙へと投げ出されてしまう。
目も眩む眼下に広がる荒々しい断崖に、だが少年は微塵も慌てることなく、大剣を手に取り遠ざかる岩山へ切っ先を向ける。
「「【我昇天破斬】」」
剣身より発せられた赤黒く硬質な瘴気は存在を拡大させ、天の咢へと伸びその大きく鋭い力を持って突き刺さる。
「フッ……フッ……ヴッヴヴ……」
落下を防いだ少年は少々荒い息を吐いた。それは疲労からくるものでなく、緊張からくるものでなく、安堵からくるものでも無い。自らが発した特別な力が、少年を食い破り、解き放たれようとしている。
「駄目だリオ。時間切れだ」
剣より聞こえた少女の声。リオと呼ばれた少年は、若干の悔しさを滲ませ、天の咢の頂きを睨みつけた。
澱みの無い殺意が漲る瞳で。
第34話 『天の咢』
深い緑が生い茂げ、高い樹木が周囲を覆い日光を遮っているが、“燐光樹”と呼ばれる木々がぼんやりと発光しており、森の中は仄かに明るい。
舗装と言うほどではないが、張り巡らされた土道がここを住処とする人々がいることを示唆している。その道の一つが続く先は特別区域となっており、一部の者以外は許可無しに立ち入ることは許されない。
幾つもの木が寄り添い合うように成長し一つの大木と見え、その根元の空間が住居として利用されている。ただし、ここに住めるのは選ばれた血筋の者のみ。
今現在ここに寝泊まりしている少女は一時的に借用しているだけであり、しかも余所者であるが、少女は由緒ある血統を持つ竜人族の最高有力者である王、その娘である。
「……………………ぷはっ」
なみなみと充たされた水瓶より頭を抜き、空色の髪から滴り落ちる冷水を、頭を振って払うティア。およそ女性が行うとは考えられない、大雑把な目覚まし方法ではあったが、彼女は旅に出てからほぼ毎日、似たような行為を続けていた。
「ふぅ…………よしっ」
また思考を止めようとする肉体。両頬を数度叩き、それを阻止する。こうでもしなければ彼女は何時まで経っても目覚める事が出来ず、その度し難い怠慢を許さずとティアは意志を強く持った。
起きたらとうに街を出発していた。或いは戦闘が終わっており、気付けばそこは仲間の背だった、などという醜態を再び晒しかねないからだ。
「居眠り姫は卒業かしら? ティア姫様」
「その姫様って呼び方、止めてって言ったじゃないエヴリーヌ」
エヴリーヌと呼ばれた少女はそうだったかしらととぼけつつ、ティアに白い布を被せ髪と肌に残る水気を拭き取ろうとするが、ティアはエヴリーヌの手を軽く払い、乱雑に体を拭き始める。
「いつまでお姫様扱いすんのよ。もうアタシは一冒険者。アスタリスクのティアよ。あれこれ世話を焼こうとするのはやめてちょうだい」
「あなたがそう言っても世間はそう思ってくれないの。いくら竜人族の本質が自由奔放だとしてもね。血筋は一生ついてまわるわ」
「勝手に言ってなさい。誰が何と言おうとアタシはアタシ。あんた達はそうやって理想を押し付け続けてればいいわ。全部無視するから。踏み込んでくるならぶっ飛ばしてやるわ」
胸を張り凛とした声を張るティアに、エヴリーヌはとうとう笑い声を上げた。馬鹿にしているのかとティアが睨みつけるが、そうじゃないわよと否定し、ティアから布を取り上げ腕に抱える。
「あの危なっかしくて強がりでかまってちゃんが、こんなに変わるなんてね。一体何があなたをここまで立派にさせたのかしら。やっぱり……リオスクンドゥム様の影響?」
明らかにからかっていると分かる、エヴリーヌの楽し気な視線にティアは嘆息した。もう何度この手のやり取りをすればいいのか。それ程までにあの少年への好意が滲み出ているのかとティアは問いかけたくなった。
だがそうすれば更なるからかいの種を蒔くことになる。学習した、というより慣れてしまって動揺が無くなったティアはエヴリーヌを無視し、森の暗がりに向かい歩き出す。
エヴリーヌは想像と違う行動を取ったティアに慌て、真正面に回り込んで後ろ歩きをしながらティアの顔を覗き込む。じとりとした目で見つめ返すティアの表情を、エヴリーヌは呆れではなく怒りと勘違いした。
「ねえちょっと、そんなにへそ曲げないでよ。ほら、やっぱり気になるじゃない? 幼いころからの事知ってると、どうしてもその恋の行く末がさ。ね?」
気になるのは理解出来るが、知ったところで何をしようというのか。ティアを赤子の頃より知る、見た目より何倍も年を取っているこの少女、もとい女性は自称魔法学者であり、迸る探究心から里を飛び出し、竜人族の国、岩山険しいドラゴニアまで足を運んだこともある。
身一つでやってきた物珍しい来訪者に竜王ノートも気に入り、竜人の歴史や竜化と言った魔術の仕組みを学ぶエヴリーヌを度々王室へと招いていた。その事もありティアとはそこそこ面識があり、ティアの性格や家庭事情をよく知っていたのである。
そんな風に彼方此方を点々と飛び回り、研究にばかりかまける彼女は男日照りであった。恋と言うには、少し年が高い。
流石に男一人としていないのはどうなのよと一人生物の使命を思い出した彼女であったが、知識ばかりが先行し、運よく出会えた先々の男達は彼女に着いていけず、首を横に振った。
寿命が長いなら婚期も長い。だが焦りばかりが募ってゆく。恋愛に飢えたエヴリーヌを見つめ、ティアは少しだけ反撃することにした。
「……もう老婆心を抱くような年になったの?」
その言葉にぴしりと固まるエヴリーヌをひょいと避け、ティアは再び歩き出す。アタシなんかに構ってないでさっさといい男を見つけたら? そう追撃を加えようかとも思ったが、藪蛇になりかねないわねと、ティアは早歩きでいつもの場所に向かった。
――天の咢が作り出す死の空間が及ぶ範囲は、地の果て海の果てまで続くと言われている。太陽に照らされ伸びる天の咢の影がそれである。
午前は東北東。午後は西南西。死の影は月が顔を出し再び沈んでもその場に残り続け、世界を完全に分断している。
影の掛からない時が黄泉へと誘う力の弱る時。そう考え幾人もの冒険者、探求心に溢れたものが、時にはならず者が向こう側の地を目指し横断しようとしたが、足を踏み入れる前にその体を四散させた。
“カオスウォール”。カオス級の深淵体がそこに存在している……と世間ではうたわれているが、実際その姿を見たものは誰もいない。
世界を跨ぐ程に大きいのか。天の咢が作り出す影の中を高速で飛び回っているのか。はたまた深淵体とは別の存在があるのか。それとも川が高い所から低い所へ流れるように、世界がそういう形をしているのか。
「願わくば、その壁が壁であり続けることを祈ろう。その壁は私達を閉じ込める檻かもしれないが、もしかしたら、向こうの地にある恐ろしいものを通さない為にあるかもしれないからだ――はい、おしまい。エミールが持ってきた本は難しいお話が多いね」
「つまんなーい! ヴァンっ、次これ読んでーー!」
「こっちのほうがいいーー!」
本を手に群がる子供達に尻込みするのは、広場に設けられた切り株の椅子に座り、早朝から朗読を続けさせられていたヴァンであった。
いくら無類の読書好きである彼であっても、子供達が聞き取れる速さを維持し、合間合間矢次に飛び交う子供達の疑問に答えながら、はきはきと喋り続けるのは骨が折れた。
道行く大人達もヴァンの朗読会に足を止め、じっくりと耳を傾ける姿も見られる。
森人族は本の虫である。そのことに間違いはないと、ヴァンは改めてこの“煌霧の森”に住まう森人族達の里を見渡した。
リオ達一行、アスタリスクが旅を始め、二年の月日が経っていた。




