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第41話 深淵の調律と、プロフェッショナルの洗礼

1.四次元の調律チューニング


都内の高級ホテルの最上階。

夜景を見下ろす豪奢なスイートルームの寝室は、濃厚で甘い、そしてひどく危険な香りに満ちていた。


乱れたシーツの上で、神野太陽は荒い息を吐き、シワになったシャツの胸元を大きくはだけさせていた。

彼の胸の上に跨るようにして座っているのは、純白のドレスを身に纏った世界的ピアニスト、葛城美音かつらぎみおんだ。


「力みすぎよ、太陽。

もっと私に、あなたの全部を委ねなさい」


美音の冷たく滑らかな指先が、太陽の熱を持った胸板をなぞり、その奥底にあるEgo Cube『テッセラクト(四次元超立方体)』へと直接、目に見えない波形の指を突き入れていく。


「……ッ! あ、ぁぁッ……!」


太陽の口から、普段の冷静な彼からは想像もつかないような、苦悶と快感が入り混じった切実な声が漏れる。


肉体的な交わりではない。

だが、それは単なるセックスよりも遥かに生々しく、魂の最も柔らかい部分を直接愛撫されるような、恐ろしいほどの快楽を伴う儀式だった。


太陽の持つ『テッセラクト』は、正の自己一致(愛と希望)と、負の自己一致(システムへの絶望と怒り)の両極端に100パーセント完全一致してしまったことで生まれた、特異な器だ。

その強大すぎる矛盾の質量は、定期的に葛城姉妹の放つ芸術の波形によって「調律チューニング」を行わなければ、自重で崩壊してしまう危険性を孕んでいた。


「……あなたの器、少し歪んでるわよ。

あの若い二人の純粋な熱にあてられて、あなた自身の『負の感情』が置いてけぼりになっていたんじゃない?」


美音は、太陽の耳元に顔を寄せ、その形の良い耳たぶを甘く噛みながら囁いた。


「人間は、綺麗な愛だけじゃ生きていけないの。

世界に対するドロドロとした憎悪も、嫉妬も、全部あなたを形作る大切な『泥水』でしょ……?」


美音の放つ『かなで』の波形が、太陽の器の中に溜まっていた負の感情を心地よく掻き回し、正の感情とのバランスを強制的に整えていく。


「……はぁっ、美音……っ、まだか……」


太陽の背中が大きく反り返り、シーツを固く握りしめる。

頭の芯が真っ白に焼き切れそうなほどの絶頂感の中で、彼の四次元の器は、再び完璧な均衡を取り戻していった。



2.方程式の死角


「……はぁ、はぁ……」


調律が終わり、ベッドに倒れ込んだまま荒い呼吸を繰り返す太陽の隣に、美音が艶やかな所作で寝転び、彼の胸に頬をすり寄せた。


「お疲れ様。

相変わらず、極上の波形をしてるわね、太陽」


「……君たちの調律チューニングは、毎回、命を削られている気分だよ」


太陽は、額に浮かんだ汗を手の甲で拭いながら、苦笑交じりに呟いた。


「でも、これがないとあなたは壊れてしまう。

……そうでしょう?」


美音は、太陽のシャツのボタンを指で弄りながら、悪戯っぽく微笑んだ。


「ねえ。

食事の時にあなたが言っていた『方程式』の話。

……行動と、誰かへの想いを掛け合わせて、自己一致の定数(C)で安定させるっていう、あれ」


太陽は、呼吸を整えながら静かに頷いた。


「ああ。

風見さんと御影くんは、自分自身の欲求を肯定することで、あの凄まじいプレッシャーの中で自己一致の概念を認識したよ」


「ええ、とても美しい理論だわ。

……でも、一つ致命的な矛盾(死角)があるわね」


美音の言葉に、太陽の眉がピクリと動いた。


「あの二人は、確かに一時的に『自己一致』を果たして、爆発的なエネルギーを生み出した。

でもね、人間の感情って、生モノみたいなものでしょう?

時間が経てば、必ずノイズが混じる。……特に、強大な質量を持っている人ほど(マイナスの自己一致)が少しでも暴走すれば、その重力は彼ら自身の器を簡単に押し潰してしまう」


美音は、太陽の瞳を真っ直ぐに見つめた。


「あなただって、こうして私の『調律』がなければ、テッセラクトの矛盾に耐えきれずに自壊してしまうでしょ?

あなたの方程式には、増え続ける負の質量を逃がし、器をメンテナンスするための『調律の変数』が組み込まれていないわ」


太陽は、ハッとして目を見開いた。


(……美音の言う通りだ)


アスリートたちが競技の中で生み出すエネルギーは常人のそれよりも遥かに大きい、純粋であればあるほど、その裏側に強烈な「影(負の質量)」を生み出す。

プロの世界に進めば、その重力は学生時代の比ではない。

彼らが自壊せずに進み続けるためには、自分の意志だけで自己一致を保つだけでなく、歪んだ波形を外部から整える「調律」の概念を方程式に組み込まなければならないのだ。


「……痛いところを突かれたよ。

君たちアーティストの視点はいつも、僕の理論の甘さを容赦なく暴き出してくれる」


太陽が自嘲気味に微笑むと、美音は満足そうに彼の唇に軽いキスを被せた。


「ふふっ。

だから私たちが、あの可愛いサッカー部の男の子に、プロの世界の厳しさを少しだけ教えてあげているのよ」



3.プロフェッショナルの洗礼


同じ頃。

太陽たちの部屋の真下にある別のスイートルームでは、御影瞬が、ソファの上で滝のような汗を流しながら荒い息を吐いていた。


「……ハァッ……ッ、ハァッ……!」


瞬の目の前で、漆黒のドレスを着た葛城奏音かつらぎかおんが、優雅にヴァイオリンの弓を下ろしたところだった。


「どう?瞬くん。

これが、私たちアーティストが世界を熱狂させるために使っている『波形』の力よ」


奏音は、クスクスと笑いながら、身動き一つとれない瞬の顔を覗き込んだ。

肉体には指一本触れられていない。

だが、奏音の奏でた旋律は、瞬のEgo Cubeに直接侵入し、彼の中に眠っていた「嫉妬」「恐怖」「野心」といったドロドロした感情を強制的に引きずり出し、快楽と共に掻き回したのだ。


「……てめえ、俺に……何を……ッ」


瞬は、全身の筋肉が痺れ、立ち上がることすらできなかった。

凛との交わりで満たされているはずの彼のエゴが、たった数分の調律で、これほどまでに脆く、そして果てしない飢餓感に襲われるとは思いもしなかった。


「太陽くんから聞いたでしょ?

彼も、あの完璧な器を保つために、定期的に私たちの『調律』を受けているのよ」


奏音は、ヴァイオリンをケースにしまいながら、冷たく、そして圧倒的な現実を突きつけるように言った。


「瞬くん。

あなた、プロのサッカーチームからオファーが来ているそうね」


「……それが、どうした」


「学生のお遊戯はここまでよ。

プロの世界は、純粋な努力や、恋人への愛だけで生き残れるほど甘い場所じゃないわ。

……スポンサーの思惑、メディアの悪意、莫大なお金、そしてチームメイト同士の醜い蹴落とし合い。

世界中から向けられる『マイナスの自己一致(重力)』が渦巻く、泥沼の戦場なの」


奏音の言葉は、インカレで優勝し、万能感に包まれていた瞬の心を、容赦なく現実に引き戻した。


「そんな重力の中で、あなたが凛ちゃんを守り、自分のエゴを貫き通すためには……綺麗な自己一致だけじゃダメ。

自分の中にある『泥水(負の感情)』を完全に飼い慣らし、時には外部からの『調律』を受け入れて器をメンテナンスする狡猾さが必要なのよ」


奏音は、瞬の耳元で甘く囁いた。


「……私たちの調律の必要性、少しは分かってくれたかしら?」


瞬は、ギリッと奥歯を噛み締めた。

反発したい。

だが、奏音の言うことは、反論の余地がないほどに真実を突いていた。

自分はこれから、桁違いの重力が渦巻くプロの世界へ行く。

凛との愛(絶対定数)を守り抜くためには、ただの純粋な若者らしさだけでは先が見えなかった。

この圧倒的なノイズを支配し、時には悪魔の力すらも利用して生き残る、本物の「プロフェッショナル」にならなければならないのだ。


(……上等だ。

俺のエゴがぶっ壊れるか、世界を支配するか……試してやるよ)


瞬のEgo Cubeに、かつての孤立のトゲとは違う、底知れぬ野心と、深淵を覗き込むような鋭い光が宿った。



4.商業主義の足音と、スプリンターの迷い


それから数日が過ぎた。

インカレでの瞬の活躍と、凛の日本記録更新のニュースは、大学スポーツの枠を超えて世間を大きく賑わせていた。

特に、陸上女子100メートルで日本記録を叩き出した風見凛の元には、複数の企業から高額なスポンサー契約や、実業団からのオファーが殺到していた。


「風見。

この『ゼニス・シューズ』のオファー、破格だぞ。

彼らのブランドの看板を背負って走れば、オリンピックまでの活動資金は完全に保証される」


陸上部の監督が、興奮気味に分厚い契約書の束を凛の前に積んだ。


「お前はもう、ただの学生じゃない。

日本の陸上界を背負うプロのアスリートになるんだ。

……よく考えて、返事をしなさい」


「……はい。

ありがとうございます」


凛は、契約書の束を見つめながら、静かに頷いた。

部活が終わり、キャンパスを歩く凛の足取りは、どこか重かった。

瞬とは、インカレが終わってからも、互いの部屋で狂おしいほどに身体を重ね、愛を確かめ合っている。

だが、最近の瞬は、どこか変わった。

彼が時折見せる、底知れぬ深淵を覗き込むような暗い瞳。

プロの世界を見据え、自分の内なる『泥水』をより強大なエネルギーへと変換しようとする、凄まじいほどの野心と集中力。

彼がどんどん遠くの、高い次元へと昇っていくような気がして、凛の心の中に焦りと不安のノイズが広がり始めていた。


(私は……誰のために、走るの?)


凛は、立ち止まって自分の手のひらを見つめた。

太陽のコンサルティングを受け、瞬への『愛と欲求』を推進力にすることで、彼女は日本記録を出した。

だが、もしこの契約書にサインをして、企業のロゴを背負って走ることになったら。


『私たちのブランドのために走ってくれ』という、莫大なお金と商業主義の重力が、再び彼女のEgo Cubeにのしかかってくる。


純粋だった「彼に見せつけたい」という原初の衝動が、プロの世界のルール(ノイズ)によって、また濁って、見えなくなってしまうのではないか。

その恐怖が、凛の足を『特別キャリア支援室』へと向かわせていた。


「……神野さん、いらっしゃいますか」


ノックをしてドアを開けると、そこには、いつものようにコーヒーを淹れる太陽の姿があった。


「いらっしゃい、風見さん。

……なんだか、ずいぶんと重い波形を引きずっているね」


太陽は、一目見ただけで凛の抱える迷いを正確に読み取り、温かいハーブティーを勧めた。

凛は、スポンサー契約の話と、プロの世界へ進むことへの恐怖を、太陽にポツリポツリと打ち明けた。


「私……瞬みたいに、野心が強くないんです。

彼みたいに、周りのノイズを全部自分の力に変えて、プロの世界で生きていく自信が……ないんです。

もし、また誰かの期待に押し潰されて、走れなくなってしまったら……」


凛の瞳から、不安の涙が溢れそうになる。

インカレのトラックで見せた、あの絶対的な女王の姿はそこにはなかった。

一人の、未来に怯える十九歳の少女がいた。


太陽は、静かにグラスを見つめた。

美音が指摘した『方程式の死角』。

絶対定数(自己一致)を保つためには、外部からの容赦ない重力(商業主義)とどう向き合うかという、新たなベクトルを彼女に示さなければならない。


「……風見さん。

君のその迷いは、僕の理論だけでは解決できないかもしれない」


太陽は、静かに立ち上がった。


「君の『走る本能』を、プロの世界のルール(商業主義)の中でどう生かすべきか。

……それを知るためには、やはりあの人の助言が必要だ」



5.学者への相談と、新たなる問い


数十分後。

太陽は凛を連れて、ツタの絡まる古い校舎の地下にある、スポーツ人類学の三枝岳教授の研究室を訪れていた。


「……なるほど。

スポンサー契約ねぇ。

そりゃあ、お前さんみたいな見栄えのいい天才スプリンターなら、企業がヨダレを垂らして群がってくるだろうよ」


三枝教授は、無精髭を撫でながら、忌々しそうに鼻を鳴らした。


「教授。

彼女は、企業のお金や期待という『後付けのルール』に、自らの純粋な『原初の衝動』が飲み込まれてしまうことを恐れています」


太陽が説明すると、三枝は立ち上がり、壁際に無造作に置かれていた古代の槍を手に取った。


「風見。

……お前、自分がプロになるってことを、どういうことだと勘違いしてる?」


三枝の鋭い眼光が、凛を射抜く。


「企業のロゴを背負って、彼らのために走る?

金をもらって、期待に応える?

……馬鹿野郎。

もしお前がそんなふうに自分の『原初の衝動』を企業に売り渡すなら、お前はただの、よく走る『見世物の競走馬』に成り下がるだけだ」


三枝の厳しい言葉に、凛はビクッと肩を震わせた。


「いいか。

古代の闘技場コロッセオで、観客を熱狂させた本物の剣闘士たちは、観客のために戦ったわけじゃない。

……彼らは、自分自身の生命を燃やし尽くすその姿で、観客という群衆を『支配』し、『捕食』していたんだ」


三枝は、槍の穂先を凛の足元に突き立てた。


「商業主義だの、スポンサーだのといった『現代のルール』を恐れるな。

それすらも利用しろ。

お前のその女としての魅力も、圧倒的なスピードも……すべては、お前のエゴを満たすための武器だ。

企業に飼われるんじゃない。

お前が、その金と期待をエサにして、世界中の観客を喰い尽くす『本物のプロ(捕食者)』になる覚悟があるかどうかだ」


三枝の言葉は、荒々しく、しかしスポーツという文化の真髄を突く、圧倒的な真理だった。

太陽は、三枝の言葉を聞きながら、胸の内でEgo Cubeを静かに回転させた。


(……負の質量(プレッシャーや商業主義)を恐れるのではなく、それすらも自らの器を拡張するための『エサ』として喰らう。

……それが、プロの世界で自己一致を保ち続けるための、もう一つの解答か)


凛は、突き立てられた槍を見つめ、ギュッと両手を握りしめた。

彼女の瞳の中で、迷いの霧が晴れ、再びアスリートとしての、そして一人の女としての強烈な『熱』が灯り始める。


「……喰い尽くす。

私が、プロの世界を……」


凛の小さな呟きが、地下の研究室に静かに響いた。

若き二人のアスリートは、それぞれのやり方で、純粋な競技の世界から、より過酷で巨大な重力が渦巻く「プロフェッショナルの深淵」へと、その足を踏み入れようとしていた。

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