第39話 焦燥の夜と、交わる絶対熱
1.フラッシュの檻と、届かない距離
「風見選手!
日本記録更新、おめでとうございます!」
「最後は完全に他の選手を置き去りにしましたが、あの時どんなことを考えていたんですか!」
「日本女子初の10秒台ということになりますが、オリンピック代表候補への意気込みを一言お願いします!」
インカレの女子100メートル決勝が終わってから数時間。
すっかり日が落ちたスタジアムのバックヤードで、風見凛は無数のカメラのフラッシュとマイクの群れに取り囲まれていた。
世紀の日本記録更新。
メディアがこの「美しき天才スプリンターの復活劇」に群がらないはずがなかった。
陸上部の監督や大学の広報担当者が必死に整理をしているが、取材の波は一向に引く気配がない。
「……ありがとうございます。
でも、まだ実感が湧かなくて。
ただ、自分の限界を超えたいという一心で走りました」
凛は、カメラに向かって優等生としての模範的な笑みを浮かべ、当たり障りのないコメントを返していた。
だが、彼女のウィンドブレーカーの下にある身体は、トラックを走り終えた直後からずっと、異常なほどの「熱」を帯びたままだった。
(……早く、ここから抜け出して瞬のところに行きたい)
フラッシュの光が鬱陶しい。
マイクを向けてくる大人たちの声が、ひどく遠くのノイズに聞こえる。
凛の頭の中は、今この瞬間も、たった一人の男のことで埋め尽くされていた。
ゴールした直後、スタンドで視線を交わした御影瞬。
『俺の目が、絶対にお前を逃がさねえ』
『覚悟しとけよ。
お前の熱、俺が全部独り占めしてやるからな』
あの野獣のような瞳と、熱を帯びた声のバイブレーションが、凛の身体の奥底をジリジリと甘く焦がし続けている。
走ることで爆発させたはずのエネルギーは、瞬という強大な質量(引力)によって再び彼女の内側で凄まじい勢いで渦を巻き、行き場を求めて暴れ回っていた。
(瞬……どこにいるの。
私、今すぐあなたに……)
凛が人垣の隙間から周囲を見回すと、少し離れた関係者通路の入り口に、スポーツバッグを肩にかけた瞬が立っているのが見えた。
彼もまた、午後の試合で見事な逆転勝利を収め、決勝へと駒を進めている。
瞬は、苛立たしげに舌打ちをしながら、メディアに囲まれている凛をギラギラとした闘争心剥き出しの目で睨みつけていた。
(……ッ)
視線が絡み合った瞬間、凛の背筋にゾクッとするような快感が走る。
今すぐこの群れをかき分けて、彼の胸の中に飛び込んでしまいたい。
だが、瞬がこちらへ向かって一歩踏み出そうとした時、大学の役員が彼を制止し、強引に別の通路へと連れて行ってしまった。
「御影くん!
君も明後日の決勝に向けての囲み取材があるんだ、早く来なさい!」
「……っ、離せよ!」
瞬の怒声が遠ざかっていく。
物理的な距離はほんの数メートルだったはずなのに、二人を取り巻く『社会という名のルール』が、彼らの間に分厚い壁を作っていた。
互いを強烈に求め合っているのに、触れることすら許されないもどかしさ。
それが、若きアスリートたちの内にある「生々しい欲求」を、さらに危険な温度へと引き上げていく。
2.興行師の甘い罠
「随分と、熱い身体を持て余しているみたいね」
ようやくメディアの取材から解放され、一人で女子控室に戻った凛は、暗がりの部屋の中でふいに声をかけられて肩をビクッと震わせた。
控室に入ってきた声の主は、葛城美音だった。
「葛城、美音さん……どうしてここに」
「おめでとう、凛ちゃん。あなた、本当に最高だったわ。
トラックを走るあの姿……スタジアム中の視線を釘付けにして、でも、あなたの気持ちはたった一人の男にしか向いてなかったでしょ」
美音は立ち上がり、凛の首筋にそっと触れた。
「……熱い。
まだ全然、火が消えてないじゃない」
「……っ」
凛は、美音の冷たい指先に触れられ、たまらず甘い吐息を漏らした。
「美音さんの言う通りにしました。
私……彼に見せつけたくて、自分の中にあるドロドロしたものを全部、走る力に変えたんです。
……でも、走っても走っても、この熱が収まらなくて。むしろ、どんどん彼が欲しくなって……おかしくなりそうなんです」
「当たり前よ。女の本能の蓋を開けたんだもの。
走ったくらいじゃ満たされないわ」
美音は、フフッと艶やかに笑い、凛の手に一枚の黒いプラスチックカードを握らせた。
「スタジアムの近くにある、外資系ホテルのスイートルームのカードキーよ。
私が取っておいたの」
「え……?」
「もう、理屈も我慢もいらないわ。
今夜は、あなたのその綺麗で生々しい熱を、余すところなく彼にぶつけなさい」
美音は、凛の耳元で蠱惑的に囁き、暗闇へと溶けるように消えていった。
同じ頃。
男子ロッカールームの裏口で、苛立ちに任せて壁を蹴り上げていた御影瞬の耳元にも、ヴァイオリンの弦を弾くような美しい声が降ってきた。
「可哀想ね。
一番欲しいご褒美が、お預けになっちゃったわね」
葛城奏音だった。
彼女は、瞬の首元に顔を近づけ、クスクスと意地悪に笑った。
「あの子、日本記録なんて出しちゃって、今夜は色んな大人たちに囲まれてチヤホヤされているわ。
……あなたが早く奪いに行かないと、あの子のあの熱い身体、どこかの誰かに食べられちゃうかもしれないわよ?」
「……んなこと、あいつがするわけねえだろ」
瞬は、ギリッと奥歯を鳴らし、奏音を鋭く睨みつけた。
「どこに行けばいい。
あいつはどこにいる」
「いい目ね。
男はそうやって、牙を剥いて奪いにくるのが一番セクシーよ。
本当は私が相手をしてあげたいけど……」
奏音は、瞬を誘惑しながら、ジャージのポケットにホテルの部屋番号が書かれたメモを滑り込ませた。
「さあ、行ってらっしゃい。
……今夜は、あなたたちの欲求を相手にどこまでさらけ出して狂えるのか、見せてもらうわ」
太陽が説いた「自己一致の絶対定数」。
だが葛城姉妹は、その定数をさらに極限のベクトルへと煽り立てる。
スポーツという枠組みを超え、男女の原始的な交わりの場へと、二人を意図的に導いたのだ。
3.密室の衝突
夜9時を回った頃。
スタジアムに隣接する高級ホテル。
夜景が一望できる豪奢なスイートルームのドアが、乱暴な音を立てて開かれた。
「……ハァッ、ハァッ……」
息を切らして部屋に飛び込んできた瞬は、薄暗い間接照明に照らされたキングサイズのベッドの脇に、一つの人影を見つけた。
シャワーを浴びた後なのか、大学のジャージを脱ぎ、備え付けの白いバスローブだけを身に纏った風見凛だった。
濡れた髪から、水滴が艶めかしい鎖骨へと滑り落ちている。
「……凛」
「……瞬。遅いよ」
二人の視線が交差した瞬間、部屋の空気がバチッとショートしたように弾けた。
取材の囲みや関係者の目という『重力』が完全に遮断された密室。
そこにあるのは、互いを極限まで求め合い、焦らされ続けて限界を超えた、純度100パーセントの「欲求」だけだった。
瞬はスポーツバッグを床に放り投げると、ベッドの脇に立つ凛に向かって真っ直ぐに歩み寄った。
「……っ!」
ボスッ!!と、
柔らかい音を立てて、瞬が凛の身体をベッドのマットレスへと激しく押し倒す。
言葉など、一切必要なかった。
瞬の荒々しい手が、凛の後頭部を掴み、そのまま貪るように唇を塞いだ。
「んっ……ぁ、んんっ……!」
それは、キスの範疇を超えた、互いのエゴとエゴの喰い合いだった。
瞬の熱い舌が、凛の口内を荒々しく侵犯し、彼女が日中トラックの上で見せつけた「熱」を全て吸い尽くそうと深く絡みつく。
凛もまた、押し倒された体勢のまま、瞬の広い背中に両腕を回し、彼のジャージを破らんばかりの強さで握りしめて、そのキスに激しく応えた。
「……ハァッ、お前……
今日の昼間、みんなの前であんなエロい顔しやがって……!」
瞬は、わずかに唇を離し、荒い息を吐きながら凛を睨み下ろした。
その瞳は、嫉妬と独占欲で真っ黒に濁りながらも、ゾクッとするほどの男の色気を放っていた。
「お前の走る姿見て、俺がどれだけ……今すぐお前を抱きたい、俺のモンだって言いたかったか……分かってんのか?」
「分かってる……だから私、瞬のためだけに走ったの……っ」
凛は、熱で潤んだ瞳で彼を見上げ、自らのバスローブの胸元をはだけさせた。
スポーツブラの跡が微かに残る、アスリートとして無駄なく鍛え上げられた、しかし女性らしい柔らかな丸みを帯びた胸の谷間が露わになる。
「ねえ……私の全部、瞬が独り占めしてよ。
……私を、壊れるくらい抱いて」
その切実で生々しい誘惑が、瞬の理性を完全に吹き飛ばした。
「……言われなくても、一晩中お前の身体に……俺のエゴを叩き込んでやるよ」
4.交わる絶対熱
瞬は、自分のジャージとTシャツを乱暴に脱ぎ捨てた。
汗の匂いと、若きアスリートの強靭な筋肉の隆起。
彼は再び凛に覆い被さると、彼女の首筋、鎖骨、そして胸元へと、まるで自分の所有印を刻み込むように、熱く激しいキスを落としていった。
「ああっ……!
瞬、……はぁっ……」
凛の口から、自分でも信じられないほど甘く、だらしない声が漏れる。
瞬の大きな手が、凛の引き締まった腹筋を撫で下ろし、バスローブの帯を解いて彼女の身体を完全に露わにする。
アスリート同士の、嘘のない肉体のぶつかり合い。
それは、太陽が語った『自己一致率(C)』の絶対的な同調の儀式だった。
「……綺麗だ。
お前、本当にエロい身体してんな」
瞬は、凛の身体の隅々まで熱を帯びた視線で舐め回しながら、彼女の太ももの間に自らの膝を割り込ませた。
「他の奴らに見せたくねえ……俺以外、誰も触らせるな」
強烈な嫉妬と愛情の質量(P)が、物理的な重力となって凛の身体をベッドへと沈み込ませる。
凛は、瞬の広い肩に爪を立て、自らの腰を浮き上がらせるようにして彼を受け入れた。
「んっ……あぁぁッ……!!」
「……くッ……凛……!」
繋がった瞬間、二人のEgo Cubeが、量子力学における「量子もつれ(Quantum Entanglement)」のように完全に同期し、激しい火花を散らした。
痛いほどの熱量と、頭の芯が真っ白になるような快感。
インカレのスタジアムで放出されたエネルギーとは比べ物にならないほど、濃密で、原始的で、暴力的なまでの愛の波形。
「……はぁっ、瞬っ、もっと……もっと抱いて……!」
「お前……スゲェな……中がうねって……ッ」
アスリート特有の強靭な体幹とスタミナが、二人の交わりをより激しく、野性的なものにしていく。
瞬が腰を強く打ち付けるたびに、凛の身体がシーツの上で跳ね、互いの汗が混じり合って夜の闇に艶やかな匂いを放つ。
「好き……瞬、好き……私だけ見て」
「……俺もだ。
お前は俺のモンだ、凛……!」
スポーツのルールの下で「競技」へと昇華されていた彼らの闘争本能が、今はただ純粋な「男と女」としての欲求に還元され、互いの存在を貪り合っている。
太陽は「ドロドロとした泥水(欲求)を肯定しろ」と言った。
今、二人がこのベッドの上でぶつけ合っているのは、まさしくその「泥水」の極致だ。
だが、互いをこれほどまでに求め合い、互いのエゴを完全に受け入れ合うその姿は、決して汚いものではなく、神々しいほどに美しく、純粋な生命の輝きを放っていた。
「……凛、いくぞ……ッ!」
「あ……ダメ、私、もう……ッ、
ああぁっ!!」
互いの波形が臨界点に達し、巨大なエネルギーが二人の周囲に満ちる。
凛の身体が弓なりに反り返り、瞬の背中に回した腕に限界まで力が入る。
二人は同時に、意識の底が抜け落ちるような絶頂の波に飲み込まれ、荒い呼吸と共に深く、重く、ベッドへと沈み込んでいった。
5.夜明けの余韻と、方程式の完成
窓の外の空が、微かに白み始めていた。
シーツの海の中で、凛は瞬の腕枕に抱かれ、彼の胸板に頬を擦り寄せていた。
一晩中、何度も本能の赴くままに互いを求め合った二人の身体は、心地よい疲労感と、絶対的な充足感に満ちている。
「……起きてたのか」
瞬が、掠れた低い声で囁き、凛の汗ばんだ前髪を優しく撫でた。
その声には、日中の「孤立の王様」のトゲは完全に消え失せ、愛する女を満たした男の、深い余裕と優しさが宿っていた。
「うん……。
瞬の心臓の音、聞いてた」
凛は、瞬の胸にそっとキスを落とした。
「ねえ、瞬。
……私、もう何も怖くない。
神野さんが言ってた『方程式』の意味、今なら分かる気がする」
「……方程式?」
「うん。
行動と、想い(誰か)。
……それが完全に一致した時、人間はどんな重力も跳ね返せるんだって」
凛は、瞬の大きな手と自分の手を重ね合わせ、指を絡ませた。
「私にとっての『誰か』は、瞬だよ。
……あなたが私を見ていてくれる限り、私はどこまでも速く走れる。
自分のドロドロした欲求も、全部、あなたを愛するためのエネルギーに変わるから」
その真っ直ぐで、混じり気のない愛の言葉に、瞬の胸の奥にあるEgo Cubeが、温かく、そして力強く脈打った。
「……ああ。
俺にとっても、お前が『誰か』だ」
瞬は、凛の額に口づけをして、彼女の身体をさらに強く抱き寄せた。
「明日の決勝戦。
……俺がどんなパスを出して空間を支配するか、特等席で見とけよ。
……お前がくれたこの熱、全部チームの奴らに託して、最高の結果を出してやる」
スポーツ(競技)という闘技場で互いの才能を輝かせ、密室のベッドの上で互いの魂と肉体を完全に融合させた二人。
神野太陽が導き出した『キャリア理論の方程式』
E = ( A × P ) × C2乗
エネルギー = ( なにか × 誰か )× 自己一致率の2乗
それは、葛城姉妹の強烈なノイズすらも凌駕し、若きアスリートたちの愛と本能によって、この夜、完璧な絶対値として現実世界に定着したのだ。
二人は、差し込んでくる朝日の光の中で、互いの体温を確かめ合うように、再び何度も身体を重ね続けた。




