エピローグ
夜の間だけは、あの"鐘"はやはり姿を見せている。
帝国の兵器なのだから、"鐘"の凶音が帝国領内に害を及ぼすことはない。それが分かっていても、シトラは平静ではいられなかった。
それでも外に出てきたのは、したいことがあるからだった。
海岸近くの高台には、柵で囲まれた一区画がある。シトラはそこを訪れていた。
何枚も重ねた外套を、樹に引っ掛けないように注意する。
少しの間、立ち止まっていた。だが、再び歩き出す。
故人の墓を定期的に訪れるという習俗は、シトラには馴染みの薄いものではあった。しかし、そういうことをする気持ちは、シトラにもよく分かる。今となっては。
そして、自分もそれをしたいと思ったのだ。自分のためと、そしてなにより、故人が望むことでもあろうから。
ほどなく、目的の石碑を見つける。シトラは何度となく通った小道を、足音も感じないほど静かに歩んだ。
石碑にもまた、数え切れないくらい口にした名前が刻まれている。
『アス一等空士 没』
荷物を置いてから、シトラはアスの墓の前にしゃがみこんだ。布で石碑の汚れをふき取る。
(まだ、こんなに寒いままなのね。あなたは、外に出るなと言ってくれたけど……)
心の中で、シトラはアスに話しかけた。語りかけるように、石碑をじっと見つめる。
アスは結局、病院で撃墜されたときの傷が原因で亡くなった。二人がシトラの故郷にたどり着いてから、まもなくのことだった。
ここにくれば、あの安らかな気持ちを思い出すことができる。アスが生きていたときに、シトラにくれた物だった。だからシトラは、ここに通うのを止めなかった。
「あのね。ちょっとニュースがあるの――」
途端に、耳の先を切り取られるような痛みが走った。あまりにも厳しい寒風が、冬中吹き続けている。今も、その風は盛んに吹いていた。薄暗い墓地のなかで、風は表土をえぐり取っては去っていく。枯葉が幾重にも舞い散り、うち数枚がシトラの体を擦過した。
しゃがんだまま、シトラは自分の体を外套ごと抱いた。そうして、寒さに耐えればよかった。卵のように、蕾のように。
「わたしたちがいた居住区は、もうなくなってしまったんだって」
あまりに風の勢いが激しく、シトラは目を半分閉じた。睫毛を通して、石碑への視線を送り続ける。まだ、話すことは終わりはしない。
「二十年前の、わたしの故郷と同じで……"鐘"が、あの居住区を滅ぼしてしまったのだって」
風に圧迫され、シトラは体の均衡を失した。後ろに傾き、尻餅をつく。荷物が飛ばないように抑えつつ、シトラは言葉を紡ぐ。
体と違って、心は幾分の揺らぎもなかった。
「戦争が終わったら、また行けたかもしれないのにね」
激しい風にかき消されないよう、シトラはささやき続ける。そうして少し経ってから、シトラはその場を離れた。
眼下には、風に荒れ狂う海がある。
平らな岩の上で、シトラは立っていた。荷物のなかから、目当てのものを探り出す。
それは、長年持ち続けたスケッチブックだった。
だんだんと緩くなる風に乗じて、紙をめくっていく。そして、ある一ページをシトラは見つけた。
そこに描かれているのは、一人の少女だった。片足を投げ出して、地面に座っている。挑むような生意気な眼差しと、愛嬌のある口元が、違和感なく共存していた。
それは、親友だったフリュクテを描いたものだった。もともと、彼女にプレゼントするつもりで描いていた。が、渡す前に同じものをもう一枚描き、自分用にシトラが残しておいたのだ。
その絵を眺めたまま、シトラは数分じっとしていた。
目的がないわけではない。彼女は、ひたすらに待ち続ける。
何十分もの間、シトラはそうしていた。すると、ついに空が白み始める。"鐘"は、水平線の向こう側に没して見えなくなった。波が、砂浜が、丘が、森が、光に照らされ、輪郭を確かなものとしていく。
もうすぐ、夜明が訪れる。
しかし、シトラが待っていたものは、ついにやって来なかった。
(わたしは、悲しくならないのかな)
シトラは自問した。スケッチブックを胸に引き寄せ、さらに問い続ける。
(こんなに多くを失ったのに)
居住区から脱出したときと同じで、彼女はもはや過去に何物も所有していなかった。
故郷を失い、居場所を捨てて。親友からも、伴侶からも取り残された。昔の自分ならきっと、希望を失ってしまっただろう。そう思えるほどの、心臓に突き刺さる衝撃をシトラは受け止めてしまった。
それでも、湧き上がる感情がない。まったくないのだ。
(わたしは冷酷になった? ……いいえ、違う。そんなことじゃない)
荒々しい風は、もはや完全に止まっていた。代わりに、ぬるい温度を含んだ微風が吹き始める。海の向こうから吹く西の風。それは、冬の終わりが近いことを知らせる風だった。
(今までのわたしのことで、わたしはもう悩んだりできない。悩まなくてもいいんだ。わたしは、これからのわたしに満足してる)
シトラは瞳を閉じた。嗅いだことのない潮の香り、感じたことのない日の光が、自分だけの暗闇の中で感覚の軌跡を刻む。
たった一つ忘れることのなかった、故郷の海。それは一筋の航跡も残さずに、まぶたの裏から消え去っていた。あれほど夢に見続け、一瞬前まで実際に見ていたはずの、あの海が。
見ることのできるものは、何一つ映じていない。
必要がなくなったから、それは消えてしまった。ごく簡単なことだった。
もう瞳を閉じずともよい。発見した新たな真理に導かれ、シトラは瞳を開けた。
「フリュクテ、アス――あなたたちは知ってるかな」
少し前までの荒々しさは嘘のように消え去り――朝霧と朝日だけが、海を穏やかに演出していた。波がささやかに渦巻いては霧散し、歌姫のようにたおやかな円舞を舞っている。
シトラの見たことのない海が、視界から溢れるばかりに広がっている。これが自然に生じた景色だとは、とても思えない。誰かが作ったように、精巧で可憐だった。
そして、また。
空はまだ、薄い闇の帳に覆われている。太陽もまだ、昇ってはいない。しかし、紅の光が徐々に強まっていく。仔細に観察しても、それとは分からないほどゆっくりだったが。
もうすぐ見ることができるだろう。破壊ではなく、むしろまったく別の始まりを告げる鐘の姿を。
「わたし、とても面白いことを見つけたの。聞いてくれる?」
他人をいたわるように、シトラは自分の胸にそっと触れた。
もう故郷ではなくなった海。
初めての時として、シトラはそれを見ている。そこは、新たな生活の場となって、シトラを祝福してくれているようだった。
この海のように、何度でも自分で作り直していく。そんな柔軟な力が、自分の内に芽吹いていた。
「目を閉じるとね……人は、自分の未来を見ることができるんですって」
彼女の言葉は、祈りでも願いでもない。ただ愚直な意思を言葉として、大気に乗せて広げていく。綿毛のように。
体に宿った、まったく新しい未来を意識しながら――その手でいつまでも、シトラは春風に触れ続けていた。




