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瞳の開く時  作者: chihya
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後編

 毎日のように送られてくる傷病者の数は、増加の一途をたどっていた。

 居住区から遠く離れた、とはいっても忘れ切ってしまえるほどは遠くない地で、殺し合いが過酷になりつつあるという。空輸されてくる兵士の中には、機上で息をひきとる者も少なくない。そして病院のほうでも、薬品や包帯など医療器具が不足し、満足な手当てを与えられないこともあった。兵士の死に場所と化した病院には、生暖かくどろりとした絶望感が漂い始めている。

 そんな時でも、一ヶ月に一度の休みはやはり、やってきた。頻度は少なかったが、唯一ゆっくりと休める日だ。いつもならば、シトラは一日中ごろごろしているところだった。

 だが幸運にも、フリュクテも休みを取れたので、シトラは彼女と一緒に外へ出かけた。

 「ちょっと空気が冷えてる、かな?」

 「そうだね。地上はもう冬だろうから」

 シトラは声低く言った。横に座っているフリュクテをよそに、ばたりと寝転がる。

 芝生の青い香りが、鼻腔いっぱいに広がった。

 娯楽になるような施設は、とっくに撤去されていた。巨大な地下壕の全体から、根こそぎだった。ましてや、歳若い少女の趣味に会う洋服店など、ひとつとしてなかった。なので、何の変哲もない公園に、こうして訪れることくらいしか出来ない。

 シトラは、それでも満足だった。

 「ねえ、フリュクテは――」

 「ん?」

 フリュクテは振り返り、柔らかい微笑みを見せる。

 シトラは少しためらった。が、やはり話しておかなければいけない。きっともう、話す機会は他にないのだから。

 「――好きな人とか、いるの?」

 フリュクテはきょとんとして、数回まばたきした。

 「好きな人?」

 「うん、好きな人」

 フリュクテは首をかしげた。

 しばらく考えている所を見ると、彼女は普段、そんなことは考えてもいなかったらしい。意外と真面目なのだろうかと、思い始めたとき、彼女は答えた。

 「いたはいたんだけど。片思いだけどね。何年か前に亡くなって、こっちに戻ってきたの」

 瞳を曇らせることなく、彼女はあっさりと言い放つ。

 シトラはたじろいで、上体を浮かせた。

 「そうだったの!? ごめん、悲しいこと思い出させちゃって」

 フリュクテは首をふった。その仕草に悲哀さはない。すっきりと否定するばかりだった。シトラは、乾いたばかりの洗濯物を思い出した。

 「ううん、別にいいわ。もう、どうにもできないんだから。このこと、いままでは黙っていたんだけど……」

 フリュクテは、人差し指を唇に押し当てた。

 「いまは、なぜか話したしたくなったのよね。休みの日だからかしら」

 二人は、互いに暖かな笑みを交わした。

 しかしフリュクテの表情が程なく変わる。にやりとした笑いに変わり、シトラを見つめた。

 「こんなこと聞くって事は、シトラにも好い人できたの?」

 シトラは声を詰まらせた。

 「へ? や、そ、そうじゃないんだけど」

 「ふうん」

 投げやりな風に、フリュクテは答えてみせた。背中を丸め、つま先に手を触れさせている。そして、木立のほうをぼんやり眺めていた。日々の激務から開放されて、ちょっとばかになっているのかもしれない。

 シトラは、波に体が溶け込むような心地よさを感じた。

 それは平穏からくるものだった。きっとフリュクテもそうなのだろうと、シトラは思った。

 (それに……)

 公園の風景も、ゼラチンで固めたように緩やかに泳いでいた。人影はまばらで、木の葉の揺れ具合はごくささやか。風も少なく、視界を素早く移動するのはせいぜい鳥くらいのものだった。

 微かな心地よさを、自分の見える世界にまで広げる。そんなことが、今だけは出来た。

 シトラは寝たまま、ふと天井に眼をやった。地面から100メートルはあろうかという高さの所に、鋼鉄の防壁が堅く打ち付けられている。

 その外側の世界には、日常の感覚が開いていく余地はなかった。そこにあるのは、大いなる危険のみだった。人間がどんな感想を覚えようと、いっさい関係がない。ただ、迷い込んだ人間を殺すだけの――寂しい世界だ。

 だが、そんな恐怖に包囲されればされるほど、ほんのわずかな平穏がいっそう鮮やかさを増した。侵されることで、輪郭が明瞭になるからだろう。

 「わたしは、フリュクテのことが好き」

 シトラは、ぽつりと言った。そして、頬の熱を紛らわそうと、一言付け加える。

 「あ、変な意味じゃないよ。うん」

 フリュクテはちょっと意外そうに、眼を見開いた。

 「なに、突然? ――そりゃ、私もシトラが好きよ。友達だもんね?」 

 「うん」

 寝返りを打ちながら、うなづく。

 (ああ、これでいいんだ……)

 シトラはそっと、胸に手を当てた。今この情景を、頭に焼き付ける。二人の座っているなだらかな丘から、公園を見回した。

 ふと、シトラは思いつくことがあって、おもむろに腰を上げた。 

 「どうかした?」

 フリュクテが聞いた。シトラは鞄を取り上げて、目当てのものを探す。

 そうしながら顔をあげ、笑いかけた。 

 「フリュクテ、ちょっとそこに座っていて――」

 

 少年の歩みは危なっかしかった。

 一歩を進むたび、松葉杖の先端が床に当たる。その一定のリズムを持った音は、時計の秒針を思い出させた。

 「大丈夫です?」

 倒れそうになったら支えようと、シトラは少年を気づかっていた。

 が、歩く練習をさせるため、直接手で支えてはいない。おかげで、少年は一苦労しているようだった。

 「前に比べたら、大分……はは」

 顔を横に向け転びそうになったが、少年は持ちこたえる。声は取り繕ったように軽い。

 「そうですか」

 シトラも、少々気の張った笑い方をする。というより、そのような表情しか出来ないくらいに、彼女は胸の内が凍りつくのを感じていた。

 (いよいよかあ)

 肺が重石のように鈍く垂れ下がり、呼吸さえぎこちない。ためらいがないとはいえない。恐怖がないとはいえない。

 しかし、向こう側に飛翔するような感覚を、彼女は感じたかった。

 「じゃ、行きましょ」

 「行けるんでしょうか」

 シトラは、表向きには患者に付き添う形で歩いた。そして、白衣のすそに手を差し込む。

 そして、病院の玄関先から、外の光景を注意深く見つめた。

 分厚い天井が割れている。輸送船が、翼を変形させながら降りて来ていた。

 

 「ごめんなさい」

 シトラは小声でささやいた。両手で握っているのは、黒光りした引き金だった。それを満身の力で引きしぼる。

 栓が抜けたような、耳に痛い音が炸裂した。放たれた筒が、硝子を突き破ったのだ。

 輸送船の中の人影が、一瞬ざわめいた。

 「あの、アスさん。これを」

 「は、はい」

 携帯用の防毒面を手渡しする。自分の分も、手早く頭に被せた。その間も、船の監視は怠らない。

「どこからこんな物を?」

 眼を見開いたまま、少年が聞いた。

 こんな時にどんな表情をしたらよいのか、シトラはよく分からなかった。とりあえず、曖昧に笑いかける。

 「えーっと。その、こういう時くらいしか使い道がなくって」

 「催眠ガス? こんなものいったいどこで……?」

 目を細めて、少年が唸る。

 「前に手に入れて、取っておいたものなんです。今はその、時間がないので……後でゆっくり話しますね」

 そうして無理やり会話を打ち切ると、少年は大人しく黙り込んだ。

 シトラはとっさに、視線を転じる。

 撃ってから1分も経ずに、筒の吐き出した白い煙が天井まで達していた。もう人が動く気配はない、と思えたが。

 (いや、まだ)

 おそらく1人、まだ動いていた。扉の方に近づいてきている。脱出しようというのだろう。ともかく、早く眠ってもらわなければ厄介だった。失敗すれば、計画していた時間に間に合わなくなってしまう。

 扉が開けられる前に、シトラは自分から船に入った。

 乗員の男が1人、まだ眠り込まずに立っている。壁に寄りかかり、必死で口を押さえていた。

 看護婦の格好をしたシトラを見て、そう警戒もしなかったらしい。こちらに近寄り、疑問を発そうと――

 口を開いた瞬間に、シトラは懐から脱脂綿を取り出した。もちろん、強力な薬品をたっぷりと染み込ませてある。

 「ほんとにごめんなさい」

 おざなりのわびを入れてから、それを男の口と鼻に素早く押し付けた。

 たちまち、男の眼球がぐるりと上向く。そのまま意識を失ってくずおれた。体が地面に衝突する、その前に抱きとめる。そして床にゆっくりと寝かせた。

 「ふぅ」

 しぼみ切っていた肺が、やっと少し膨らんだ。そんなふうにシトラは感じた。よほど緊張していた、のかもしれない。

 (このくらい、前はよくやっていたのに)

 平和に慣れ過ぎていた。潜りこめないほど小さな平和に、それでもシトラは浸っていたのだ。ありありと、そんな事実が眼の奥で輝いた。

 (今になって、こんなことが分かるのね。私は、ここを離れたくないのかもしれない)

 病院での生活を振り返り、シトラはたまらない気持ちになった。病院の労働はけして簡単なものではなかった。しかし、彼女は知っていた。病院の生活は、ぬるま湯のように心地よかったことを。

 (でも、ここに居ることは逃げることにしかならない。私は、辛い記憶にもちゃんと向き合える。そのはずなんだから……)

 「えっと、看護婦さん――と呼んでいいのか分かりませんが、とにかく急いだほうがいいんでは?」

 少年の篭った声が、防毒面の下から聞こえた。

 シトラが突っ立ったままでいたので、少年は焦ったらしい。あるいは、常ならないシトラの手際よさに、度肝を抜かれたのかもしれなかった。

 シトラははっとして、床を見つめっぱなしだった視線を上げた。

 「は、はいっ。そうでした。はやくしないと、病院の人たちが変に思って、船のほうに来るかもしれませんしね」

 催眠ガスを出し尽くした筒を拾い上げ、シトラはまず看護服の袖をたくし上げた。

 「アスさんは操縦席の方へ。飛行だけはあなたに頼る他ないので、どうかよろしくお願いします」

 「はい。まかせてください」

 「あと……」

 シトラは、ちょっと付け加えた。

 「どうしました?」

 「わたしのこと、よければ名前で呼んでください。それに、敬語も止めにしましょう。私たちにはもう、何の壁も要らないんですから」

 それを聞くと、床が突然海にでもなったかのように、少年は口を半開きにした。よほど先のことばかりを考えていて、頭が回らなかったのだろう。数瞬後に、少年は元の状態に戻った。頭を、小さく縦に振る。

 「ああ、そうで……そうだね。これからはそうしよう。よろしく」

 やや上ずった声で答えてから、少年は手を差し出した。

 包帯で巻かれた手は、シトラにはややはかなげに見える。傷ついた手だ。あまり重いものを持つこともかなわないだろう。ひょっとしたら、今はシトラより非力かもしれない。

 「うん」

 シトラが握り返すと、少年ははにかんだ。その表情はしかし、どこか確信めいたものを秘めている。もはや敵はなし、とでも宣言しているようだ。

 「これで、僕たちは共犯者――しかも脱走者、ってことか」

 「その通り」 

 シトラは愛嬌たっぷりに答えた。

 

 (私は行ける。故郷の海に、私は行けるんだ……)

 興奮に、シトラは胸が躍るのを抑えきれなかった。

 脱走の計画はシンプルだ。定期的に生活必需品などを運んでくる連絡船を乗っ取って、外に脱出する。それでも安心はできない。戦争中に脱走する者が、どういう種類の人間なのか。誰もが敵のスパイだと考えて、追跡してくるだろう。

 そこはアスの操縦に頼る他ない。しかし、一定以上飛べば、少年の所属していた軍の制空権に入る。そうすれば、最早追ってはこれまい。

 全ては、故郷の海岸へ戻るため。シトラが、何年もかけて計画していたことだった。しかし、ここ数ヶ月がくるまでは、肝心かなめの飛行機の操縦役がいなかった。

 幸運なことに、今はアスがいる。

 (きっと何とかなる。何とかしてみせるわ)

 シトラはそう誓った。

 そのうちに、眠りこけている乗員をすべて船の外に運びだす。彼らを連れて行くわけにはいかない。

 全員、発着場の目立たない所に引きずっていった。シトラがいつもラジオ体操をしていた、大木の近くだ。しばらくは見つからないだろう。

 飛行機に戻ると、アスが外に立っていた。シトラを見とめると、小走りになって近づいてきた。

 アスは顔を引きつらせている。

 「どうかしたの?」

 「まずい。船に燃料があまり残ってない」

 シトラは驚愕のあまり、口を半開きにした。

 「えっ、うそ……じゃあ、飛べないの?」

 「飛べることは飛べるだろうけど。とても追っ手からは逃げ切れない。そんなに加速したらすぐガス欠になってしまうから」

 うつむき加減になり、アスは吐き捨てた。

 「そんな、ここまで来たのに」

 シトラはこぶしをきつく握り締めた。

 (このままじゃあ……)

 「ねえ、何か方法は」

 「燃料がなければ、いくらなんでも自由に飛んだりできない。残念だけど……」

 と、その時シトラは耳をそばだてた。

 「しっ」

 「?」

 シトラは船の陰から向こうを覗いた。

 例の大木の近くで、病院の職員らしき人がいたのだ。昏睡状態でそこに倒れていた船員をみつけたらしい。驚愕で不自然に腰を浮かせつつ、病院のほうへ去っていった。

 おそらく、人が何人も倒れていると報告しにいったのだろう。

 「人がいる。もう気づかれちゃったか」

 「何だって……いったいどうするんだ?」

 アスの言葉はいっきに気弱そうになった。ちょっと頭に血が上ったので、シトラはつい語気を荒げて言い放つ。

 「ちょっと黙ってて」

 (燃料を補給するのは……無理か。燃料は貴重だから、さすがに厳重にしまってあったし)

 無数の諜報活動の記憶から、彼女は必要な情報を取り出した。燃料は病院そのものの内部奥深いところにしまわれている。人目が多くて、夜中でも盗み出すのは不可能だった。

 「こんなすぐに計画が頓挫するとは思ってなかったな」

 「諦めたらだめ。何か考えないと」

 危機にたいしては、ともかく腰をすえて考えを練るほかない。シトラは、目を細めて地面に生えた雑草をにらみつけた。

 (町に潜伏する? いや、居住区自体が小さいんだから、そんなことしてもすぐにみつかっちゃう。やっぱり脱出する方法を……)

 「僕の機が残っていればな」

 シトラが必死に考え抜いている横で、アスは小声でぼやいた。シトラは非難の眼差しを浴びせようとする。

 が、中途にひらめいたことがあった。

 「あ! そうだ」

 「何?」

 シトラは息を吸い込み、一声で言い切った。

 「この病院の付属基地に、何体か戦闘機が配備されてるの。それを使って逃げればいいわ」

 解決策をみつけたので、シトラは自然に肩を躍動させた。それとは裏腹に、アスは呆けたようにシトラを見つめる。

 「そんなの、どうやって盗むんだ。厳重に警備されてるんだろう、どうせ」

 「うん。だけどね」

 確信をこめながら、シトラは告げた。

 「私なら、いちおう取りに行けるの。簡単にとは言わないけど……」

 まだ少年は納得いかないようで、眉をひそめていた。が、シトラは彼をむりやり引っ張る。

 「とにかく。気づかれる前に、早くいきましょ」

 

 警報が鳴り響く。病院と、付属施設全てに届いている警報だった。

 『緊急放送です。ただいま、院内に不審者が侵入しました。職員、患者の皆さんはただちに――』

 シトラとアスは、坑道のように狭い横穴にいた。四つんばいになって、ひたすら進んでいく。

 基地の天井の通風孔だった。シトラが、よく侵入路として使っていた通路である。

 「もうばれたみたいだね」

 アスのくぐもった声が、シトラの後ろから聞こえてくる。

 「言われなくても分かってる」

 『繰り返します。ただいま、院内に――』

 警報が何度も鳴り響く。確実性を失した逃亡を思って、シトラは陰鬱なため息をついた。

 そんなシトラをよそに、アスはあくまで興奮した声を投げかけた。

 「しかし、信じらんないな。君が……帝国の命令を受けて侵入したスパイだって? それじゃ結局、君と僕は最初から味方だったんじゃないか」

 「味方も何もないわ。最初は、正体を明かすつもりはなかったんだから」

 シトラは言下に低い声で言った。

 「そうか」

 「聞きたいこともあるだろうけど、今はちょっと面倒だから後にしてくれる?」

 「時間がない、か。わかってる。あとでまた聞くよ」

 アスは名残惜しそうに口をつぐんだ。

 「ところで、話しは変わるけど、なんで最初から戦闘機を奪わなかったんだ?」

 シトラは短く嘆息した。少年を黙らせるのが難しいと分かったからだ。

 「……最初は、輸送船でこっそり逃げるつもりでいたの。単に輸送を終えて帰るようにみせかけてね。でも戦闘機を奪うとなれば、本当に反旗をひるがえすことになる。確実性は低いし、だいいち危険だから」

 シトラは、上の壁から落ちてきた物をつまみあげた。目の前に持っていく。それは、蜘蛛と思しき生きものだった。それに危害を加えはせず、下方に放り投げる。床のフィルターを通じて、蜘蛛は通路に落下していった。

 「もっとも、もう遅いだろうけど。多分、今ごろ病院は警備員でいっぱいになってるでしょ。不審者、とおもわれてるらしいし」

 「ここなら、あまり見つかりそうにないけどな」

 アスがゆったりとした調子で言った。何故彼がそんなに平静なのか、見当はつきかねる。だが、予想外のことに出くわしすぎて、かえってそれに慣れてしまったのではないか――とシトラは解釈した。

 (でも、本当に危険だな……)

 ひょっとすると、計画は頓挫するかもしれない。

 その可能性を思い浮かべるだけで、シトラは身の毛が逆立つように感じた。

 シトラはアスに問いかけた。

 「ほんとうに、撃墜されるかもしれないの。切り抜ける自信はある?」

 「さあ? 戦いで何が起こるのかなんて、わからないよ。自信なんてないな」

 「……頼りないなあ」

 シトラはちょっとうなだれた。彼の答え方がよければ未来が明るくなる、というわけではなかったが。

 「だけど、僕は一回は生き延びたし……たぶん、今回も生き延びれるんじゃないかな。そう思うことにしてる」

 「なんか、いいかげんに聞こえるけど」

 「要するに、心配しても意味がないってことだよ」

 なだらかかつ一本調子な口調で、アスは言った。不思議と、確固とした物言いである。よくわからなかったが、シトラはとりあえずうなずいた。

 「ところで」

 アスがシトラのふくらはぎをつついた。

 「そろそろじゃ?」

 「うん。ちょうど戦闘機の発着場の真上に来たわ。誰か人は――」

 床のフィルタに、片目を押し付ける。

 眼下に広がるのは、かなり横に長い空間だった。大きい質量をもった黒い塊が、その部屋に十個あまり置かれている。

 それは、戦闘機の群れだった。

 暗闇の中に、それらが石像のごとく眠っている。

 (なんか、ちょっと不気味……)

 シトラは身震いした。

 部屋の風景はともかくとして、そこには人影はなかった。

 「――いないみたい。とりあえず、わたしが先に下りる。アスはその後に下りて、戦闘機のほうを準備しておいてくれる?」

 「了解」

 「わたしは、発進口を開けて……あとは、誰かが来ないよう見張ってるから」

 「開けるって、一体どうやるんだ? 管制の協力もないのに」

 「細かいことは気にしない! とにかく任せといて」

 シトラは告げると、通風孔の枠を外す。

 天井から床までは、結構な高さがある。ゆうに三メートルはあるだろう。そこでためらっていてもしょうがないので、シトラは意を決した。四角い穴の一辺に、右手をかける。

 芥子粒ほどの恐れもない。そう確信できる一瞬が訪れると、シトラは穴から跳び下りた。

 つま先が、まっさきに地面に触れる。

 膝を曲げて、シトラは床に転がった。衝撃を逃がすための動作である。

 だが思いの外、体をひねりきれなかった。膝に静電気のような痛みが走る。とっさに、その箇所を手の平で覆った。

 シトラは深く嘆息した。

 「あたた……やっぱ体がなまってるよ」

 「大丈夫か!?」

 アスが上から声を投げる。

 シトラは少しだけ嘘をついた。

 「大丈夫。これくらい出来ないと、スパイなんてやっていけないもん」

 平気な風を装って、シトラはすっくと立ち上がった。

 「それより、アスはどう降りようか」

 首を真上にむけて、シトラは声を投げた。

 「そうだな。まあ脚が折れてるから、着地するのはちょっと無理か」

 アスは途方にくれたように、堅そうな床を眺めていた。そして、真顔で頼んでくる。

 「悪いけど、飛び降りるから受け止めてくれないか」

 「あなたを受け止めるの、わたしが?」

 「ほかに誰もいないだろう?」

 当たり前のように、アスは言った。

 「なんか立場が逆な気がするけど……」

 シトラは小声でぼやいた。

 こういう時は普通、男のほうが落ちてくる女を紳士的にキャッチするものだろう。とはいえ、アスの体の状態では、そんな古典的な劇の一幕は望むべくもなかった。

 「何か言った?」

 「いいえ。あの、体重はどのくらいあるの?」

 「君の1.5倍はあると思うよ。でも、君なら大丈夫じゃないか。腕力が――」

 シトラは、とくに冷ややかな仕方で目を細めた。

 「あ、いや看護婦は重労働だって、シトラが言ってたじゃないか。だから」

 「……まあ、そうね。クッションになりそうな物もないし。わかった、じゃあ飛び降りて。受け止めてあげるから」

 シトラは視線を外しながら答える。

 「恩に着るよ」

 言うとアスは、怪我していないほうの足を穴の淵にかけた。

 「じゃあ行くよ……」

 「いつでもどうぞ」

 シトラはおざなりの微笑みを投げかける。

 「……それっ」

 掛け声とともに、アスの体が落下する。シトラは上に手を伸ばした。

 手のひらにアスの体が触れる。重力に逆らわず、落下速度を抑えていく。バランスを崩さないよう、アスの体を二の腕に抱きこんだ。

 「うっ」

 力を入れる一瞬、シトラは声を漏らす。

 渾身の力により、アスは地上三十センチほどのところで静止した。衝撃はかなりのものだったが、シトラはなんとか耐え切った。

 (これじゃ、わたしが男みたいじゃない。しょうがないけどさ……)

 幸いシトラは、腹が立てば立つほど自分の表情を柔和にみせる技術を持ちあわせていた。自分であきれるほどの感じよさを、シトラはふりまく。

 「大丈夫? どこかぶつかってない?」

 アスは片足で立ち上がった。肩をすぼめる。

 「僕はなんともない。いや、すまなかった」

 「ううん。しょうがないよ」

 シトラはまた愛想よく笑った。今度は、腹の虫は半ばまで収まっている。。

 「……とにかくアスは戦闘機の方をお願い。発進できそうだったら言って。私は入り口の所で警戒してるから」

 「分かった。何とかやってみるよ」




 『緊急放送です。ただいま、院内に不審者が侵入しました。』

 「急がないと」

 シトラは胸ポケットから電子端末を取り出した。同時に、壁に設置されている端末の蓋を外す。

 (上手くいくはず)

 祈るような気もちで、シトラはコードを伸ばして接続した。

 スパイ活動の結果、この病院施設の機密情報は大抵分かっている。長年練ってきた脱走の計画を、ここでつぶすわけにはいかない。

 端末の画面に、パスワードを要請する表示が現れる。

 最後にパスワードを盗聴したのは、2、3ヶ月前だった。その時から変わっていなければ、すぐに発進口が開いてくれるだろう。

 しかし、一度でも入力して決定してしまえば、発進口を開けようとしている者の存在が管制室に知られてしまうに違いない。人が来る前に飛翔できるかは、一つの賭けだった。もちろん、飛行機を使う者などいないはずなのだから、管制を担当する者が誰もおらず、したがってまったくばれずに済む、ということもありうる。

 そんなに甘くはない、と本能が告げた。

 (考えても仕方ない、か。とにかくやってみよ)

 そのとき、少年が報告した。何かのレバーを倒しながら、頬を紅潮させている。

 「シトラ、こっちはどうにか……なりそうだっ」

 「あとどれくらいかかる?」

 少年は整備士のようにかがみこんで、機体の翼のあたりをいじっている。が、顔だけ上げて答えた。

 「たぶん、あと十分くらいだ。どうもあまり使ってないみたいで、思ったより時間かかったけどね」

 「ここから戦闘機が出撃することってあるの?」

 「調べた限りでは、あまりないわ。あなたみたいに敵が侵入してくることもあるけど、大抵は偵察でくることが多いから、迎撃する意味がないみたい」

 「……それでいいの?」

 「さあ、わたしに聞かれても」

 シトラは首をかしげた。

 「でも、訓練で飛ぶことも少ないみたい」

 「そういえば、見たところ何ヶ月も使ってない感じだったな」

 シトラは嘆息した。話すことが時間の無駄だと分かってはいたが、我慢できずに口に出す。

 「どうやら、燃料が足りないようよ。ここは辺境だからかもしれないけど、物資が絶対的に不足している。この居住区だけじゃない、周辺の居住区はみんなそう。それに、私みたいな帝国のスパイの侵入も許してる。これだけ情報を外から盗めたのも、ずさんな防諜体制のおかげなの。この居住区は、きっともうダメね」

 シトラは淡々と語る。

 少年は油のついた手で頭を掻いた。少し落ち込んだ声でつぶやく。

 「こんなときなんて言えばいいんだろ。ごめん、でいいのかな」

 シトラは不意をつかれたように感じた。

 「別にアスのせいじゃないじゃん」

 「そりゃそうだけど。その……」

 アスは口をつぐんでいる。

 「ん?」

 喉を鳴らすようにして、シトラは続きを促した。

 彼が何を言いたいのか、シトラにはよく分からなかった。彼のおかげでこうして脱出をおこなえるのだから、シトラには彼を謝らせる理由などない。

 「ま、いいや。とにかく今はコイツに集中するよ」

 バンバンと機体を叩きつつ、アスは作業に戻った。

 (変なの……)

 

 

 シトラはガレージの入り口付近で警戒に当たっていた。だが、ついに恐れていた事態が起きてしまった。

 「まっ、ずい」

 兵士の格好をした男が、三人ほどまとまって廊下の向こうに立っている。この基地の兵士だった。ただここでふらふら歩いているだけとは考えにくい。不審者を探すためにやって来たか、あるいは飛行訓練のために来たのだろう。

 「アス、準備はまだなの!?」

 少年は声を抑えて叫んだ。

 「もう間もなくだ! 発進口を開けといてくれっ」

 「わかった」

 思い切って、シトラはパスワードの決定ボタンを押した。

 (お願い……)

 すると、開錠を示す赤いランプがまたたく。

 どうやら祈りが通じたらしかった。

 「やった!」

 鳥の鳴くような電子音が響く。

 『ハッチが開きます』

 その音声がしたかと思うと、すぐさま天井に割れ目が走る。薄暗い格納庫に、たちまち細い光が差し込んだ。ハッチが開くのに従い、光も着々と面積を広げていく。

 しかし同時に、三人の兵士もこちらに気づいてしまったようだ。駆け出している。

 「まずっ……」

 「何だお前らは、そこから離れろっ」

 兵士が叫んだ。泥棒か何かかと思われているのかもしれない。実際そんなものだとしても、大人しくお縄にかかるつもりはシトラには毛頭なかった。

 急いで格納庫のドアを閉じ、兵士たちを視界から消し去る。手早く鍵を掛けた。

 「シトラ、早く乗って!」

 アスが叫んだ。

 「んっ」

 シトラは返事代わりに唸る。

 立ち上がる。

 戦闘機の上から、アスが片手を伸ばしていた。つかまれ、という意味だろう。

 (わたしは……わたしは帰る)

 気炎をあげて、シトラは走った。興奮のせいか、火照った体に汗が湧き出す。それをぬぐう暇もない。

 ほどなく、天井のハッチも開ききったようだ。紅い陽の光が、戦闘機を鮮やかに染め上げる。

 (もうすこしっ)

 前だけを見つめていた。

 そのせいか、シトラは何かに蹴つまずいた。

 「あっ!」

 咄嗟に体をひねり、肩から地面に衝突する。衝撃が、容赦なく体をつらぬいた。

 「くー、あいたた……わたしとしたことが、不覚ぅ」

 膝を抱えて、シトラは海老のように丸くなった。

 ぶつけた肩もさることながら、むしろさきほど痛めた膝が振動でうずく。あまりに痛むので、すぐには立ち上がれなかった。

 「シトラっ」

 アスが呼ぶのが聞こえた。きっと、血相を変えているのだろう。それでも、シトラは動くことが出来ない。シトラは己の不運を呪った。それでも、自分でどうにかするしかない。

 (立たないと……立たなきゃ)

 痛めていない脚と、腕を地面についた。それを支えに、シトラは必死に身を起こす。

 自分の体と格闘しているシトラの所に、アスが走り寄ってきた。わざわざ戦闘機を降りたらしい。だが、彼とて片足は不自由な状態だ。松葉杖を抱えてはいたが、それを使うのはじれったいらしい。自由な方の片足で「けんけん」をしている。

 彼は片手を差し出した。

 「立てるか? 早く逃げよう」

 「アスだって、まともに立てないじゃん……」

 言いながら、アスの手につかまる。2人同時に転ばないように注意しながら、そろそろと立ち上がった。

 「そうだね」

 アスはにやっと笑ってみせる。

 「行こう」

 「うん」

 ほっとしながら、シトラは答える。だが、その安堵も長くは続かなかった。

 突如として、金属が金属にぶち当たる物凄い音が鳴った。シトラが振り向くと、ちょうど兵士たちが扉の鍵を壊した所だった。拳銃で錠前を撃ったようだ。

 「止まれ、動くな!」

 1人が拳銃を抱えたまま走り、またたくまにシトラの左手を掴む。容赦なく引き寄せられた。

 「離してよっ」

 「抵抗するな、撃つぞ!」

 真っ黒い銃口が、シトラの眼前からほんの十センチという所に向けられる。

 (あちゃー、やっぱこうなっちゃうか)

 シトラは聞こえないように嘆息した。

 あまり切迫した気持ちにはなれなかった。ここ数年はともかく、それ以前はこのような状況に常に出くわしていたからだろう。

 それに、シトラはもう故郷のことしか頭になかった。

 心臓の鼓動は、ごく平静。男の凶相も、モニターを通して眺めているように現実感がない。             (ごめんなさい、あなたは何も悪くないのにね。でも……)                           体の重心を、ゆっくりと片足に移す。その分だけ、痛めた方の脚が軽くなった。

 ある程度は、自由に動かせるはずだ。

 (……自分から距離を詰めてくるなんて、馬鹿じゃない?)

 そこまでだった。

 支点は片足、回転軸を腰。

 その規制に則って、シトラは痛めた方の脚を思い切り振り上げた。おおまかに空中に思い描いた軌跡を、その脚が実在のものとしていく。

 小ぶりの鉄槌のような俊敏さと凶暴さをもって、靴の踵が唸った。そして、男の頭に襲い掛かる。

 いやになるような鈍い衝突音。それが、耳の奥まで浸入した。

 (骨にひび入ったかも)

 それが自分の足のことなのか、男の頭蓋のことなのか、それは判然としなかったが。

 男の拳銃が、地面に転がる。気を失ったせいだろう。ほどなく男の体も、地面に衝突した。

 素早くその拳銃を拾い上げる。そして、白目を向いている男の頭に、その銃口を押し付けた。

 ちょうど格納庫に入ってきた残りの2人は、そろって仰天したようだった。気丈にも、拳銃をこちらに向けている。だがあれでは、撃ったとたんに反動で倒れるだろう。

 シトラは、即座にその場の統率者となった。統率者らしく、なるべく穏やかな声で告げる。

 「仲間を殺されたくなかったら、いますぐここから出てって……もちろん、拳銃は捨てて。そうすれば、殺しはしないから」

 数瞬の躊躇があったが、男たちは指示通り拳銃を捨てた。

 「アス、わたしの腰からこれを外して。で、撃って」

 シトラはあごで自分の腰を指し示す。催涙ガス弾の装填された銃だった。

 アスは、彼女の勇姿に呆然と見入っていた。だが、ふと我に返る。

 「いいのか?」

 「わたしは、なるべく息を吸わないようにする。あなたもそうして」

 「そういう意味じゃないんだけどな……まあ、分かったよ」

 アスは短くうなづくと、銃をシトラの腰から外した。

 「ご愁傷様!」

 途端に、銃口から円筒型の弾が飛び出した。ちょうど、二人の男の頭上で破裂する。

 弾は瞬く間に爆発し、白いガスが壁や天井を舐めるように拡散していく。男たちは虚を突かれたように、右往左往した。だが、数秒以内に意識を失い、倒れる。

 それを確認するが早いが、シトラは手に抱えた男を捨てた。

 ガスを吸わないよう、片手で鼻と口を押さえる。ほとんど役立たずの片足を引きずりながら、シトラは可能な限りのスピードで駆け出した。

 

 戦闘機に、電気的な命が宿った。

 救急車や輸送船などとは、比較にならない力強さ。それが機体中をかけめぐっていくのが、シトラには分かるような気がした。

 シトラの鼻先には、アスが腰掛けている。その戦闘機が複座式だったのは運が良かった。単座式であれば、ぎゅう詰めになって操縦どころではなくなったはずだ。

 「よし……動かせそうだ」

 アスは言うと同時に、操縦桿を強く引き寄せる。

 機体は落ち着きのない鳴動をもって、操縦者に応えた。炎とガスを地面に叩きつける爆音が、空間を千々に切り裂いてゆく。

 前触れもなく、機体が浮かび上がった。完全に開ききったハッチを、機体が潜り抜けていく。

 「手馴れてるね」

 シトラは素直に感心して、褒め言葉をかける。

 「ほんとに手馴れてるなら、撃墜なんかされないよ」

 アスは振り向いて、苦笑いした。一見、気楽な風に見える。が、よく観察すると、彼の額にはうっすら汗が滲んでいる。髪の毛も湿気を含んで少し逆立っていた。

 シトラは反射的に、懐からハンカチを取り出す。看護婦の習性のようなものだった。

 (でも、汗が邪魔で前が見えなくなったりしたら大変だし……)

 シトラは身を乗り出した。

 「ねえ、汗かいてるよ」

 告げて、否応なしに湿気を拭い去る。アスは居心地悪そうだったが、無駄な抵抗はとくにしなかった。

 「はい、おしまい」

 「ありがとう。用意がいいんだね、君は」

 労をねぎらうように、シトラは相好をくずす。

 だが、シトラが考えていたのは別のことだった。

 (少なくとも、私は今まで不幸じゃなかった。でも、ごめんなさいね……さようなら)

 声には出さず謝る。シトラはそうして、眼下の病院に別れを告げていた。

 

 地上は、薄もやのかかった夕闇に支配されている。刻々と変化していく自然――それは地下では決して感じることのない物だった。

 だが、それと同時に感じなくて済むものでもある。安定した状態から、いつ崩れるとも知れない不均衡へ飛び込んでいく恐怖――そんなありがちな感覚が、シトラの体中を走っていた。こんな緊張状態には慣れていると、シトラは自分ではおもっていたのだが。病院での比較的平和な生活が、精神の抑制術を蝕んだらしい。

 あるいは――。

 (大丈夫、きっと大丈夫だから)

 ――さすがに、空中で命のやりとりをする経験は持たなかったせいかもしれない。

 操縦席の小型モニタを、シトラは凝視した。

 この機体のはるか後方に、小さな黒点があるのが見て取れる。暗い紅色に染まった空を背景にして、それは見間違いようもなく存在していた。

 シトラの不安を察してか、アスは沈黙を破った。

 「追っ手が来たみたいだ。距離は七千メートル。数は……三機。発信地からはすでに二万メートル移動。もう海の真上だから、撃墜されたら助からないな」

 アスは、レーダーなど種々の計器類を目で追っている。シトラには分からない情報を、そこから読み取っているようだ。

 「逃げ切れるの?」

 シトラはその答えが知りたかった。なので、焦りを隠しもせず聞く。

 それに、焦りは隠しきれないほどでもあった。

 「正直言うと、分からない」

 沈んだ表情で、しかし淡々とアスは答えた。

 操縦に集中しているのだろう。これで言葉の発し収めとでもいうように、神妙な面持ちだった。

 「そんなことは考えないほうがいいよ。考えても仕方がないんだし。頼りなく思うかもしれないけど、今は僕に任せておいてくれ」

 「あ、そんなつもりじゃないんだけど」 

 こちらを安心させるためか、アスは短くうなづいた。

 「さあ、舌を噛むからもう喋らないでくれよ……!」

 瞬間、アスは操縦桿を精一杯と見える力で押し下げた。

 

 決勝点を目指す競走馬のごとく、戦闘機は狂ったような吼え猛りをあげた。噴射炎が尾を引き、自らの航跡を次々と後方に刻んでいく。

 追っ手の3機は、こちらと劣らぬ速力でまっすぐに突進してきていた。が、突如進路を変える。3機とも別々の位置に分散し、それでいてなお追跡を続けている。

 おそらくは同じ種類の機体なのだから、本来は追いつかれようがない。しかしこの先、どれほど飛び続けなければいけないのかが、シトラにもアスにも分からなかった。よって、派手な速度を出して燃料を浪費することはできない。必然、出せる速度に限界が生じる。

 そのせいか、追っ手は徐々にこちらとの距離を縮めていた。手のひらで摘みこむように、こちらを包囲するつもりらしい。

 距離が一千メートルに縮まる。その距離は、一般的な航空機銃のだいたいの射程距離であった。

 刹那、アスは反射神経の赴くままに腕を倒した。

 操縦桿が切られる。

 風切音だけを抜け殻として、戦闘機は下方に旋回した。曲がる角度はかなりきつく、一時的にほとんど海面に向かって突き進む形になる。

 追っ手も、直ちにそれに続いた。

 奇襲の望めないドッグファイトの戦場で、勝敗を左右するのは操縦者の技量のみ――

 そんなことを見せ付けるかのように、アスはさらに複雑な命令を戦闘機に与えていった。

 戦闘機は、ただ忠実に従う。

 さらに右方に旋回し、そして追っ手との距離がさらに縮まっていく。それが700メートルほどになると、追っ手は発砲を始めた。

 殺害の意思を剥き出しにした金属の矢が、雨あられと戦闘機に降り注ぐ。

 当たらない弾丸の中には、機体の外の数メートルまで迫るものもあった。大気に空隙を生じさせるまでには至らない速度だが、それでも肉眼ではとても捉えきれない。日常世界では決して耳にする事のない鋭い音が、その存在を強烈に主張するばかりだった。

 何にせよ、戦闘機は敗北の瀬戸際にある。

 避けきれるか、命中するか、それだけは技量でコントロールしきれるものではないのだ。すべては賭けだった。

 だがそれすらも、一対一での話である。

 複数の原点から伸びる死の直線に対して、それと重ならないように移動するのは不可能だ。賭けにすらならない。

 操縦者は、あえてその不可能な選択肢を採る。射撃の的になる、まさにその空間へと戦闘機は飛び込んでいった。それは、血迷った獲物の所業のようなものだった。

 少なくとも、追っ手はそう認識したらしい。

 とどめの一撃を見舞おうと、三方からなる包囲陣は剣呑なまでの加速度をもって爆縮してゆく。

 直接弾丸を撃ち込まれる――その一瞬前に、アスは加速釦に親指を押し込んだ。

 鎖から解き放たれたように、戦闘機は速度を増す。今までの速度の制約を破ったためか、追っ手の三機はそれに反応しきれなかった。慌てて機首を右へ転じている。こちらを視界に納めようとする動きだった。

 「こっちに来い……」

 アスはつぶやきながら、一気に機体を上昇させる。

 戦闘機の前方数百メートルのところには、茫漠たる無数の水滴の集まり――すなわち雲があった。戦闘機は少しも速度を落とすことなく、雲の中へ進入していった。

 太陽光が、分厚い水の層にさえぎられる。

 もともと薄暗く、遠くまでは見えにくい視界だった。雲のせいで、与えられる情報量がさらに減じていく。

 しかも、悪条件はそれだけではない。

 たちまち、激しい振動が戦闘機を襲った。機体が四散するほどの、地震のような揺れである。雲の中に存在する激しい気流にさらされて、通常のバランスを保っていられる飛行機など存在しないのだ。

 しかし、その流れには一定の方向がある。すなわち、高気圧部から低気圧部へと上昇していく流れだった。

 アスはその流れに逆らわず、機首を上方に固定する。再び加速に制約を課すが、それを補って余りある速力が生み出された。

 異なる世界への昇華。それを目指して、戦闘機は無尽蔵の疾駆を機関から吐き出し続ける。

 止まらず、また和らぎもしない振動に耐えながら、アスは操縦桿を握っていた。たとえ次の瞬間に暴風に砕かれることになろうと、今は手を離すことは許されない。そう自分に説くことしかできなかった。

 精神的な圧迫はいや増すばかりだった。だが、追っ手もそう簡単に勝負を降りてはくれないらしい。三機は、こちらに続いて上昇してきている。

 一方で、その距離は徐々に開いていた。

 雲の中の空間とは、飛行路としては最悪のものだ。その中にいることに、抵抗なり躊躇があるのかもしれない。ほんの数秒前までの不気味な殺意が、追っ手の三機から消え失せていた。

 アスは、戦闘機の切っ先を見つめる。そして、それが指し示す最後の薄い雲の層も。先にあるはずの透明な大気が、わずかな爽やかさを漂わせていた。雲から抜け出るのも近い。

 翼がふっと軽くなる。水滴による抵抗がなくなったせいだった。

 雲の上空に出たのだ。

 そこでは、すでに太陽は没している。月と星のみが、かすかに輝きを放っていた。そして、"鐘"と呼ばれる人造の惑星もそこから見ることができた。

 戦闘機に乗っていれば、"鐘"の発する音は軽減される。それでも、完全に防ぎきれるわけではない。耳の穴深くまで侵入しようとする音に、アスは自分の顔から血の気が引いていくのを感じた。

 歯を食いしばり、脳が磨り潰す痛みを無理やり追い払う。レーダーの画面だけに、全神経を集中した。

 赤い点が三つ、急速に上昇してくる。残り十秒ほどで、追っ手が雲の層を突き抜けることが読み取れた。

 アスは操縦桿を急激に曲げた。機体は右に旋回する。限界まで深い角度での旋回だ。やがて、戦闘機の前後が百八十度入れ替わった。追っ手の出現を待ち構える形である。

 アスは、レーダーを見やる。追っ手は変わらず上昇し続けていた。

 こちらは、蜘蛛のように相手を待ち構えている。そのことが分かったとしても、もはや相手が逃げることは不可能だ。なぜなら、雲の中の上昇気流は、途中で振り切れるほど弱いものではないからだ。

 アスはそのことを知っていた。次の攻撃で、必ず一機をしとめる――それが彼の狙いだった。

 残り時間がほんの数秒となる。

 アスは操縦桿に手をかけた。それに付属した射撃釦にも、指を添える。また、海のように広がる雲の、ある一定の領域のみを凝視した。

 雲がかすかにうごめいた。意識を集中しなければ気づかないほど、ささいな変化である。それでも、今のアスには充分だった。

 骨折するほど強く指を押し付け、同時に腕を前に突出す。

 機体の中央から弾丸が迸った。小気味よい音が響く。それは、命を砕く無情な力そのものだった。微塵ほどの容赦もない。

 水に泳ぐ魚のように、戦闘機自身も前方へ突き進んでいく。弾丸の発射源の移動速度は、そのまま弾丸自体の速度に加算され、凶暴なうなりが弾丸から沸き起こった。

 そしてついに、追っ手の戦闘機が姿を現した。

 雲の残滓を身にまとっている。卵から孵ったばかりの、鳥の雛を想像させる姿ではあった。

 そのことを認識する直前か直後、アスの放った弾丸が敵の機体のほうへ吸い込まれた。

 目標が見えないままの射撃だった。それにも関わらず、時間差を乗り越えて弾丸は命中したのだ。敵の機体後部に、無数の弾丸が次々と突き刺さる。

 ちょうど、燃料の貯蔵部を撃ち抜いたらしい。蜂の巣になった部分から、瞬く間に火の手が上がる。

 敵機は、精密な移動能力を失った。

 姿勢と速度を潔く保ったまま、上昇に上昇を重ねる。炎と黒煙が、途切れることない尾を引いていた。にもかかわらず、撃墜機を包む炎は勢いを止めなかった。

 全身を炎に包まれる直前に、機体はガラスのように爆散した。

 金属の破片と、鼓膜がちぎれるような爆音を周囲に撒き散らしながら。

 殺した敵を悼む余裕もない。

 既に残りの二機が、雲の上に出現していた。それぞれ右方と左方に展開している。

 二機がこちらに迫る前に、アスはそのままの速度で前進した。血眼になり、雲の層を眺め回す。下に降りるためには、雲の途切れ目を探す必要があった。

 やがて、程近いところにそれが見つかる。アスは可能な限りの速度で、下界へ続く道を目指した。

 

 海を臨む空道に復帰し、数分が経過する。新たに一万メートル以上の航行を重ねた。そのときまでに、追っ手の二機はこちらの追跡をあきらめていた。これ以上の損害を懸念してのことだろうか。それは知る由もなかった。

 シトラは、自分の胸を軽く押さえた。

 体の奥底の震えを、必死に抑制する。そのような症状が興るのも、シトラは仕方ないことと思った。一瞬後には死んでいるかもしれないという、極度の緊張状態に身を置くこと。それは、シトラにはない経験なのだから。猫に追い回されるネズミの気持ちが、シトラには分かった気がした。

 心理状態が、身体にも影響を及ぼしている。心臓の動悸が、どうしても止まってくれない。また、いやな味のする唾液が、盛んに口内で分泌されていた。それは、嘔吐の典型的な前兆だった。狭い機内で楽になるわけにはいかないので、シトラは必死に唾液を飲み込む。

 そして、恐る恐るアスに聞いてみる。

 「逃げ切った、の?」

 シトラは操縦席を覗き込んだ。

 レーダー上の赤点が、円形画面の外縁部に移動していく。

 戻ってくる様子は見られない。数秒の沈黙の後、アスは口を開いた。

 「敵機、レーダーより消失。もう追っては来ないみたいだ」

 「どうして? 最初はあんなに脱走者が憎いみたいだったけど」

 「多分、状況が変わっていなければ、この辺りはもうすぐ帝国の勢力範囲に入るはずだ。一度通ってきたから、覚えてるんだ。あの居住区の人たちが出てくるには、ここは危険すぎる」

 「そうなの。ああ、よかった」

 シトラは言いながら、座席の背もたれに体を預けた。ようやく人心地がついた気がする。看護帽を脱ぎ捨て、脇に置いた。額にうっすらと沸いた自分の冷や汗を、手で拭い去る。

 自分たちは、死線を潜り抜けた。それは信じられないような幸運だと、シトラは感じた。もっとも、運というよりはアスの技量によるところが大きいかもしれないが。

 無遠慮を感じつつも、シトラは聞いた。

 「でも、こんなに強いのにどうしてあなたは撃墜されたの?」

 「確かにヘンだな。……けど、自分でもよく分からない。ただ、なんだか知らないけど今回は生き残れた。それだけだよ」

 「ふうん……」

 彼に分からないのなら、シトラに分かるはずもない。だが、分かることもあった。

 (わたしは無関係な人を殺した。ううん、わたしが殺させたのね)

 撃墜された戦闘機に乗っていた人は、居住区の兵士だろう。

 シトラは、自分に構わなければ殺しはしないと、宣言した。それなのに、向こうが勝手に追跡して来て、先に発砲までしてきた。だから、殺されて当然だとも言える。

 しかし、仮にそうだとしても、こちらの都合でひと一人の命を奪ったことに変わりはない。

 (できるなら、誰も傷つけたくなかった。でも、しょうがないじゃない。そうしないと、わたしは帰れなかったんだもの……)

 シトラは歯を食いしばった。誰に言い訳しているのか分からない。

 (それに、わたしは自分で殺したんじゃない。アスに殺させた。彼は本当は、わたしの都合なんか関係ないのに)

 操縦席を盗み見る。

 何事もなかったかのように、アスは操縦を続けていた。心なしか疲れたようには見える。

 だが、それだけだ。罪の意識を持っている様子は窺えない。

 きっと、殺し殺されることが彼の――というより、兵士というものの日常なのかもしれない。彼はまだ少年とはいえ、立派な兵士である。成り行き上仕方なかったが、彼に汚れ仕事をさせてしまった。しかも、彼には関係のない理由で。

 それは、とても恐ろしいことだった。

 だが、考え方の違いだろうか。アスはそのようなことを省みる様子がない。戦うことが、当然自分の仕事だと思っているかもしれない。そこまでは分からなかったが。

 (わたしが彼を巻き込んだんだから。いまさら言い訳なんてしちゃいけない。最初から、これはわたしのわがまま)

シトラは、アスに何か言うべきだと思った。しかし、何を言いたいのか分からなかった。

 (感謝の言葉? それはちょっと場違い、ていうか不謹慎だし……謝罪、はなんかウソ臭いし)

 もっと時間がたてば、こんなことで悩んでいるのは馬鹿らしく感じるのかもしれない。それが分かっていても、肝心の答えを、シトラは見出せなかった。それを探り当てない限り、悩みは消えそうにない。

 そのとき、シトラは言葉を記憶の底から掘り起こした。

 (考えても仕方ない、か)

 少年自身が発した言葉だった。そういう心境は、シトラにはいまいち理解できないものだった。そこまでシトラは、運命に対してドライな態度はとれない。

 しかし、念頭に置いた意味が違うとしても、その言葉には真実の片鱗が感じられた。きっと、アスと同じ時間を、ほんのすこしながら共有したせいかもしれない。

 ほんのすこしだけなら、そういう考えに妥協するのも悪くはない。

 (なにか言うのは、野暮ってものかな。このまま黙ってればいいか……そうしよう)

 人に迷惑をかけながら、何も言葉をかけないということになる。

 だが、それでよかった。ありきたりな感謝の言葉では、かえって彼の名誉に傷をつけるだろう。それに、人に迷惑をかけるというのも、親しみを表現する手の一つかもしれない――そうシトラは納得した。

 「なあ、さっきから黙ってるけど、どうかしたの?」

 片目だけこちらに向けて、アスは怪訝そうに言った。

 「あ、ううん。なんでもない」

 「そうか。ところで……」

 彼はちょっと迷ったように、視線を下にずらした。が、結局口に出す。

 「これから、君はどうするつもりなんだ? どこか行くあてがあるのかい?」

 「当て? わたしは、故郷に帰って――」

 「そこで暮らすっていうの? でも、君は任務を放棄したスパイなんだろ。そこにいたら、すぐに見つかっちゃうんじゃないか」

 「うーん」

 シトラは軽く唸った。

 (そういえばわたし、本当にどうするつもりだったんだろう。故郷に帰る事ばかり考えていたけど、その後のことなんて何も思いつかなかった)

 首を捻って考える。

 話が続かないので、とりあえずシトラは思いついたことから語った。

 「私の家族は、もうそこにはいないの。ていっても、いなくなっちゃったのはずっと昔。だから家族の顔も思い出せないんだけど。結局、わたし頼る当てもないのね」

 シトラは、かすかに笑った。

 寂しさを誤魔化すための笑いだったのだが、そんなものを必要とするという事実そのものが、よりいっそう寂しさを増長してしまう。

 「君の家族、亡くなったのかい」

 「分からない。離れ離れにされて、わたしはすぐ工作員養成キャンプに放り込まれたそうだから。分からないの」

 「そうだったのか」

 感情が、空気を通って伝染する。

 肉親を覚えていなくとも、故郷の景色だけはきわめて鮮明に思い出せた。

 (悲しいって、思ってもいいよね……)

 誰と一緒にいた記憶もない。一緒にいたといえるのは、ただ海と風などの自然物だけだった。そんな記憶は、何も盛られていない器のような虚しさがある。

 病院に居たときは、そこは確かに自分の家だと思い込むこともできた。親しかったり、気に入らなかったりした人も、いっぺんに思い出しきれないほどたくさんいた。フリュクテをはじめ、とくに懇意にしてくれた人たちは、本当に家族のようなものだった。

 しかし、実際にはそうではありえない。シトラは結局、その人たちを偽り続けたのだ。そして、別れを告げることもできず去ってしまった。もう一度会うことがあるとして、彼らに許してもらえるだろうか。シトラには分からない。

 そして今は――そんな偽りすら捨ててしまっている。

 シトラは、胸に大穴が開いたような感覚に耐えた。そして、言い続ける。

 「故郷の土を踏めさえすれば」

 「うん?」 

 「……もうどうなってもいい、と思ってたかも。今までそんなの意識したことはなかったけど。今は、そう思う」

  シトラは手を握り締めた。

  「君が、そんなに故郷のことが好きだとは知らなかった」

 思いつめたように、アスは戦闘機の速度計を凝視している。

 具合でも悪いのかと思って、シトラは声をかけようとした。だが、アスに先を越される。

 「シトラ、ちょっと提案があるんだけど」

 「なに?」

 「もし君がイヤでなければ、の話なんだけど――」

 頭を掻きながら、アスは言葉を詰まらせる。いつも歯切れのよい彼にしては、珍しい行動だった。少なくとも、シトラはこういう彼を見たことがない。

 やがてアスは、敵の弾丸を回避したとき以上の真剣な面持ちを見せた。そして告げる。

 「よかったら、僕の故郷に来てみないか」

 唐突な言葉に、シトラは面食らった。

 「あなたの故郷に……」

 アスは、すまなそうに視線をずらす。

 「ああ、いや、君の故郷みたいに自然がきれいな所じゃない。小さい地方都市なんだ。どっちかというと、薄汚れたかんじのするところだけど」

 「……えっと、そうじゃなくてさ」

 頭のこんがらかりはいかんともし難い。なのでシトラは、説明を求めた。

 「じゃあ、説明させてもらうと……ええと、僕が帝国に帰ったら、いちおう傷痍軍人ということになるんだ。敵地から脱出してきた訳だから。君みたいに、任務を放棄してきた訳じゃない」

 アスは曖昧に微笑んだ。しかし、口元が引きつっているので、歯に挟まった食べ物を取ろうとしているかのように見えてしまう。

 「任務を終えた軍人には、住むところが保障されるんだ。まあ、土地がもらえるわけじゃなくて、安く貸してもらえるだけなんだけどね。本当に自分の所有にしたければ、もっとお金を払わないといけない」

 「ほんとう?」

 「うん、それは確かだよ。兵士になりたいって人が少ないらしくて、恩給はけっこう奮発してる。それが目当てで軍人になったんだから」

 そのとき、戦闘機のバランスが崩れた。

 座席の底が大きく揺れ、シトラはガラスに接吻しそうになる。

 元の状態に直そうと、アスは振り返った。操縦のほうに集中している。が、そう見えつつも、彼は会話を続けた。

 「そんなわけで、一応暮らしてはいけるはずなんだ。だから、僕と一緒に来ないか?」

 「あなたと?」

 シトラは息を呑んだ。それが、あまりにも思いがけない申し出だったからだ。答えられないでいると、アスはさらに告げる。いつになく張り詰めた声音だった。

 「ああ……まだ君に死んでもらいたくはない」

 「そう」

 シトラは自らの強運に、半ば呆れつつも感心した。

 人とのつながりがもう絶たれてしまった――そうなったと思った。しかしそのすぐあとに、またこうして新しい関係が生じたのだから。

 「それもいいかもね。ただ――」

 シトラは言いかけて、中断した。

 透明な水に浸されたように、シトラはさまざまなものをよく見ることができた。他人のものをみるかのように、自分の過去が客観的に明らかにされる。

 自分が泣きながら追い求めたもの。まだきちんとした形にもなっていない。そのごく一部分、核となるものだけがはかなく宙に浮いている。

 (わたしが欲しかったもの……)

 ほんとうに幸福な人は、そもそもの最初からそれを持っているのかもしれなった。疑いようもなく、確固とした地盤を伴って。

 シトラにはそんなものは与えられていない。

 (だったらこれからも、それを欲しがってもいいよね)

 確かめる相手もいない、なんと壊れやすい言葉だろう。それでも、信じるしかないのだとシトラは悟った。

 自分の好きなようにすればいい。そんな自分の内なる声に、シトラは従った。

 「一つ約束して欲しいの。身を隠して移動できる余裕ができたら、私はどうあっても故郷に行かないといけない。それまででいいなら」

 「ああ」

 その時、またアスはこちらを向いた。

 彼はさっぱりした微笑みをみせていた。彼と出会ってから日は浅いせいか、彼がこんな顔をできることも知らなかった。

 「まあ、その時は僕も着いて行けばいいよ。考えてみたら、僕にだってもう身内は君しかいないんだから。それに僕は、シトラほど故郷に執着していないしね」

シトラははっとした。あることに、たった今気がついたのだ。

 それは、シトラとアスの距離がとても小さいということだった。

 戦闘機が狭いせいである。いちいち振り返らずとも、話しは聞こえるくらいだった。だが、実際は振り返っている彼の顔は、驚くほど近い。

 彼の言葉を認めるように、シトラも微笑み返した。

 「うん。アスのお好きにどうぞ」

 二人は、声をあげて笑いを共有した。それはまだ、控えめなものに過ぎなかったが。

 (いまは、これでいいの)

 シトラはそう言い聞かせた。乳母のように、他の誰かを丁寧に受け入れたかったのだ。

 それでいて、他の思いもある。シトラの体に触れたアスの皮膚から、それが伝わってきた。血管を通って、腕へ、上半身へ、そして全身へとそれが巡っていく。

 誰かの腕に抱かれる――そんなときに生まれてくるらしい。ゆりかごに寝ているかのような、安らかな気持ちが。

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