前編
沢山の薬品と包帯の山が、手押し車の上に載っている。時々それにちらりと視線を寄せつつ、少女は伝票とにらめっこをしていた。
それは、痛んだ体でも楽に出来る仕事ではあった。しかし、普段の重労働と比べれば、の話である。2時間も席を立たずにいれば、さすがに肩と腰にくる。
「ええっと、バナンカプセルを東病棟に40。アストニン液を30……で、要冷凍、と」
医療に用いる様々な品が、きちんと搬入されているかチェックする。そして、何をどこに送ればよいのかをいちいち書き付けていく。
面倒かどうかはともかく、地味な作業であることは確かだった。常に見習い看護婦に回される雑用とはいえ、病院の機能を保つのには重要な仕事だ。
よって、少女は真面目に取り組んでいた。だが時を経るにつれ、背中の引きつりがいよいよ酷くなっていく。少女は、ついに立ち上がった。
「ふぅ」
労働の鎖から解き放たれ、少女は息を吐き出した。
狭い部屋なので、大して手足を伸ばせない。だが、いつものようにいちいち廊下に出て、道行く患者や看護婦に健康的な体操姿を披露する気分ではなかった。
首、肩、腰と、思いつく限りの部位を動かし、疲労感を飛ばす。最後に、目玉をぐるぐると回して、再び仕事に戻るつもりだった。
「あ」
その時、椅子の上の鞄が目に入った。少女の私物である。
ふと思いつくことがあって、少女は鞄を膝に置いた。入れ替わりに、少女が椅子に腰掛ける。
「お……っと」
看護服の袖が、薬品棚にひっかかった。慌てて外す。
その間にも、左手が目当てのものを探し当てた。
それは、表紙の汚れたスケッチブックだった。細かい砂のようなものが少なからずくっついていて、表面に触れるとざらざらする。それでなくても、もう何年も前に買った物なので、全体的にしなびて見えた。
砂を拭い去ってしまわずに、少女は紐を解いた。表紙を一枚めくる。
そこにあったのは、これまた褪せたような紙だった。しかし、その紙に描かれた景色は、今でも色褪せずにはっきりと思い出すことが出来る。
「海、か」
囁くくらいに小さく、少女は独りごちた。
何年もの間、描き溜めてきた海の絵たちを、ぱらぱらとめくって眺める。
いつもの岩場から見た平凡な海や、砂浜の方まで遠出した時の鮮やかな海。特に、荒れた天候の時に写生した、陸地をさらっていく波濤の偉容は忘れられなかった。自分も海の中に飲み込まれてしまうのではと、おっかなびっくりしていたた。だから、少々ゆがんでいる部分もある。
病院に来てから描いたもの、それより前に描いたもの、など様々な絵があった。
黒鉛筆で描かれた波が動き、砂がざわめく。なかば夢想しながら、少女は絵に没入した。
動いている部分は力強く濃く、静かに止まった部分は柔らかくしなやかに。いくつもの線が交錯し、どの絵も全体として、生き生きとした海の世界を紙面に再現している。
それらは決して忘れたくない、大切な景色だった。もう何度も見返したので、絵の様子は細部に至るまで脳裏に焼き付いている。
少女は半分、海辺にいるような気持ちだった。思い出に浸りながら、じっと座り続ける。窓から入ってくる風は、無機質に乾いてはいたが。
絵の上を手で、優しく撫でる。紙のざらざらとした手触りは、小さな粒に似ていなくもなかった。指先を見ると、黒い炭が少し付いている。
「今度は、いったいいつ行けるんだろ」
海上を行く帆船のように、思いをめぐらせながら、少女はため息をつく。
そうして、少女が目を閉じかけていると、ドアノブを回す小さな音がした。
一度身震いしてから、少女はドアに目を向ける。ちょうど、少女の同輩が部屋に入って来たところだった。
「やっほー、シトラ」
見習い看護婦が、帽子を小脇に抱えて声を発する。ブロンド色の髪を揺らしつつ、兵隊のように敬礼の姿勢をとった。そして彼女は、後ろ手にドアを閉める。うずたかく積まれた薬品や包帯の固まりを、意外そうに見やった。
「どう、体は大丈夫?」
「えーと、ま……なんとかね。わざわざ様子を見に来てくれたの」
シトラは嬉しくて、同輩に向かって微笑んだ。
彼女は、同じころに看護婦になった友人だった。フリュクテという名前だ。
フリュクテは思案げに、シトラの顔を覗きこんでいる。
すると、彼女はさらに顔を近づけてきた。
「そうよ、よかったら感謝してちょうだいね」
フリュクテは可笑しそうに、手を口元にやった。そんな彼女の姿は、花畑のように鮮やかだった。
「うん、ありがとフリュクテ」
と、そこで止まるのかと思いきや、フリュクテはなおも顔を突き出してきた。彼女の細い瞳が、シトラの視界をどんどん埋めていく。
「?」
訳がわからず、シトラは目をぱちくりさせた。
ついに、フリュクテの額とシトラの額とが、こつん、と軽くぶつかる。紙一枚、すきまに入りそうにない。お互いの頭蓋の硬さが、直接にお互いを感じさせる。そんな距離だった。
こちらの目の中までも見透かすような調子で、フリュクテは言った。
「ほんとに大丈夫ー」
間延びしたような、からかうような口調で聞いてくる。
フリュクテがふざけていると知って、シトラは軽く吹き出した。フリュクテの肌に直接伝えるようにして、シトラは答えた。
「朝ごはんもたっぷり食べたしたし、もう元気いっぱいよ」
それを聞くとフリュクテは、さっと額を離した。そして、じんわりと温かい手の平を、シトラのひたいに押し当てる。
「うーん」
と一声うなって、さらに、
「たしかに熱はないみたいですねぇ」
右手で人の額をさすり、フリュクテはあっけらかんとした表情で言った。まるで、小さな幼児の患者に対するような言葉遣いだった。
そんな彼女と、シトラは一瞬目を見合わせる。
そして思いがけず、盛大に笑い出してしまった。シトラを見て、フリュクテも我慢できなくなくなったのか、一緒に笑い始める。
病院の一室は、つかの間の華やかさに包まれた。
院内食堂へと続いている通路で、フリュクテは向き直った。
どこか打ち沈んだ空気を、隠し切れない。それでも今の時間帯、廊下にはたくさんの人々が溢れている。事務的な表情の医師に、それを焦って追いかける看護婦。ギプスをはめてはしゃぐ子供もいれば、ゆったりと病気とともに歩く老人もいる。
それら、物語るに事欠かない人々には、窓からの光が等しく降り注いでいる。そんな光を吸い込んでか、フリュクテの瞳もどこか、液体のような輝きを帯びていた。
「でも、シトラって時々寝込んじゃうのよね」
「うん……ごめんね、迷惑かけちゃって」
シトラは、少し顔をうつむかせながら謝った。
それは、ただ単純に言ったわけではないのだが。フリュクテはあくまで、表面上の意味に取ったようだった。
「あ、そーいうことじゃないから、気にしないで気にしないで。こっちだって雑用を押し付けちゃったわけだし」
シトラが、なかなか顔を上げないせいか、フリュクテは慌ててなだめる。
だがシトラは、頭の中に引っかかっていることを吐き出せなかった。返答に迷い、無難に一言返す、
「うん、分かった」
するとフリュクテは、何かを思いついたように口を開いた。まなじりに何本か、浅いしわがよっている。 「ところでさ、シトラはもう知ってる」
「なあに」
一度、きょろきょろと辺りを見回してから、フリュクテはシトラの耳に口を近づけた。
「昨日、病院の近くに墜落機があったみたいなのよ」
「ついらく?」
よく意味が取れず、シトラはそのまま復唱する。フリュクテに目で聞き返すと、彼女はじれったそうに髪を揺らした。
「だからぁっ、飛行機が故障を起こして落ちてきたわけ。近くの地上に」
「あっ、そうなの。それは大変」
フリュクテは大きくうなづく。
「そうなのよ。飛行機は完全に爆発しちゃったみたいで。シトラは、昨日は寝てたから気づけなかっただろうけど」
「あ、うん。たしかに、疲れて一日中ふとんの中にいたし」
杖をついているおばあさんを避けながら、シトラはそれを思い出す。昨日は動こうにも、とても動けなかったのだ。将来の生活について深刻に悩まざるを得ないほど、体が痛んだ。今はどうにか、歩くことは出来たが。
「無理ないわね。でもみんなすごくびっくりしてたわ、こんな所まで飛行機が来るなんて」
シトラは、ふと脳裏によぎることがあった。
「え、もしかして、病院のじゃ――」
「しっ。あんまり大きい声で言わないで」
フリュクテは人差し指を口に近づけつつ、シトラを制した。通り過ぎる人々に聞かれていないかどうか、辺りを見回している。
「そうだった。……ここで話さない方がいいかも」
「ん、そーね。続きは夜にしよ」
そのときシトラは、フリュクテの深刻な顔をあまり見た覚えがないことに気づいた。
看護婦というのは、あまり楽ではない。
四年にも及ぶ教育を受けたあと、ようやく医療の現場に出してもらえる。そして、そのころの熱意はいまでも変わらない。しかし実際の仕事は、当時に予想していたより、はるかにきついものだった。なんといっても、肉体と頭脳の双方を酷使する。なので、体全体が満遍なく疲れるということになる。
昨日は調子が悪かったので、重労働は免除してもらった。それでも結局、備品の点検だけで一日が終わったのだった。
「よし」
一方、今日はもう体の痛みも取れている。シトラは、いつもどおりの仕事に戻ることとなっていた。あまり眠れず、多少眼が重たくはあったが。
それでも、病院中を走り回り患者や医師の用を足す――そんなことくらいは、軽くやれそうなほど元気がある。
「朝4時半起床、もんくなしっと」
言いながらシトラは、寝巻きを寝台に引っ掛けた。入れ替わりに、洋服掛けから真っ白な看護服を抜き取る。それが宙でひるがえるのを見るのは、洗濯物が乾いた時のように気分が良い。唇のはしをちょっとあげて、シトラはひとりで微笑んだ。得心の息が、鼻から漏れる。
着替えながら、彼女は思った。
シトラは、看護婦として生きることが好きだった。やはり、とても満足している。たとえ、つらいことがあったとしてもだ。
患者の笑顔をみることは、どうしたところで心躍らせるものだった。自分がここで働くことで、その笑顔を作り出したとなれば、なおさらだった。
時々抜け出すことに良心が動くこともある。だが、それは日々の労働の中に忘れ去る事ができた。
(ま、しょーがない、しょーがない。今日も1日、がんばるぞ)
拳を力強くにぎって、腹の下に気合を入れた。
純白の衣をまとった自分に、改めて新鮮みを覚える。それも、限りなく繰り返してきた毎朝の習慣だった。
そして、もう一つ。
もっともたいせつな習慣を果たすため、彼女は扉に手をかけた。
「いってきま~す」
幾人かの寝顔にむけて、シトラは囁いた。
同室の見習い看護婦たちを起こさないよう、泥棒のようにそっと部屋を出る。
搬入口の外には、広い離着陸場がある。
それを横目に見ながら迂回していく。そうして彼女は、目的地にたどり着いた。
そこには、大きな樹が一本そびえ立っている。いったいどういう種類の樹なのかも知らなかったが、見慣れた樹の節や枝の張り具合をみると、シトラは落ち着いた気分になった。
「さて」
胸ポケットに収まった、携帯用端末に手を伸ばす。電源を入れると、朝の清麗な静けさのなかに、間延びした男の声が響き渡った。
『おはようございます、今朝も無線体操の時間がやってまいりました。今日はサーンレッタ県インペラトル地区のみなさんと一緒にお送りしています――』
シトラはひんやりとした空気を頬に感じて、目をつむった。冷気が皮膚の内側まで染みとおり、とても気持ちがいい。ここにくるといつも、彼女は何も気にすることない時間を過ごせるのだった。
『――それでは、いってみましょう。第一体操っ』
とてつもなくのんきで、軽快な音楽が流れ出した。シトラの意思とは関係なく、音は空気を満たし始める。
まだ眠気の残った眼を、赤くなるほど何度もこすり、シトラは無心に体を動かした。
「あれ」
さっそく仕事を始めようと、足早に廊下を行く時だった。
並んで歩いていたフリュクテが、ゆっくりとシトラを指差した。シトラは立ち止まる。
「どうかしたの」
問うと、フリュクテは寝ぼけたような顔をして答えた。
「シトラ、帽子をかぶってないみたいだけど」
「えっ」
すぐに両手を頭上にやり、看護帽の有無を確かめる。触れるのは自分の髪ばかりだった。彼女の言うとおり、いつもの帽子がなかった。
「あらら」
言いながら、シトラは窓を見る。
向こう側をのぞけないように、加工された硝子。その表面に、看護帽をかぶっていない自分が映っていた。卵のように丸い癖のある髪の毛が、あらわになっている。自分で見てみても、だらしがない。また、もともと小さい背がさらに縮んだようで、しまりもなかった。
どこに帽子をおいてきたのか、見当がつかない。
「ちょっとちょっと……いったいどこに忘れちゃったのかな」
「うーん、部屋においてきたんじゃないの。まあ、後で取りにいったら」
首をかしげながら、フリュクテは言下に答えた。
「でも、あれがないと気分が出ないのよ。ちょっと戻って見てくるねっ」
と告げ終わる前に、シトラはくるりと半回転した。そして、小走りで駆け出す。
「おかしいな。やっぱ、あそこしかないか」
どこにも帽子が見つからず、シトラは腕組みしながら歩いていた。部屋や、体操した場所にも一度戻ってみたが、看護帽は見当たらなかった。
ありそうな場所の中で、残っているのはたった一つ。
一昨日まで、シトラが患者の身分に転落して寝ていた部屋だ。幸い、その時はほんとうの患者はおらず、自分の情けない姿を衆目にさらさずに済んでいた。
(確か、開いた病室だったし。まだ、誰も入ってないよね)
不安を覚えながらも、シトラは立ち止まる。
目的の部屋にようやく着いたのだ。
仕事を始める時刻まで、そう余裕はない。シトラは焦って表札を見た。
(う、うそっ)
真っ白だったはずの表札には、いつのまに入院したのか、誰かの名が1人記されている。その部屋は大部屋だったが、たまたまなのか、たった1人しか入っていないようだった。
(恥ずかしいな~、こんな朝早くから忘れ物取りに来たなんて……まあ、いいか)
看護帽がないと、いつも通りの服装ではなくなってしまう。それだけは、シトラはどうしても嫌だった。
仕方なく、心を決める。
なんでもない風を装って、シトラは部屋に入った。
「失礼しまーす」
頭を掻きながら、そっと中に進んでいく。
布で覆われ、中が覗けないようになっている寝台が、全部で8つある。とはいえ、実際に布がかかっているのは、今は一つだけだった。
(よりによって……)
シトラは嘆息した。
まさにその寝台が、自分の寝ていたところだったからだ。
とりあえず他の七つの寝台を探してみるが、看護帽は影も形もない。
しかたなく、シトラは意を決した。残る寝台のそばに、そっと立つ。
「あの、すいませーん」
寝ていたら起こさない程度に、起きていたらこちらに気づく程度に、ゆっくりと小さく声を掛ける。
患者からは、反応がない。
「あのー、ちょっ……と開けますね」
びくびくしながら断りをいれ、シトラは布を横に引いた。
布が取り去られた瞬間、汗のにおいがつんと鼻腔を刺激してきた。悪臭とまではいかないが、部屋を換気する必要がありそうだと、シトラは感じた。
(男の子?)
寝ているのは、少年だった。
体ごと向こう側をむいているので、顔は見えない。だが、その広い肩幅からして、少女ではない。
少年は、毛布をすっかり剥いでしまっている。そのせいで、体のあちこちに包帯が巻かれているのが分かった。頭も、何重もの包帯に覆われていて、真っ黒い髪の毛が隙間からのぞいている。傷だらけといった体で、どこか痛々しさを覚える姿をしていた。
(起こしちゃっては、いないみたいね)
少年は、看護婦の来訪にも微動だにしていない。それどころか、胴体や腕をだらりと敷布に横たえて、泥のように眠りこけている。寝息も、深いままだ。
少年を起こさないよう、
「帽子は、どこだろ」
呟きながら、シトラは見回した。
しかし、どこにも看護帽は見当たらない。寝台の上はもちろん、床と寝台のあいだや、折りたたみ式の卓子の中などを見ても、ないのだった。
確かにここは、シトラが寝ていた場所だった。もうここ以外に、帽子がありそうな場所はない。ここにもないとすれば、完全に紛失したとしか思えなかった。
シトラは、肩を落とした。
(あー、もう。困っちゃうなあ)
ふと掛け時計を見上げると、もう仕事の時間まで五分ほどしかない。
「急がないと」
しきり布をゆっくりと閉め、振り返る。
シトラは、体の一部を削がれたように、落ち着けなかった。
(いつも身に着けてるのがないと、なんか不安、かな?)
彼女には、それが少し怖いことのように感じられた。
いつもと違うことが起こると、どこへ行ったらいいのかが分からなくなる。いつまでこの病院にいられるのか、その期限が明日にも迫ってくる――そんな気がしてしまうのだ。
しかし、見つからないものはどうしようもない。諦めて、戸の方へ歩き出す。
すると、後ろで声がした。
「あの……」
「え?」
シトラは驚いて向き直る。
寝台の付近は、何も変わったところはない。さっきと同じく、そこにあるだけだった。ただ、かすれたような声だけが耳のみで捉えられる。
「これ、開けてくれませんか。いま立てないので」
覆いの向こう側から、その声が頼んできた。シトラはあわてて駆け寄り、布をふたたび開く。
(喉が痛そうな声ね)
声の弱弱しさと同じく、少年の顔はやや頬がこけて不健康そうだった。
その少年は、首だけをこちらに向けている。体は、さっきまでと同じく、布団にじっとりと沈み込んだままだ。なんとなく、生気が感じられない。
「ごめんなさい、起こしちゃいました?」
くちびるの端を軽やかに上げつつ、シトラは謝した。患者と会話する時には、この表情をするのが常だった。患者を安心させるのが看護婦の責務の一つというものだ。
少年は少し目を反らして、答える。
「いえ、いいんです。もともと半分は起きてたから」
改めて見てみれば、その少年はそう大柄でもなかった。病気か怪我でやせているのかもしれないが、もともと小柄な体型なのだろう。シトラより、少し年下かもしれない。
「それならいいんだけど。私はちょっと探し物に来ただけなので、点滴とかがあるなら、まだだと思いますよ。もう一眠りしたらいかがですか?」
「いや、えっと」
少年は口ごもる。
シトラが瞬きしながら見つめると、少年は、体をひねって腕を伸ばした。床にあった荷物を、指先ですくい取る。
どうやらそれは、シトラの死角に置かれていたらしかった。
今度は体をこっちに傾けて、
「いま、帽子を探してるって言ってたけど、ひょっとしたらこれじゃないですか」
「え」
取り出して見せたのは、まぎれもなく看護帽だった。手渡してもらい、裏地を見る。
確かに「シトラ」という文字が、へたくそに刺繍されている。
シトラは救われた思いで、感謝を口にした。
「あ、確かにこれ、私のです。なくして本当に困ってたの。どうもありがとう」
少年はかすかに頬を上向かせて、応じる。
「僕が、あの……こないだここに来たとき、部屋の隅のほうに落ちてたんです。誰かが取りに来たら、渡そうと思って。そんなに大事なものなら」
少年はシトラと目を合わせて、ピタリと動きを止めた。数秒の沈黙の後、少年は言うべき事を選ぶように、ゆっくりと続ける。
「失くさなくて、よかったですね」
砂漠の中の水たまりのように、彼は微笑みかける。そんな彼の所作は、笑っていてもどこか寂しげだった。それが今にも崩れてしまいそうにシトラは思った。
(よっぽど、怪我がひどいのかな)
少年は足を折っているらしい。右足を分厚く包帯で包み、寝台の鉄パイプの上に乗せている。しかも、そこだけでなく全身に包帯がちらほら見えた。満身創痍、といってもいいほどだ。
(まさか、交通事故?)
「はい、ほんとに。それでは、えーっと」
シトラが言葉に詰まると、少年は即座に口を挟む。
「僕は、アスといいます」
「アスさん? 2音節の名前なんて、ちょっとめずらしいですね。ともかく、お大事にしてください」
シトラはいつもより余分にはにかみながら、慰めの言葉をかける。
「はい」
アスと名乗った少年は、そう答えた。が、彼のまわりには、どこか霧のようにとらえどころのないものが漂っていた。触れようとしても、さりげなくかわしてしまうような。そんな彼から、シトラは小枝を少しずつ落としていく樹を連想した。
(でも、なんか不思議な子)
笑顔を崩さずに、シトラは軽い会釈を最後に残す。布を引いて寝台を再び覆い隠した。
何日かぶりに頭にはまった帽子は、シトラの体の一部そのものだった。氷が融けて水を広げるように、馴染んだ感覚を甦らせている。アスのことは気になったが、なんとか仕事は始められそうだった。
掛け時計を見ると、
「げ、もう時間を過ぎてるじゃないっ」
もう彼と十分間も話していたことが示されていた。急いでシトラは、戸のほうに向かう。
少年はもう眠りに落ちてしまっていたかもしれないが、一言だけ付け加えた。
「それじゃ、おじゃましましたー」
(あの子、もしかして……)
シトラはその場を後にした。
結局、仕事を始めるのはすこしばかり遅れた。
「ね、フリュクテ」
狭い空間の中で、ささやいた声が幾重にも折り重なった。
だが、その声は隣まで届かなかったようだ。フリュクテから、返事は帰ってこなかった。
空気は湿気に満ちている。
そのせいで、目の前にあるはずのタイル張りの壁すら、すこしぼやけて見えた。加えて、会話も成り立たない。
反面、水滴が肌の上を這っていく冷感と、石鹸の質素な匂いは、とても鮮やかに感じられた。自分の輪郭をかたち作っているのは、いまは肌に触れる感覚だけだった。。
とうぜん、考え事だけがじわじわと進んでいく。
(今日のご飯はなーにかな?)
食堂で出される食事、それは重要な問題だった。そのことをシトラが考えない日は、ほとんどない。ふと、先日の雑用で仕入れた知識が頭に浮かんだ。
(食糧が病院に輸送されてくるのって、えっと、確か十日に一回だったっけ)
自分の寝台の、枕元に這ってある暦を思い浮かべる。
「はぁ」
お湯のしたたるシトラの唇から、息が漏れた。
ちょうど、隣のシャワー室からフリュクテが声を掛けてくる。
「なんか言った? 今ちょうど洗ってたんでさ」
「ああ、うん。えっと」
「うん」
蛇口をひねる音と、フリュクテの体重が壁のほうに移る気配だけが分かった。
「こないだ、飛行機が落ちたって言ってたじゃない」
「……うん」
「わたし多分、その人を見たと思う」
フリュクテが息を飲んだ。
「その人って、飛行機に乗ってた人のこと? ほんとうに?」
「うん、ほんとう。一番西がわの病室で、見たの。多分、そうだと思う」
「なんで分かったの?」
「だって、かなり怪我してるみたいで、全身に包帯巻いてて。あと、事故の日に来たみたいだし――」
手拭いを頭に掛けて、シトラは戸を開いた。
水滴の床に垂れる音が、ざわざわと耳に響く。肌から上がった蒸気が、まだ視界を覆っていた。
(フリュクテはどう思うかしら)
考えながら、シトラは個室から出た。
同時に、フリュクテも出てきた。巻き癖の残った彼女の髪が、不安げに揺れている。
「それ、その人が言ってたの?」
「うん。ほんとにあれに乗ってたのか、直接は聞いてないけど。でも、それ以外には考えにくいなぁ」
「ふーむ」
腕組みして、フリュクテは唸った。深刻そうな表情で、何か考えている。いつもなら、ふざけているのかと思う所だった。
そしておもむろに、シトラを見やる。
「ねえ、どんなだった? 怖そうなの、やっぱり」
眉をひそめて、フリュクテは囁いた。
「ううん、別にそうじゃじゃなかった。わたしも、まさかと思ったけど。なんか、全身怪我で弱ってた」
「そう」
話しながら、シトラはあの少年のことを思い出した。
本来よりも体が縮んでしまったような、あの弱弱しさ。とても、こんなところまではるばるやってきそうには見えない。それでも彼は、ここまで生き延びてきたのだ。そのこともまた、シトラには驚きだった。
この小さな病院に日々を送る自分とは、まるで違っている。
「わたし、また行ってみようかな」
それを口に出すつもりはなかった。だが、いつのまにか口が滑ってしまう。
フリュクテは、即座にシトラを見やる。墜落した飛行機を見たように、眼を大きく見開いていた。
「なに言ってるの? なんでわざわざそんな……」
フリュクテは、シトラに詰め寄った。
「ほんとに危ないわよ」
音を立てて、水滴がシトラの頬に当たった。細かく飛び散って、湯気の向こうに消えていく。
「あっ」
シトラは、思わず一声あげた。
「うん、そだね。危ないよね」
「そうよ、うかつに近づいたら何をされるか。だって、ちょっと前までは――」
まるで独り言のように、フリュクテは言った。
「――敵だったんだから」
彼女の軽薄な雰囲気は、完全に消えうせている。むしろ、何か重々しいヒステリックなものを見せていた。
(そう思うのも、無理ないか)
シトラは失望に沈み込んだ。しかし、拳を震わせて、それに耐える。表に出すわけにはいかなかった。
無理やり笑顔を作る。
フリュクテの震えた肩に、シトラはそっと手を置いた。彼女の肩はしっとりと濡れて、なんとなくつかみ所がないように思えた。
構わずに告げる。
「変なこと言ってごめんね。さ、もう行こ」
フリュクテは恐ろしさを隠すように、胸に手をやっている。彼女の顔は蒼白になっていた――とまではいかない。しかし、頬の筋肉は引きつり、視線は床に釘付けとなっていた。
「う、うん」
ややぎこちない首の動きで、フリュクテはうなづく。
そんなフリュクテの態度は、シトラには少し寂しくもあった。あの少年が凶暴な人間だとは、一目見ればとても思えるはずがないというのに。
それでも、フリュクテは見に行こうともしないだろう。そういう確信が、シトラにはあった。
(敵……か)
歳相応なフリュクテの横顔が、それを物語っている。
シトラはすぐに気を取り直して、別のことを考え始めた。
呪文のように、小声で唱える。
「ご飯、ご飯……」
普段どおりに振舞おうと、彼女は決めた。
その日は、朝から空気が凍りついていた。看護服を着ていても、肌寒さは避けられない。鉛筆を持つ指先も、すっかりかじかんでしまう。
それに、冬の病院は、シトラはもとからあまり好きではない。普段の隠れた陰気さが、余計に膨張してはみ出してしまうように思えたからだ。
「はふ……」
左手が、あくびの息でほんのりあたたまる。
それはわずかな熱に過ぎず、指先はまたすぐに氷のようになった。それは、体の芯まで侵してしまいそうな寒さだった。
「あっ?」
膝に乗ったスケッチブックを、シトラは見る。
鉛筆が、紙の上をうまく滑ってくれない。線がぐにゃりと曲がる。シトラは、水平線を描いたつもりだった。しかし、そのよじれたようすは、なめくじの這った跡のようだった。
「だめだ、こりゃ」
シトラは嘆息する。
昨日寝付いてから、彼女は夢を見た。もう何度目になるか分からない、海の夢だった。今は冬だというのに、夢の中の海はそれとまるっきり真逆だった。その風景を思い出して、紙の上に再現していく。
暑い日ざしがそそぐ夏の海を、シトラは鮮明に見た。静かに揺れる波面と、そして沖に出て行く一隻の船を、特に覚えている。
再び鉛筆をとる。しかし指先が小刻みに揺れて、とても描けなかった。なぜこんなに震えるのかと、不思議に思うくらい指が動かない。
シトラは、椅子に腰掛けた尻を上げる。
「そろそろかな」
描くのはひとまず諦めて、鞄にスケッチブックを入れた。
だが、その理由は寒さだけではなかった。
向き直る。
待合椅子の並ぶ廊下を見回し、シトラは自分のほか誰もいないことを確かめる。そして、壁のある一点に眼を向けた。
先ほどから、わずかな衣擦れの音が聞こえてきていた。部屋の中から、に違いない。その前までは、完全に静かだったというのに。
それは、寝ている患者が起きた証だった。
「お邪魔しますね」
シトラは室内に入る。
中の様子は、このあいだ来た時と変わりがない。ずらりとならぶ寝台の中で、一台だけに布が渡されている。
シトラの所作は、ゆっくりとしていた。しかし、以前ほどではない。もう、寝ている人を起こしてしまう心配はなかった。
シトラはその寝台に近寄り、そして断りなしに布を払い開けた。
「おはようございます」
挨拶をかける先には、少年が横になっている。少年は仰向けに、まっすぐと天井を見つめる姿勢だった。顔をこちらに傾けて、何かを言ってくる。
「あれ、すこし早――」
とたんに、少年の顔が疑問に染まる。
「あの……?」
「えっと、覚えてますか。わたし」
シトラは微笑みかけながら、自分を指差した。少年はたどたどしく答える。
「はあ。確か、こないだの」
「はい」
言う間に、シトラは背もたれのない椅子を引き寄せた。手の平と一緒に、鞄を膝の上に置く。少年の顔を見たまま、表情は崩さない。
彼は力なく寝ていた。
それに、相変わらず悲しそうな雰囲気を漂わせていたし、すこしやつれてもいた。
だがそれ以上に、彼は不安を露にした。眼は見開かれ、口はわずかに開いている。放たれた物を受け止めるように、あごを引いている。その顔は、どこか昨日のフリュクテの顔にも似ていた。
「僕を――」
口にすることもできないというように、少年は素早く目を反らした。シトラのつま先をじっと睨みつけて、口を結ぶ。
数刻の沈黙が訪れる。
なぜか、少年は今にも叫び出しそうだった。
だが実際には叫ばず、静かな調子で言い続ける。声がかすかに震えを帯びて、シトラの耳に差し込まれた。
「僕を、殺しに来たんですか」
火のような瞳が、シトラをおもむろに見返した。少年の変貌があまりに急なので、シトラはあわてて応じる。
「え? 何を……」
「嘘はつかないで」
少年は語気をあらげた。
「どうせこうなるってことは、最初から分かってた……」
そして、一気に吐き棄てる。
「ここで捕虜になった人間が、生かしておかれるはずがないんだ!」
病室の空気が、痛いほどに震える。
少年の行動はまったく予想外だった。シトラはすこしたじろぐ。少年がつかみかかってくるかと思ったからだった。
「殺すって……?」
(あ、でも動けないんだ)
幸か不幸か、少年は骨折で動けないらしい。憎憎しげにシトラを見上げるばかりで、他には何もしてこない。安堵して、シトラは一息ついた。
(よかった、騒ぎになったら困るし)
せっかく早起きして、寒い中を廊下に張り付いていたのだ。失敗する訳にはいかなかった。捕虜になっている人間に会いに行くというのは、人目をはばかる行為だったから。
と、少年の表情が、徐々に不審そうに変わっていく。
シトラは、驚いて立ち上がった。
これ以上、少年に嫌われてはならなかった。だが、言うべきことをとっさに思いつけない。シトラは、しどろもどろになった。
「あ、ああの」
尻に押された椅子がぐらりと傾いた。さらに、脚にぶつかってとどめを刺されたらしく、椅子は床に転がった。かん高い金属音が、ベルのように鳴り響く。
直立し、数秒。
あっけに取られた少年の顔を眺めるうちに、ようやく気の利いた言い方を思いつく。
「か、勘違いするのは結構だけど、お静かに願いますね」
(って、静かにするのはわたしのほうじゃん)
自分のおかしなありさまを認識する。シトラは立ち尽くした。
少年はまだ疑っていることを示すように、目を細めている。しかし、さきほどよりは柔らかい口調で話した。
「だったら、なぜこんな時間に?」
椅子を拾い起こし、ふたたび腰掛ける。
「患者さんを早くに起こすなんて、どうかとも思ったんですけど」
シトラは、心臓が驚きで脈打つのを感じた。大きく一回、深呼吸する。
それから、言うべきことを言った。
「少し、お話を聞かせてほしくて」
少年は、またあらためてアスと名乗った。
「あの、名字は?」
「そんなのありません。僕には親が居なかったから」
自分が悪いことをしたように、少年はうつむいた。
彼の黒い髪は短い。そんなふうにしていても、よく表情が窺える。悪いのは当然自分なので、シトラはすぐ謝った。
「あ……ごめんなさい」
沈んだ声で、少年が答える。
「いえ」
低くなった頭から、看護帽がずり落ちそうになった。シトラはそれを押さえる。そして、そろそろとかぶりなおした。
(ううっ)
会話も途切れ、気まずい沈黙がただよう。
(何から聞いたらいいのかな)
思案して、シトラは思いついたことを聞いた。
「ええと、職業は?」
「それは……空士に決まってるじゃないですか」
聞きなれぬ単語があったので、シトラは頭を捻った。
「クウシ?」
「飛行機を動かす者のことです。ここでは何と言うのか、知らないけど」
「飛行機……じゃ、やっぱり」
シトラは確信して、こぶしをぎゅっと握り締めた。それを膝に当て、少し前のめりになる。
少年は、まぶただけでうなずいた。
「ここに墜落したのは、たしかに僕です。もしそのことを言ってるんなら」
思い出すように、少年は目を閉じた。
「でも、なぜ墜落を?」
「墜落」
少年は苦笑いをうかべる。そんな程度の笑顔さえ、シトラは見たことがなかった。
「僕は、帝国軍の偵察機でした。この」
頭を枕から浮かせて、病室を見回す。
「病院の上を通った時に、撃墜されました」
「撃墜……それで、そんなに怪我を?」
「はい。"生きてるのは奇跡と思え"。ここの医者にそう言われました。そのかわり、飛行機は完全になくなってしまって」
シトラは嘆息する。やはり、予想通りだった。
「そうだったんですね。じゃあ、アスさんはどこか外国から来たんですか」
「そうです」
少年は、視線を天井に向けなおした。
「あの、看護婦さん」
「はい」
「さっきはすいませんでした。とつぜん、怒鳴ったりして」
シトラは、首を素早く横に振る。
「別に、謝ってもらうほどじゃ」
「でも、あまり驚かさないでください。僕がここでどんな風に思われてるか分からないけど、僕だっていちおう人間なんです」
静かな調子を保ったまま、少年は上を見ている。その眼差しは壁を突き通して、天空を眺めているようだった。彼が行き損ねた天空を。
「寝首をかかれるよりは、せめて、きちんと宣告されて殺されたいので――」
少年はあっさりと言った。あまりに自然に言うので、シトラには、そんな深刻なことを言っているように聞こえなかったのだ。
が、よく考えてみると、それは当然のことだった。少年の立場にしてみれば。
それでも、言うのを止められない。
「な、何を言ってるんですかっ」
立ち上がり、声を張り上げる。少年の体が、視界の下側に移動した。
今度は彼があっけに取られたらしい。口がわずかに開いたままだった。
「馬鹿なこと言わないでください。ここは病院ですよ」
心から湧き出るままに、言葉をそのまま放っていく。自分がなぜ怒っているのか、よくわからなかった。
「患者さんを傷つけることなんて、絶対ありません!」
頭に血が上るのが分かる。
さっきの少年ほどではないが、大声が出ていた。
「でも僕は、あなたにとっても敵なんじゃ? それどころか、ここの人たちは全員、僕を憎むだろうって思ってたんです」
「そんなの関係ありません。敵でも味方でも、治療するのが病院の役目なんだから。それに……」
シトラは口ごもった。
昨日のフリュクテの顔が、脳裏に浮かぶ。
そのように言っていいのかどうか、確信はなかった。だが、シトラは結局口にした。
「きっと、みんなあなたが憎いわけじゃない。ただ、戦争におびえているだけなんです。ここに篭った生活がいつまで続くのか、不安なんですよ」
「本当に? 故郷では、捕虜は全員殺されると言われていて。ほんとうは、なぜ僕を病院に運んだのかも不思議に思ったくらいなんです」
少年は瞳を丸くして語った。
「それで僕は、ほとんど寝れませんでした。いつ処刑場に連れて行かれるのかと」
「なら、きっと今日からはよく眠れます」
シトラは気持ちよくほほえんだ。
そして、また椅子に座る。風も通らない病室の中で、こんな素直なことを言うのは久しぶりだった。
少年は、包帯だらけの体をよじった。負傷だらけの体が、さらに深く寝台に沈む。
「じゃ、そう思ってていいんですね」
「もちろん、わたしが保証します。といっても、わたしはまだ看護婦として見習いだけど。でも、この病院で捕虜を傷つけるなんて、どう考えてもありえませんから」
告げると、少年は寝息のように深く息を吐いた。
「よかった」
まるで彼は、たったいま、災難から助け出されたようだった。少年の動きに、寝台がわずかに震える。
「いままではとても、生きた心地がしなかったんです。この病院にいる間は生きてられそうですね」
「え、ええ」
シトラはすぐに返事をしかねた。
さすがに、病院の外のことまでは分からなかった。怪我した捕虜が後にどういった処遇を受けるのか、聞いたこともない。
「私、退院したらどうなるのかは聞いたことなくて」
「戦争が終わったら故郷に帰れるか、それとも、その前に処刑されるか。そのどっちかですよ。でも、捕虜がどこに送られるか、とかは見たことはないんですか?」
「はい。病院で戦争のことを話したりするのは、えっと」
シトラは、ぴったりする言葉を探してしばし沈黙した。ほどなく、思いつく。
「タブー、って言うんでしたっけ。とにかく、あまり大きな声では、誰も。でも、傷ついて運ばれてくる人たちもいっぱいいるから」
「そうですか」
少年はもっと何かを言いたそうだったが、じっと黙り込む。彼もきっと不安なのかもしれない、とシトラは思った。
「やっぱり、故郷に帰りたいですか?」
シトラは問うた。
「それはもう、帰れるのなら、すぐにでも帰りたい。でも今は、生きているだけでも運が良かったと思うべきなんでしょうね、きっと」
自分のことなのに、少年の口調は淡々としていた。何か大きなものを、どこかに置き忘れてきた――そんなふうに、眼がどんよりと沈んでいる。
シトラは話題を変えた。
「そういえば、ここに来る時に……海、見えました?」
少年はちょっと変な顔をした。
「海?」
少し考えてから、少年は答える。
「見るどころか、故郷から飛んでここに来るまで、ずっと海の上でしたよ。でもここからは見えないんですね」
彼は、首を窓のほうに向けた。その窓に、シトラは近づく。
「そうです」
音を立てないように、そろそろと窓を開けた。乾ききった風が頬をなでて、室内に入り込んでいく。
朝だというのに、はるかな空にあるはずの太陽は姿を見せていない。幾条もの人工の光が、無機質に世界を照らすばかりだ。
「ここは地下だから」
窓から顔を出す。
目を凝らさずとも、鋼鉄で作られた「天井」が容易に見える。地上よりの狂音を跳ね返し、そして光までもさえぎる、あまりに強情な壁だった。
それは、何万人もの人が暮らすこの地下の居住区を、守るためのものだ。
だが、シトラは物憂い気分で言う。
「ここは安全だけど……でも、太陽の光だって射し込まないんです。すぐ外には、海もあるのに」
荒涼たる地上に、暮らす人はもういない。"鐘"の影響はもちろんのこと、異国からやってきた飛行艇がたびたび襲来してくるからだった。
壁が厚ければ厚いほど、人々は長くいき延びるということになる。しかしそれは、暗い湿り気を隠せない地下に生涯閉じ込められ続けるということでもあった。
「海? ……が、好きなんですか」
少年が不思議そうに聞く。
シトラはふと、思いついた。
(この人は、そんな所から来たんだ。閉じこもっていなくても、いい場所から)
あまりにも長い間、シトラはそんな土地から隔たってきた。映像として再現しようとしても、思い出せるる物は少ない。幼児だったころは持っていた、かすかな自由の息吹――芽生える前に摘まれた意識の塊が、記憶の底に泥水となってたゆたっている。ただ、それだけだ。
それに形を与えようとすることは、無理な話だった。まだ一度も持ったことがないのに、思い出せるはずがない。
しかし、一つだけ違うものがある。
「はい。とっても」
シトラは、不自然なほどにっこりとして言った。自分のえくぼを、泣きたくなるほどに上げる。
どこに居てもまぶたの裏に見られるのは、海だけだった。
その晩、シトラは数年ぶりに涙を流した。




